会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

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心の健康9・「聖なるあきらめ」2

鈴木さんの本の中の、いくつかの例を紹介しましょう

<突然の大病で築いてきた地位・財産・人間関係を失ってしまった話>

このような環境の中でこの人は次のようにいっています。

「人間ですから、『あれがほしい』『こうなりたい』という欲望は避けられません。欲望とは単なる『執着』です。そして『執着』とは満たされないことが多いものです。でも、より深い魂の領域に眼をむけたときに、自分が『すっきりして生きること』を本当に楽しんでいれば、たとえ『執着』が満たされていなくてもいい。そう思えるようになりました。」

 <人生の目的・幸せの意味gはっきりできない人>

「人生の目的や、自分にとっての幸せがわからない状態。それはとても困った状態です。なぜなら行動のもととなるべき指針がわからず、自分の軸をしっかり保てていないことになるからです。

そういう人は自分のほしいものを書きだしてそれがなぜほしいのか答えます。そしてそれが叶えられるとどんないいことがあるのかという問いを繰り返すと、皆同じ答えにたどりつくそうです。

「自分も幸せになり、周りの人も幸せになる」

<元総理・吉田茂の話>

どうして総理になれたのかというある人の質問にたいして次のように吉田さんは答えています。

「僕は英語やフランス語、ドイツ語など、なんでも母国語のように話せる人とは違うんだ。外国語がよくできたら外交官で終わっていたのだろうけれでも、それほど得意ではなかったので人の力をうまく借りることを学んだのだ。僕より優れた多くの人の力を、うまく活かしていくことを学んだんだよ。そんなこともしたから総理大臣になれたのかもしれないな。」

私はこれを読んで、学校教育をほとんど受けないのに日本一の高額所得を何年も続けている斎藤一人さん、字の読み書きもできないために、優秀な人材を採用して高額所得を得ている人を思い出しました。自分に能力をつけることをあきらめて、吉田さんのように優秀な人にまかせることを考えるのがさらに優れた道ではないでしょうか。

吉田さんは次のようにいっています。

「自分ができることでも誰かにおまかせして、『いいね』とほめる度量の広さがあるかどうか。これが、人づきあいが上手か、人に好かれるかどうかの差だよ。」

人は心でつながっているということを忘れがちですね。ひとりで、仕事をしたり、生きていると思ってしまいがちですが、気づかないでも人の心のつながりの中で生かされているという現実を再認識させていただきました。

<著者の臨死体験>

「気づくと私は、今までにみたこともないようなきれいな光に包まれていました。それは温かく、気持のいい光でした。光に包まれすべてが一体となった感覚があるのですが、自分の存在はしっかりとあるのがわかりました。

私を温かく包んでくれている光は人格を持つ存在で、深いところで私とつながり交流していました。私は思わず叫びました。

『これが至福だ! 私は今、完全に自由だ!』

そして、その光の主に私は全て理解され、受け入れられ、許され、無条件に愛されていると感じたのです。」

心の深層部分がつながっているところを著者は見せられたのですね。あまりにもすばらしい世界に現実世界に戻りたくないと思う著者に、癒してほしい人がいることを教え、、そして生きていく上で一番大事なこと、”知ること”そして”愛すること。その二つを中心に考えるように諭して現世に戻されます。著者の役割をはっきり教えていただいたのですね。

 

心の健康8・「聖なるあきらめ」1

『聖なるあきらめが人を成熟させる』(鈴木秀子著)に次のような無名兵士の祈りが紹介されていました。

「ある兵士の祈り

大きなことを成し遂げるために力が欲しいと神に求めたのに

謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるように健康を求めたのに

より良きことが出来るようにと病弱を与えられた

幸せになろうとして富を求めたのに賢明であるようにと貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようと成功を求めたのに

得意にならないようにと失敗を授かった

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに

あらゆることを喜べるようにと生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが

願いはすべて聞き届けられた

神の意に沿わぬものであるにもかかわらず

心の中の言い表せないものは全て叶えられた

私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ

(訳:G・グリフィン神父)

この本では、人が持つ執着心を手放すことで、与えられるものがあり、それに感謝することで人は幸せになれることを紹介している。それを著者は「聖なるあきらめ」と呼んでいる。この兵士の祈りは、心の表層部分と、心の深層部分を示し、その間に神の愛の働きがあり、自分を幸せにしてくれたことに気づき、感謝している。

こころの表層部分の望みはここでは達成されなかったと書いていますが、達成されたところで、どこまでいっても満足することがないのに、深層部分の「心の中の言い表せないもの」は叶えられると満足し、幸せになり、感謝できるものなのですね。

だから、心の表層部分の「あなたが理性で理解している望み」に執着しないで、手放しなさい。それらは本当のものではない。そうすれば、深層部分の「心の中の言い表せない本当の望み」を手に入れることができますよと言っています。

そういうことなら、私たちは心の表層部分に現れる望みがあたかも自分の望みであるかのように勘違いしているということなのですね。表層部分での望み、たとえば、お金を持ってお店にものを買いに行くとか、食べたいものがあってお店にいって食べるとか、行きたいところがあって電車に乗るとか、そういう単純な望みが得られる心の表層部分の働きを、複雑で見えない世界に働く心の深層部分の働きを同じものと考えてしまっているのですね。

心の健康7・日本人の心の中の宗教

『こころの最終講義』(河合速雄著)より紹介します。神道にしてもカムナガラの時代から古神道、現代の神道に至るまで、内容は変遷しています。先日キリストの迫害の時の話を紹介しましたが、隠れキリシタンが持っていた『天地始之事』には、聖書と違って、「原罪」については記さず、デウスの神についても仏教的な修正が加えられています。

丁度奈良時代に仏教が入ってきて、仏教派と神道派で戦いが起こりますが、その後両方の融合が起こり、もとの仏教、神道とは違ったものになっていきます。神仏融合と呼ばれています。西洋世界では許されない発想です。

1549年にフランシスコ・ザビエルが日本に来ますが、この人は先日「零操」で紹介したイグナチオ・ロヨラと一緒に伝道を始めた人です。

このザビエルが犯罪を犯して日本から逃げてきたヤジロウー(鹿児島の人)とマラッカで出会い、の日本の文化程度の高いことを知り、期待をして日本にやってきます。戦国時代の最中です。戦いに必要な鉄砲を持ってきたこの人たちは大歓迎で受け入れられました。信長にも受け入れられました。秀吉は仏教とキリスト教の間に起きた戦いが起きた時に、1587年に宣教師追放令を出します。家康になると、封建制を布いて徳川を安泰に導こうとしたので、徹底的にキリシタンを取り締まります。

日本の国の統治とキリスト教は合わなかったということですね。家康のキリシタン厳禁の1613年から、1873年キリシタン禁制の高札が撤去されるまで、250年以上、キリシタンは隠れて信仰していたのです。聖書とは違った内容で。

宗教自由の時代、いまはさまざまな宗教の人々がいます。その人たちの心に住む宗教はどんなものでしょう。家によっては親戚の付き合いなどで、複数の宗教を信仰しています。

心の健康6・二十歳の心

私と同じ時代に高野悦子という女の子がいた。京都の大学に通っていたのだが、田舎から出てきて一人で暮らしていた。まじめな子でよく本を読んだ。ただ、すこし人付き合いが苦手なようだった。この子が書いた日記が残されていて、この子の自殺のあと、親が発見して、それを本にした。それが、『二十歳の原点』(高野悦子著)だ。

この子の日記を読んで私は時代を感じた。この子や私が育った環境は学校教育で神を否定していた。小学校5年のときだったか、クラスにある新興宗教団体の御嬢さんがいた。授業で担任の先生が、

「宗教なんてインチキだ。神などというのはいない。」

と、断言した。それを聞いたこの子は、教室を飛び出し山の中へ逃げて、その子はその日は戻ってこなかった。仲のいい遊び友達だったので私も一緒に飛び出したい気持ちだった。なんと無神経な先生だ。もし、それが正しかったとしてもその子の前では言ってはいけない。私は一日中苦しかった。

私の家は仏教だったが、親は寺の世話をしたり、講に参加したり、熱心だった。神社の行事にも参加していた。「いつも神様が見ているよ。」と教えられて育った。家には、神だな、仏壇もあった。

私もたった一人で東京でアパート生活をした。自炊だった。受験生活だったので、友達もいなかった。時代背景も同じ。両親から離れ、相談相手もいない。安いために防腐剤の固まりみたいなハムコマを良く買った。大好きないかの塩辛を大量に食べた。私は腎臓を悪くして、そのために大学病院の診察によって、服薬した。ドイツの腎臓の新薬を5年間3食後に服用したため、体中の筋肉が硬直してしまった。この回復に実に50年の月日がかかっている。

彼女は睡眠薬を多量に服用したため、幻覚を起こして電車に飛び込み自殺をしてしまった。当時20歳という年齢は社会生活の情報も少なく、頭でっかちで部分的な知識はあっても生活の知恵はあまりにもおそまつだった。私はキリスト教会を訪れ、聖書も読んだが、その理解は表面的で感動はしてもイエスとつながることはなかった。妖しげな宗教団体の話も聞きにいった。あとでオーム真理教の事件があってよく免れたものだと胸をなでおろした。

 

 

心の健康5・最も深い心3

心の健康4・最も深い心2より続く)

<マントラと愛の本性>

それを耳にして、導師の笑っておっしゃった言葉。

『クシシュナの御名という偉大なマントラのそれが本性。つぶやく人の心にクリシュナへの(愛という)情感を産み付けるのです。クリシュナへの愛こそが人にとって最高の目的。その前では人生の4つの目的などは、ちっぽけな草同然。人生の5番目の目的は愛により生じる悦び、その甘露の海。その前では解脱などの目的は、その一滴にもなりません。クリシュナの御名の果実は愛であると、あらゆる聖典が語ります。幸いにもその愛があなたの心に生まれたのです。

愛の本性により、心や体は揺り動かされ、クリシュナの足元に近づきたいとの欲望が生まれます。

愛の本性により、信者は笑い、泣きそして歌い、酔いしれて踊り始めて、あちらこちらと駆けめぐり、汗、震え、総毛立ち、涙、声はうわずり青ざめる。狂気、失意、忍耐、うぬぼれ、悦び、そして苦悩。こうした状態にして、愛は信者を踊らせて、クリシュナの悦びという甘露の海に漂わせるのです。

<踊りなさい、歌いなさい>

良かったではないですか。あなたは最高の人生の目的を手にしたのです。あなたに生まれた愛を見て、私の願いは叶いました。踊りなさい、歌いなさい、信者の方々と唱和しなさい。クリシュノの御名を教えて、あらゆる方を救ってあげなさい。これはバーゴヴォト(バーガヴァタ)の核心ですから、何度も口にしなさい。』

とおっしゃって、詩句をもう一つ教えて下さいました。この導師の言葉に絶対の信頼を置き、休むことなくクリシュノの御名を唱和しているのです。

クリシュノの御名が時には歌わせ、時には踊らせるので、歌い踊っているだけで、私自身の気持ちからではありません。クリシュノの御名で味わう、悦びの海の前では梵の悦びなどは、ちっぽけな壺に入れた水同然。」

心の健康4・最も深い心2

霊操 第1日目 チャイタンニャ1・霊操1

第1日目 初期の嬉戯 (第7章 5つの心理の物語より抜粋)

<チャイタンニャを招待する>

「『一つお願いがございます私はカーシー在住のバラモンで(遊行の方を食事に)招待して、心安らかに暮らしております。もしあなた様がいらしてくだされば心が完全に満たされます。(当地の)隠遁者とつきあっておられないことは、存じ上げておりますが、私の招待をお受け下さって、願を叶えていただけないでしょうか。』

師は微笑みながらその招待をお受けになります。その隠遁者を慈しんでのお振舞なのです。バラモンは師がどの隠遁者の家にもいかれないのは知っていましたが、チョイトンノ師が心に念じ、その気にさせてしまわれたのです。

招待の日にそのバラモンの家に行かれると、すでに隠遁者の方々が座って待っているのを目にされ、一人ひとりに挨拶し、足洗い場に向かわれて足をすすいでその場に腰を下ろされた。

全ての隠遁者の師匠である、プラカーシャ・アーナンダという方が

『どうぞこちらへ、どうぞいらしてください、慈悲深きお方!不潔なところにお座りになったままとは、お疲れになっておられるのですか。』

『私は(格の)低い学派で隠遁者になりましたので皆様方の集会に座を占めることなどできません。』

とお答えになると、ブラカーシャ・アーナンダ自身が(師の)手を取って、その集まりの真ん中に、恭しく席を勧め尋ねはじめる。)

『お名前はクリシュノ・チョイトンノ師と伺っております。ケーシャヴァ・バーラティのお弟子であるとは、恵まれた方。(公認されている)学派の隠遁者として、この町におられるのに、どうして私たちの集会に、お見えにならないのでしょうか?

<踊り歌う理由>

隠遁者になられたのに、踊り歌われ、酔いしれた人々引き連れて、唱和しておられますが、ヴェーダンタを読み、瞑想に耽ることが隠遁者の務め。それをなされず、どうして、どうして酔い痴れ者の振る舞いをされるのでしょう?』

チョイトンノ師はおっしゃる。

『その理由をお聞きください、尊いお方。私の師は、私が愚か者であると見抜かれて、指示されました。』

『愚かなお前にはヴェダント(ヴェーダーンタ)を読む資格がないからクリシュナに捧げるマントラを常に唱えなさい。ヴェダントの核心ですから、クリシュナに捧げるマントラにより、輪廻から救われ、クリシュナの御名により、クリシュノの御足を得られるだろう。コリ(カリ)の時代には、御名以外に他の務めはなく、すべてのマントラの核心が、その御名にあるというのが聖典の神髄。この詩句を記憶にとどめ、熟慮するように。』とおっしゃって一つの詩句を私に教えてくださいました。

この言いつけに従って、絶えることなく御名を唱え、御名を唱え唱えて、心から知識も何も全てなくなって、冷静になることができずに、心は酔い痴れ、笑い、泣き、踊り、歌って、まるで酔っ払い。ある時、我に返って考え込むと、私の知識はクリシュノの御名ですっかり覆われています。冷静になりきれない私は、気が触れたのだと心配になり導師の足元に訴えました。

『先生! いったいどんなマントラを授けて下さったのです、なんという力! つぶやけばつぶやくほど私を狂わせてしまいます。笑わせ、踊らされ、さらに泣かせるのです。』

(心の健康5・最も深い心3に続く)

 

心の健康3・最も深い心1

私がイグナチオ・ロヨラの「霊操」にならって心のメンテナンスに取り入れている最も深い心を紹介します。

500年前にインドに降誕したチャイタンニャ(本ではチョイトンノというベンガル語の記法が使われている)という方がおられます。この方は私たちに生きざまを教える役割をもって降誕されたので同じ生き方は誰にもできませんが、チャイタンニャの行動を味わうことで最も容易な方法で究極の生き方を取得できます。

チャイタンニャがどのような優れたヴェーダンタ研究者も太刀打ちできない深い知識をお持ちでしたが、ふだんそれを説かれることはありませんでした。

普段のチャイタンニャはクリシュナの遊戯に意識を合わせて、マントラを唱えて歌い踊り、歓喜が限界を超えて、たびたび失神されました。それだけでなく、関節を留める筋肉の緊張さえも取り除くほど、根源神に身を預けてしまわれたのです。

この霊操では知性の理解を求めてはいけません。喜びが溢れ出てくる感覚で探すのです。そこに意識をしっかりと合わせます。

 

<チャイタンニャの意味>

チャイタンニャは彼と会う人がクリシュナと見間違えて、宇宙の根源神・クリシュナの愛に酔い痴れたといわれています。

チャイタンニャの強烈な波動がチャイタンニャを見る人を同化させてしまうようです。

チャイタンニャにあった人は全て、クリシュナへの愛と御名に酔い痴れて帰宅したと書いてあります。

私の知る限り、チャイタンニャの波動に触れることが最もたやすく根源神と結ばれる方法です。まず、ここから始めます。

<『チョイトンニョ伝1、2』の利用>

私の霊操マニュアルは第1日目から第4日目までは、『チョイトンニョ伝1、2』(K・コヴィラージュ著頓宮勝訳注)から抜粋したものを読みながら瞑想します。自然に体が動き、声が出るのにまかせます。環境ごとリアルに想像し、感情を伴って、味わいます。

クリシュノという名前がでてきますが、根源神のことです。抵抗のある人は大日如来、エホバ、キリストなどと読み替えてください。

字句のわからないところや、内容の理解できないところは知性で解釈しようとせず、感じるままに受け入れてください。目的は理解にあるのではなく、私たちの無くした能力を取り戻すことにあるのです。私の知る限り、この『チョイトンノ伝』がそれを最も助けてくれるのです。

根源神とのつながりが愛に満たされるものであることを体得するために、チャイタンニャの生き様を体感します。チャイタンニャにふれると、思考を超越して根源神の世界にいざなわれます。ですから、私の知る限り、これが最短コースだと感じています。霊操の最初の4日をチャイタンニャに助けてもらいます。残念ながらチャイタンニャのようにはなりませんが、霊的に真似ることで、根源神との愛のつながりを強くすることができます。

心の健康2・遠藤周作著『沈黙』より恩師の心

<恩師の苦悩>

司祭は牢獄で、この踏絵のまえに恩師の司祭に会わされ、恩師と話をする。恩師は、穴吊りにかけられた信者が殺されるのを止めるために踏絵をしたことを司祭に話すが、司祭は恩師が許せない。怒りの気持ちでいっぱいになる。

「私が転んだ(信仰を捨てるという意味だがここでは踏絵をすること)のは、私が穴吊りにされたからではない。穴吊りにかけられた信者を救ってくれるように神に必死に祈っても神は何もしてくれなかったからだ。お前も祈るがよい。お前も穴吊りにされた信者のために何もできないし、神も何もしてくれぬ。お前が転ばぬ限り、あの信者を助けることができない。」と、恩師が話す。

「あなたは祈るべきだったのに。」と司祭がいう。

「祈ったとも。わしは祈りつづけた。だが、あの男たちの耳のうしろには小さな穴があけられている。その穴と鼻と口から血が少しずつ流れ出してくる。その苦しみをわしは自分の体で味わったから知っておる。祈りはその苦しみを和らげはしない。」

司祭はいう。

「あの人たちは、地上の苦しみの代わりに永遠の悦びを得るでしょう。」

恩師は答える。

「誤魔化してはならぬ。お前は自分の弱さをそんな美しい言葉で誤魔化してはいけない。お前は彼らより自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶといえばあの人たちは穴から引き上げられる。苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとせぬ。お前は彼らのために教会を裏切ることが恐ろしいからだ。この私のように教会の汚点となることが恐ろしいからだ。

わしだってそうだった。あの真っ暗な冷たい夜、わしだっていまのお前と同じだった。だが、それが愛の行為か。司祭はキリストにならって生きよという。もしキリストがここにいられたら。たしかにキリストはかれらのために転んだろう。」

恩師の心の中心にはイエス・キリストがおられた。司祭の心の中心には教会があった。教会のイエスがいた。恩師の言葉によって、司祭のこころに直接イエス・キリストが現れた。司祭はその言葉に従った。

この二人は生涯をつぎ込んだ教会から追放され、二人の間は人間が持つあらゆる感情を含んでいた。憎悪の念と侮蔑の念、運命共有の連帯感、自己憐憫を含んだ憐みの感情。みにくい双子に似ている。と、遠藤周作は締めくくっているが、果たしてイエス・キリストは遠藤周作がいうように、その後の2人の心を占領しなかったのだろうか。

司祭ですら、このあり様であるなら、一般のクリシュチャンはどうだったのだろう。やはり、「、地上の苦しみの代わりに永遠の悦びを得る」という、美しい言葉で自分を誤魔化して一生を終えるのでしょうか。

1806年、肥後国天草での出来事でした。1520年、イグナチオ・ロヨラが書いた『霊操』を思い出しました。『霊操』は聖書のイエスの行動をイエスになりきって瞑想するものです。恩師の司祭はこれができていたのですね。そして、ここでいう司祭、つまり弟子の司祭も恩師の司祭によってそこに導かれました。

唯一神、創造神を祀る宗教を信仰する人はたくさんいますが、その人びとの心は、その創造神で占めれれているのでしょうか。宗教団体の人びとや教条で占められているのではないでしょうか。

そして信者たちは祈ります。祈りによって、束縛も、痛みからも救われることはありませんでした。それでは祈りは何のために行われるのでしょう。意味がないのでしょうか。

いいえ、祈りは真剣度が増すにつれ、心の深いところに意識をつないだのです。表層部分にある自己体験部分から、人類すべてにつながる部分、さらには唯一神につながるところまで、日ごろ体験できないところまでつながったのですね。

「あの人たちは、地上の苦しみの代わりに永遠の悦びを得るでしょう。」と司祭はいったのですが、これは単にきれいごとではなく、『永遠の悦び』とは、その深いところにつながることをさしているのですね。これは本人が真剣に祈らなければ得ることができません。

それで昔、行者たちが命がけの修行をしたのですね。しかし、今日そのような方法をとる人はいません。楽しくそれを手に入れる方法、それがわたしの提案する『奉仕』のマッサージ体操だと思っています。

心の健康1・遠藤周作著『沈黙』より司祭の心

「沈黙」(遠藤周作)は、江戸時代初期の物語です。簡単にあらすじをご紹介します。

日本に密入国したポルトガル人司祭が主人公です。厳しいキリシタン弾圧が行われ、踏絵によって大勢の殉教者を出しました。若い司祭が、日本で布教していた恩師が棄教(信仰を捨てること)したという噂を耳にしました。司祭には、恩師の棄教が信じられませんでした。司祭が日本に潜入した目的は、布教のほかに、恩師の棄教の真否を確かめることにありました。

司祭は、九州のある村に上陸して隠れキリシタンと接触します。しかし、信者の密告により、奉行所に捕らえられました。司祭が踏絵をやらなければ、3人の穴吊りにかけられた信者が殺されることになっています。そこで棄教した恩師と出会います。

司祭は恩師の話すことが理解できません。踏絵をした恩師を非難します。信者のために踏絵を勧める恩師の教えと自分の心の中で苦悩する中で踏絵をやらされますが、そのときにイエスの声を聴きます。 「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」

この司祭の心には、常にイエスが住んでいました。正確に表現すれば、教会の教えるイエスが住んでいました。恩師が司祭に教会の教えるイエスから直接イエスにつないだのです。祈りによって、信者が救われることはありませんでしたが、イエスは、恩師の教えるイエスや信者で満たされたこの司教の心に言葉を与えました。

「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」確かにイエスならこのように言うでしょう。

一般の信者より、信仰心の強い司祭であっても、心に聖書に書かれたイエス・キリストの話がいっぱい詰まっていても、このような境遇で恩師の助けがなければ正常に働かなかったのですね。いや、そこまでの段階にいたからこそ、恩師の助けでイエス・キリストの助言がいただけたのですね。

心は深さを持っているようです。

 

 

 

日常生活の中で行う超健康法(3)

「これから風邪をひきやすい季節になるが、その引き金となるような体の不調をつくらない工夫が必要だね。前回呼吸の話をしたが、その呼吸がやりやすい体を保つことを意識しよう。」

「そうか。風を引きやすい体調ってあるよね。寝不足とか、忙しくて昼食をとる時間がなかったとか、肩が凝ったとか。」

「鼻の横のマッサージ体操をするとか、腕のマッサージ体操をするとか、肩周りのマッサージ体操をするとか、マッサージ体操もしなければならないのだが、その前に生活の中で凝りをもたらす筋肉緊張をできるだけ作らないことだ。」

「そんなことができるの?」

「筋肉緊張をつくってしまうのは、日常生活の中だから、そこを見直せばできる。」

「具体的に教えてくれる?」

「たとえば、机の上での作業だ。背中をまるくして胸を小さくして圧迫していないか。これでは、十分な呼吸はできないよな。上半身をまっすぐにすれば、1回の呼吸量がかわる。だから、机の前に座るときは腰から上をまっすぐにする。」

「そうだね。まるくなっている。」

「そうだ。まるくなっていると、キーボードを打ったり、字を書いたりしても、力が入ってしまう。背筋を伸ばしてリラックスしながら作業することを心掛ける。」

「そうか、まるくなるから力が入ってしまうのか。」

「そうだよ。力を入れようとすると、手に頭の重みをかけようとして丸くなるよな。字を書いたり、キーボードをたたいたり、包丁で切ったりするときは、力を入れないで作業できるように工夫すべきだ。」

「習慣になってしまっている作業だから、治すのに時間がかかりそう。」

「長時間同じ作業が続くときは、こまめに休憩をしながら行うことでも、緊張が続くよりは、回復が入ることで凝りきってしまうことを防げる。」

「仕事はそういうことが多いね。だけど休憩時間もある。」

「工場などではそういう配慮がされているが、農家や自営業は誰も面倒見てくれないから自分でやるしかない。時間を間に合わせるために現実問題として休憩がとれないこともある。そういうときは意識だけでも帰る。」

「どういうこと。」

「意識を変えたら、働く筋肉も少し変わって同じ作業をこなすことができる。やってみて。」

「よくわからないがやってみよう。いや、思い出した。そのとおりだよ。作業の途中で楽しかったことをふと思い出したとき、急に疲れが消えたよ。」

「そうだよ。意識によって疲れ方も変わってくるんだな。だから『全意識』が重要なんだ。『全意識』にはストレスが生じない。ときには活力も与えられる。ふと楽しかったことを思い出したのはそのおかげだ。」

「そうか。意識というのは、こんなに重要なものだったのか。」