会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

超健康法(4)マット(片膝立て)

(前回より続く)

<朝、目覚めた時に蒲団の中で>

「生命体の機能のひとつに、夜寝ているうちに、疲れをリセットしてくれるという不思議なものがある。それでも十分回復しきれないところをマッサージ体操で疲れをとるのが、非常に効果的だと思うのだが、できる?」

「となりに嫁さんが寝ているから怒られるよ。」

「じゃあ、仕方がない。マット体操としてできる部屋でやろう。」

 <片膝立て>

「じゃあ、まず、仰向けに寝て、右膝を立ててくれる。?」

3マット

「「これでいいかな。」

「OK。立てた脚で体を左右に倒しながら、マッサージをするんだ。

左手は横に広げて、右手は胸に置く。体を左に倒しながら、右手をずらすように肩から左手でさすっていく。伸ばした腕を、内側と外側を交互に上に向け、行くときは、腕の外側を、戻るときは腕の内側をさする。手だけでマッサージするのではなく、体全体でマッサージする。このときに、『全意識』になって、つながりを感じる。すくなくとも、体の内側のつながりは感じてほしい。これをしっかり覚えるのがポイント。反対側も同様にする。」

「マッサージの方法はこれだけ?」

「いや、バリエーションは無数にある。基本が分かればさまざまなマッサージ体操が自分でできる。」

(次回に続く)

超健康体操(3)

(前回から続く)

<意識を調える>

「マッサージ体操は、見た目は普通のヨガ、ストレッチ、体操と変わらないのだけれど、意識が大事なんだ。」

「うん、わかった。」

<椅子にすわってするマッサージ体操>

「マッサージ体操を始める前に椅子に座った状態でまず、精神統一をする。姿勢はまっすぐにして、頭が上から引っ張り上げられていると言うような意識だ。

気持ちは『さぁやるぞ』と言うような姿勢で、鼻の奥がやる気で熱くなって、腹は引っ込み、みぞおちは上にあがり、丹田に意識が集中させる。呼吸はゆったりしておく。」

「みぞおちが上にあがるというのが分からないな。」

「いいよ、そのうちわかるようになるから、腹をひっこませるだけでいい。」

「わかった。」

「この時、意識は『大生命』につながる。すべてを意識する状態を続け、1点にだけ意識を集中すると言うようなことをできるだけさけるようにする。」

「むずかしいな。」

「そう、慣れるまで、こんなことが難しい。」

「椅子に座って腎臓の後に両手をあて上半身がまっすぐ立つことを助けてあげる。

体の前で掌を上に向けて手を組む。肘を横に伸ばす。その手を体の前で、頭頂に向って上げていき、途中で返して、頭頂にくれば、手の甲の方を頭頂のほうに向け、手のひらを天に向ける。こんどは、体の前を途中で返して丹田までおろす。再び頭頂にあげる。これを繰り返す。」

「何回ぐらい?」

「上体が安定してまっすぐ立つようになれば3回でもいいし、思うようにならなければ、30回でもいい。」

椅子1-1

「一応、ひととおり基本を説明するけれど、1回ではうまくいかないと思うよ。とくに、説明を受けているときにそちらに集中してしまうから、『全意識』は消えてしまうね。それが普通だから、最初はそれほど気にせずにやればいい。」

「そうさせてもらうよ。あれもこれも同時にしなければいけないとなると、パニックになってしまう。」

「まず、椅子に真っ直ぐ座る。精神統一をして『全意識』になる。そのまま、上半身は伸ばしたまま手を膝(ひざ)に置く。脚の内側と両足の指先に気を入れる。これがスタートだ。」

「うん、OKだよ。」

「手は上体の傾斜に応じて、脚の側面をすべらせながら膝、足首を通って、指先にまでいくのだが、背中はまっすぐのばしたまま、頭頂が引っ張られていくような感じで前へ倒していく。」

1-2椅子

足先の小指から親指まですべらして、上体を立ち上げながら、内側を通って足首、膝、内股、腰へと戻る。これを繰り返す。」

「これだけ?」

「そう、バリエーションはきりなくあるが、これが基本。奥は深いが、最初は形をまねして、体感を重ねれば分かってくる。」

椅子1-3

(次回に続く)

 

 

 

 

 

超健康体操(2)

(前回より続く)

<超健康のマッサージ体操>

「超健康のマッサージ体操には普通のマッサージや、体操とかなり違ったものがあるんだ。」

「え、ヨガのポーズみたいなのはできないよ。」

「いや、難しいポーズはないよ。だから見た目は同じように見えると思うよ。」

「良かった。僕は、ポーズは苦手だ。」

 

<体全体をつなげて動かす>

「体全体を動かす、言葉を変えれば全筋肉を動かすということがその違いかな。」

「ふつう、体操といえば、腕とか脚とか腰を動かすイメージだけど、全身を動かす?」

「そう、体は全てつながっているんだ。だから、超健康のマッサージ体操は、筋肉や、各部位のつながりを意識しながら、マッサージ、体操をするのだ。」

 

<体を内側からマッサージする>

「それは、体を内側からマッサージすると言う意味があるのだよ。」

「内側からマッサージ?」

「そう、その感覚を味わうことがポイント。だからゆっくり味わいながら動かすことが大事なのだ。また、体の全体を意識することで体全身の各部位のつながりを高める。さらにもう一つ、体の奥からのつながりも高めるようにする。それが一般のマッサージとの大きな違いだと思う。」

「内側からマッサージするなんて言われると、ドキッとした。でもまだ半分くらいしか分かっていない。奥からのつながりというのも分かりづらい。」

 

マッサージ体操のポイント

「それでは、マッサージ体操のポイントを言います。1つは体全体を動かすことが基本になります。次に体の内側から沸き起こるキラキラ輝くエネルギーを感じながら行うこと。

体の奥からエネルギーを起こさせる。それを体中に行き渡らせ、外のオーラまで輝かせる。そういう気持ちです。また体を1部分だけ動かす運動はできるだけ避けて、体全体の運動でマッサージすると言う意識が大事。」

 

「オーラってよく聞くけど、分からない。」

「僕も針治療で体験したのだけど、体の外側を覆っているもので、針が入った瞬間に白っぽい半透明の色でくっきりと見えた体験がある。普段は光のようなものとして見えるが、攻撃的な憑依霊と対面したときは、全身が覆われた感じがした。それもオーラに含まれるのかどうかはわからないが、ここでは肉体の外側を覆っている気体のようなものと思えばいい。」

「まあ、なんとなく。体から出ている光のようなものととらえていいかな?」

「うん。そんなものだろう。知性で全て理解する必要はない。」

 

<マッサージしたいところを動かす>

「一般のマッサージと違ってマッサージしたいところへ体全体を使って手足を導くのがこのマッサージ体操の特徴といえるだろう。マッサージ屋さんでは自分の体はじっとしたまま施術師の手や体が動くのだけど、自分でするマッサージ体操はマッサージしたい所へ体を動かして、使用する手や足を導いてコントロールする。また笑顔で行うこと。笑顔は体全体を弛める。弛めた状態で体を動かすとその効果は高まる」

「意識が大事なことは分かったので、具体的にどういうことをするのか教えてくれるかな。」

(次回に続く)

 

超健康体操(1)

( 前回より続く)

「私が50年もかけて自分の体を元の体に戻そうとあらゆる努力をしてきたと言うことを知っているかな。」

「いや、いつも元気そうだけど。」

「50年前私が東京から帰ってきたとき、隣の人は、隣の兄ちゃんいつ死ぬかなと思ったらしい。」やせて青白く皮膚から粉が噴いたような、かさかさした肌をしていた。その時私は気づいてなかったのだけど筋肉が硬直してしまっていて、血行は極めて悪くなっていた。持っているものを落としてしまったり、直前の記憶を無くしたり、くずしたバランスを回復できなくて、はしごから落ちたり、一日に一握りの玄米の粉だけしか食べられないという日もあった。その後指圧、鍼灸、気功、ヨガ、温泉などで、少しずつ回復していった。」

「そんなことがあったのか。知らなかった。」

「数年前、すっかり回復していると確信していたが、突発性難聴になって指圧治療を受けた時に、50年たった今、まだ奥のほうに一般の人には見られない筋肉の癒着が残っていることを告げられた。この奥の癒着については過去に受けたあらゆる治療法で効果が見られない。そこでカムナガラの生き方で50年間の集大成ともいえるマッサージ体操をやり始めたんだ。紹介するよ。」

「カムナガラのマッサージ体操と普通のマッサージ体操はちがうのか?」

「うん、違う。見ただけでは気づかないかもしれないが、つながりを中心に行うところが全く違うものといえる。」

「つながり?何それ。」

「意識だよ。体の内側も頭の頂点から、足の裏、足先まで全てつながっている。腰と肩、首は別々のものではない。そして、環境ともつながっている。」

「環境とつながっているって?」

「そう、環境ともつながっている。気功はまわりに存在する気を取り入れるし、体は重力と無関係ではおれない。実際に、人は呼吸によって空気を入れたり出したりしている。食事をし、排便をする。」

「ふだん、あまり意識しないけど確かにそうだね。」

「で、どんなことをするのかな。」

(次回に続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カムナガラ(惟神)・古神道

「カムナガラの生き方をしてるんだって。カムナガラってどういうこと。」

「うんカムナガラっていうのは神ともにと言う意味なんだ。神と言うのはあらゆるものに内在している宇宙創造の神のことで自然の森羅万象の中に内在している神を意識して生活することなんだ。

今は誰もそんな生き方をしている人がいないので少し理解が難しいかもわからないね。でも古代にはそういう人たちがたくさんいて日本の古神道はそれを受け継いだらしい。つい最近までカムナガラを引き継いだ人たちがいたのだが、今はその最後の人たちも亡くなってしまったようです。私はその人たちから受け継いだのではなくてたまたまたまカムナガラの生き方を始めたんだ。その人たちは超能力があったようだけど、私にはないよ。」

「普通の生活とどう違うの。」

「意識が全意識(私の造語)と言って宇宙全体を意識する意識で生活のあらゆる行為を行う。つまり座禅なんかで仏や神を意識することを日常生活の中で行うのだ。」

「かなり難しくなりそう。」

「かなり難しい。だけど慣れればできる。昔は言葉がなかったから、全面的にその意識で生きていたのだ。だから特別な事でもない。

言葉ができると目先の事から教えて最後にカムナガラの意識になる。今はその時代が終わろうとしていて、また再びカムナガラの意識から日常の行為を考えると言う、そういう時時代になろうとしている。つまり法華経で教えたのと全く反対の方向からのアプローチだと言うことだよ」

「やっぱり、難しくない?」

「そう、かなり難しいと思うよ。今の時代だから。だけど実行するのはしやすい。人の元の生活のやり方に戻るだけだから。」

「具体的にはどんなことをするの。」

「まず環境とつながっていると言うことを知らなきゃいけない。そして見えない世界を意識しなきゃいけない。意識することで強いつながりのパイプを作る。」

「そんなことをしたことがないからピンとこないな。誰でもできることなのかな。」

「いやできない人も居ると思うよ。だけどできる人がやっていくと、できなかった人たちもできるようになる。そういうものなんだよ。」

「じゃあ、僕もできるかなあ。」

「十分にできるよ。」

「で、メリットは何?」

「メリットは間違った生き方をしなくなる。だから楽しい。」

「じゃあ、宗教団体でも作ろうというの。」

「そう、自分はどういう生き方をするべきか真面目にそういう考え方をする人は座禅とか宗教とかで悟ろうとしてきた。でも私がしているのは、宗教じゃなくて特別な教えもない。元の人間に戻って、本来人間が持っていた習慣を取り戻っして活き活き、楽しく生きようとするだけなんだ。」

「?」

「元に戻るだけなんだからできないことをしようと言うのではない。過去にやっていたことを忘れてしまったが、とても大切なことなので、またやり始めようと言う事なんだ。

だけど、法華経なんかで最後に教えることを最初にやろうと言うのだから戸惑うと思う。」

「…」

「ことばで直接説明できる内容じゃないので、誰も説明してこなかった。でも、体験すれば分かってくる。まず、体験が必要だ。」

「体験ってどうするの?」

(次回に続く)

法華経16(人の原点・奉仕)

「人が最高にしあわせになれるのは奉仕のときですね」友人がそう語りかけました。

「そうですね。創造神が人を創ったのは、自分の創造世界の一部に、人に大いに活躍してもらうためで、人はその原点で創造神に奉仕する心を持って創られているからね。」

「その奉仕の喜びを書いた本がありますよ。谷崎潤一郎の『春琴抄』です。薄い本ですからすぐ読めます。いちど読んでみてください」と言われました

大阪道修町(どうしょうまち)の薬種商の娘、鵙屋琴(もずやこと)と丁稚、温井佐助(ぬくいさすけ)との恋物語?です。琴女は器量よしで、読み書き、芸も人よりぬきんでて、両親は他の兄弟にぬきんでてこの子を寵愛した。ところが、九歳の時に失明した。失明のあと、四歳上の佐吉が奉公に入った。佐助は琴女の手を引くことになります。

琴女は御嬢さん育ちの上、盲人特有の意地悪さも加わって、佐助は琴女の顔つき、動作を見落とさないよう、油断のひまがなかった。手を引くときに、柔らかい小さな琴女の手を自分の掌にのせて、佐助は感じる心があったが、相手は雲の上の人。しかし、ときが立つ中で二人は肉体的に結ばれるが、琴女は自尊心ゆえ、それを隠し通して佐助との仲を認めない。

その後、琴女の寝室に忍び込んだ賊に琴女は顔に熱湯をかけられ、大やけどを負う。みにくくなった顔を人目に見せず、佐助に見られることをいやがる。佐助はそれを知って自分の黒目を刺して自分も失明する。、

「ああ、これが本当にお師匠様(琴女)が住んでいらっしゃる世界なのだ。これでようようお師匠様と同じ世界に住むことができた。」と思った。

「誰しも眼が潰れることは不仕合わせだと思うであろうが自分は盲目になってからそういう感情を味わったことがない。寧ろ反対にこの世が極楽浄土にでもなったように思われ、お師匠様とただ二人生きながら蓮(はす)の台(うてな)の上に住んでいるような心地がした、それというのが眼が潰れると眼あきの時に見えなかったいろいろのものが見えてくる。お師匠様のお顔なぞもその美しさが泌み泌みと見えてきたのは目しいになってからである。

その外手足の柔らかさ肌のつやつやしさ、お声の椅麗さもほんとうによく分るようになり、眼あきの時分にこんなにまでと感じなかったのがどうしてだろうかと不思議に思われた。

取り分け自分はお師匠様の三味線の妙音を、失明の 後に始めて味到し た。いつもお師匠様は斯道の天才であられると口では云っていたものの漸くその真価が分り、自分の技量の未熟さに比べてあまりにも懸隔があり過ぎるのに驚き、今までそれを悟らなかったのは何という勿体ないことかと自分の愚かさが省みられた。

されば自分は神様から眼あきにしてやると云われてもお断りしたであろう。お師匠様も自分も盲目なればこそ眼あきの知らない幸福を味わえたのだと。佐助の語るところは彼の主観の説明を出でず、どこまで客観と一致するかは疑問だけれど、も余事はとにかく春琴の技芸は彼女の遭難を一転機として顕著な進境を示したのではあるまいか。

いかに春琴が音曲の才能に恵まれていても人生の苦味、酸味を嘗めて来なければ、芸道の真諦に悟入することはむずかしい。彼女は従来甘やかされて来た。他人に求むるところは酷で自分は苦労も屈辱も知らなかった。誰も彼女の高慢の 鼻を折る者がなかった。然るに天は痛烈な試練を降して生死の巌頭(がんとう)に彷徨せしめ、増上慢を打ち砕いた。思うに彼女の容貌を襲った災禍はいろいろの意味で良薬となり恋愛に於ても芸術に於てもかつて夢想だもし なかった三昧境があることを教えたであろう。」

創造神である「大生命」、法華経のいう「仏」、「仏」が内在する全ての被造物(存在)、そのどれに奉仕しても人は最高の歓びを感じます。今、その環境で自分がすべき奉仕を感じ取り、実行していく。外から見れば苦しみにしか見えないこともあるかもしれないが、実は当人にとっては最高の歓びとなるようです。自分をめくらにしてまで琴女に奉仕した佐助。何も求めなくても最高の幸せであった。これを書かれた谷崎さんは、読者に法華経の真髄を味わせたかったのでしょうか。

 

法華経15(行法経・懺悔)

「目を閉じて、自分と「仏」は一緒にいるのだと自覚しても、眼を開けると現実の世界に意識がかわり、「仏」はどこかに消えてしまう。自分はまだまだだと反省してさらに「仏性」を磨き上げることを懺悔と言う」と、『法華経の新しい解釈』(庭野日敬著)に書かれています。

日本古神道の「かむながら」は森羅万象、全ての存在に神を見、神とともに生きるという生き方をしました。学者たちは、これを多神教だといっていますが、全てに存在する神は唯一の神、創造神であり、全てに偏在する神ですから、一神教です。この生き方は目をを閉じなくても神が見えているのです。意識が神に繋がっている限り、いつも「創造神」であり、「大生命」である神が内にも外にも見えています。

古代において日本人の祖先はこのように「大生命」(「仏」)に意識がつながって生活していました。外国においてもそういう時代があったのでしょう。日本では言葉ができてからもそのような生き方をしている人びとがあったようです。 古神道「かむながら」として知られています。

どの宗教も原点に向かうのですね。「仏性」を洗い出す。「仏性」を磨き上げる。という言葉が紹介されていますが、私は、全ての存在を通して、「大生命」と強くつながる。繊細につながる。さらに強い愛でつながる。さらに多くの存在と広くつながる。そのような意識を持ちたいと思っています。

 

 

 

法華経14(命・仏性)

人は「仏」より、様々な役割をいただいています。人によって役割は異なりますが、誰にも共通しているのは、与えられた自分を活き活きとさせることです。まず、自分を大切に、自分の中の「仏」を喜ばせなくてはなりません。昨日紹介したビッグマウンテンスキーの佐々木大輔さんも、命の危険を感じていったんは断念しました。命に危険を感じた時は、断念して次回の成功のために命を守るからこそ、成功できるのです。

法華経に戻りますが、人々が釈迦の前世である常不経の体に危害を加えようとしたとき、常不経は逃げ出しました。命を守れば「法」をまもり、「法」を育て、「法」をひろめてゆくことができます。

『法華経の新しい解釈』(庭野日敬著)に次のように書かれています。

「楠正成は赤坂城を幕府の大軍に囲まれたとき、戦いはここがおしまいではないのだからiといって、さっさと逃げ出しています。楠正成は深く仏法に帰依していましたから、ほんとうの「柔軟」な心を体得していたのでしょう。そうして赤坂城から逃げ出したからこそ、あとでふたたび赤坂城や千早城その他でさんざん幕府勢を苦しめることができたのです。」

常不経は、人々の中に「仏性」を見出してその「仏性」を拝みだそうとしたのです。それが理解できない人々が常不経に石を投げたのですが、人々を創ったのは創造神である「大生命」です。「仏」です。「仏」が創られたものに内在する「仏性」を大切にする行為は、「仏」に対する最高の奉仕です。こういう奉仕は人を最高に輝かせ、心は最高の喜びで満たされるでしょう。

釈迦が説かれた大乗の教えは、自分だけではなく、すべての人の幸せを願うこころの働きでしたが、全ての人の「仏性」を高めることは自分の「仏性」をより高めることになります。その教えはさらに進めば、人を支える環境である自然のあらゆる存在の「仏性」を大切にし、働きかけて「拝みだせば」(別の表現をさせていただいて、「強いつながりを持てば」)、人はもちろん、さらに自分が、「大生命」(「仏」)により強く結ばれて、「仏」の光が自分に満たされるでしょう。

前回、紹介させていただいた佐々木大輔さんは、人はもちろんですが、自然の「仏性」を大切にし、働きかけて「拝みだして」(別の表現をさせていただいて、「強いつながりを持って」)過酷すぎるというデナリの自然の中でビッグマウテンスキーを成功させることができたのですね。

法華経13(自然との強いつながり)

昨日、9月3日、北米の最高峰、アラスカにそびえるデナリ山に登頂滑降に成功した佐々木大輔さんさんの放送(NHKスペシャル)を見ました.。ビッグマウンテンスキーというようです。

険しい山岳地帯を猛スピードで滑り降りる姿はすさまじいものでした。しかし、緻密な知識と技術が命の極みにありましだ。友人の負傷で1回はあきらめようとしましたが、翌日の好天気で再度ひとりで挑戦しました。みごと、成功です。

「気持ちがあればデナリは開いてくれる。」佐々木さんはそう語りました。

「自然との一体感」、 そういう表現もありました。法華経の言葉を使えば、自分の「仏と」自然の「仏」との強いつながりです。

NHKスペシャル

法華経13(『20歳の原点』)

人に勧められて『20歳の原点』(高野悦子)を読みました。

裏表紙に「独りであること、未熟であることを認識の基点に、青春をかけぬけていった一女子大生の愛と死のノート。学園紛争の嵐の中で、自己を確立しようと格闘しながらも、理想を砕かれ、愛に破れ、予期せぬうちにキャンパスの孤独者となり、自ら命を絶って行った痛切な魂の証言。」と書いています。どうして自殺をしたのかと読んでいたら、睡眠薬の飲みすぎで通常ならいくつもの防御柵でブロックされるような、かすかな自殺願望が実現してしまったケースでした。私の身近でも、ヒロポンの注射でそうなった人達がいます。

この本は彼女が自殺したのちに、残された日記を親が出版したものです。

私も彼女と同世代で、親から離れて一人暮らしの孤独な浪人生活を送っていましたので彼女の心の動きがよくわかりました。。自由である反面、タバコや酒、服薬の危険、食事のバランスなど、アドバイスする本来の環境がなかったのですね。彼女は感受性が強く、知性もすぐれていました。世の中の不合理にも気づいていました。

彼女は次のようにいっています。

「人間は完全なる存在ではないのだ。不完全さをいつも背負っている。人間の存在価値は完全であることにあるのではなく、不完全でありその不完全さを克服しようとするところにあるのだ。

(中略)

人間は誰でも、一人で生きなければならないと同時に、みんなと生きなければならない。私は「みんなと生きる」ということがよくわからない。みんなが何を考えているのかを考えながら人と接しよう。」

日記を読んでいると、まじめで不器用な人間であることがよくわかります。私はいま、ちょうど法華経を読んでいて、この経典が千何百年も前に日本に入ってきているのにどうして日本人のすみずみまで行き渡らなかったのかと残念に思いました。

「人間は誰でも、一人で生きなければならない」のではなく、「大生命」である「仏」によって生かされている。「同時に、みんなと生きなければならない」というのは、一人で生きなければならないのではなく、不完全さを補うために「仏」によって仲間が与えられている。 その上、この年代では異性の友達が喜びを与えてくれるのが普通です。いや、一時その喜びに触れたようですが、その友達を失ったことが彼女をより孤独にしてしまいました。普通のひとなら、このような体験をしても青春のひとつの体験ですんでしまったのですが、彼女は睡眠薬の恐ろしさを知ることなく、ききめが無いからと多量服薬してしまったのです。

戦後のこの時代の親たちは、戦争で何もかも失ってしまい、生活の糧を手に入れるのに寝る間も割いて、必死に働きました。そのかわり、働いた分は生活するのに十分なお金に変わり、豊かさに向って突進し、戦争に負けたにもかかわらず、世界第2位の経済大国を築いたのです。一方で目先の物ばかりを見、哲学や宗教など目に見えないものを意識する生活を失ってしまいました。ここで法華経の精神は失われてしまったのですね。私は両親が特別信仰の深い人であったので、救われたのですが、私の身の回りには、目先の物しか見えず、見えないものは否定して自分が何者かも知らないまま一生を終えた人びとも少なくありません。

それに彼女には憑依があったように思われます。憑依の相手が悪かったようです。彼女が「大生命」を意識して「大生命」の守りがあればこのような憑依は防げたでしょう。一般の人の意識から遠のいてしまった宇宙のしくみを、「仏」はどのようにして若い人に教えていかれるのでしょうか。戦後とがらりと変わった、ゆとり教育、冷え込んだ経済、その先に私たちは何を見出すのでしょうか。