会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

カテゴリー別アーカイブ: 法華経

法華経16(人の原点・奉仕)

「人が最高にしあわせになれるのは奉仕のときですね」友人がそう語りかけました。

「そうですね。創造神が人を創ったのは、自分の創造世界の一部に、人に大いに活躍してもらうためで、人はその原点で創造神に奉仕する心を持って創られているからね。」

「その奉仕の喜びを書いた本がありますよ。谷崎潤一郎の『春琴抄』です。薄い本ですからすぐ読めます。いちど読んでみてください」と言われました

大阪道修町(どうしょうまち)の薬種商の娘、鵙屋琴(もずやこと)と丁稚、温井佐助(ぬくいさすけ)との恋物語?です。琴女は器量よしで、読み書き、芸も人よりぬきんでて、両親は他の兄弟にぬきんでてこの子を寵愛した。ところが、九歳の時に失明した。失明のあと、四歳上の佐吉が奉公に入った。佐助は琴女の手を引くことになります。

琴女は御嬢さん育ちの上、盲人特有の意地悪さも加わって、佐助は琴女の顔つき、動作を見落とさないよう、油断のひまがなかった。手を引くときに、柔らかい小さな琴女の手を自分の掌にのせて、佐助は感じる心があったが、相手は雲の上の人。しかし、ときが立つ中で二人は肉体的に結ばれるが、琴女は自尊心ゆえ、それを隠し通して佐助との仲を認めない。

その後、琴女の寝室に忍び込んだ賊に琴女は顔に熱湯をかけられ、大やけどを負う。みにくくなった顔を人目に見せず、佐助に見られることをいやがる。佐助はそれを知って自分の黒目を刺して自分も失明する。、

「ああ、これが本当にお師匠様(琴女)が住んでいらっしゃる世界なのだ。これでようようお師匠様と同じ世界に住むことができた。」と思った。

「誰しも眼が潰れることは不仕合わせだと思うであろうが自分は盲目になってからそういう感情を味わったことがない。寧ろ反対にこの世が極楽浄土にでもなったように思われ、お師匠様とただ二人生きながら蓮(はす)の台(うてな)の上に住んでいるような心地がした、それというのが眼が潰れると眼あきの時に見えなかったいろいろのものが見えてくる。お師匠様のお顔なぞもその美しさが泌み泌みと見えてきたのは目しいになってからである。

その外手足の柔らかさ肌のつやつやしさ、お声の椅麗さもほんとうによく分るようになり、眼あきの時分にこんなにまでと感じなかったのがどうしてだろうかと不思議に思われた。

取り分け自分はお師匠様の三味線の妙音を、失明の 後に始めて味到し た。いつもお師匠様は斯道の天才であられると口では云っていたものの漸くその真価が分り、自分の技量の未熟さに比べてあまりにも懸隔があり過ぎるのに驚き、今までそれを悟らなかったのは何という勿体ないことかと自分の愚かさが省みられた。

されば自分は神様から眼あきにしてやると云われてもお断りしたであろう。お師匠様も自分も盲目なればこそ眼あきの知らない幸福を味わえたのだと。佐助の語るところは彼の主観の説明を出でず、どこまで客観と一致するかは疑問だけれど、も余事はとにかく春琴の技芸は彼女の遭難を一転機として顕著な進境を示したのではあるまいか。

いかに春琴が音曲の才能に恵まれていても人生の苦味、酸味を嘗めて来なければ、芸道の真諦に悟入することはむずかしい。彼女は従来甘やかされて来た。他人に求むるところは酷で自分は苦労も屈辱も知らなかった。誰も彼女の高慢の 鼻を折る者がなかった。然るに天は痛烈な試練を降して生死の巌頭(がんとう)に彷徨せしめ、増上慢を打ち砕いた。思うに彼女の容貌を襲った災禍はいろいろの意味で良薬となり恋愛に於ても芸術に於てもかつて夢想だもし なかった三昧境があることを教えたであろう。」

創造神である「大生命」、法華経のいう「仏」、「仏」が内在する全ての被造物(存在)、そのどれに奉仕しても人は最高の歓びを感じます。今、その環境で自分がすべき奉仕を感じ取り、実行していく。外から見れば苦しみにしか見えないこともあるかもしれないが、実は当人にとっては最高の歓びとなるようです。自分をめくらにしてまで琴女に奉仕した佐助。何も求めなくても最高の幸せであった。これを書かれた谷崎さんは、読者に法華経の真髄を味わせたかったのでしょうか。

春琴抄のあらすじ

法華経15(行法経・懺悔)

「目を閉じて、自分と「仏」は一緒にいるのだと自覚しても、眼を開けると現実の世界に意識がかわり、「仏」はどこかに消えてしまう。自分はまだまだだと反省してさらに「仏性」を磨き上げることを懺悔と言う」と、『法華経の新しい解釈』(庭野日敬著)に書かれています。

日本古神道の「かむながら」は森羅万象、全ての存在に神を見、神とともに生きるという生き方をしました。学者たちは、これを多神教だといっていますが、全てに存在する神は唯一の神、創造神であり、全てに偏在する神ですから、一神教です。この生き方は目をを閉じなくても神が見えているのです。意識が神に繋がっている限り、いつも「創造神」であり、「大生命」である神が内にも外にも見えています。

古代において日本人の祖先はこのように「大生命」(「仏」)に意識がつながって生活していました。外国においてもそういう時代があったのでしょう。日本では言葉ができてからもそのような生き方をしている人びとがあったようです。 古神道「かむながら」として知られています。

どの宗教も原点に向かうのですね。「仏性」を洗い出す。「仏性」を磨き上げる。という言葉が紹介されていますが、私は、全ての存在を通して、「大生命」と強くつながる。繊細につながる。さらに強い愛でつながる。さらに多くの存在と広くつながる。そのような意識を持ちたいと思っています。

行法経

 

 

 

法華経14(命・仏性)

人は「仏」より、様々な役割をいただいています。人によって役割は異なりますが、誰にも共通しているのは、与えられた自分を活き活きとさせることです。まず、自分を大切に、自分の中の「仏」を喜ばせなくてはなりません。昨日紹介したビッグマウンテンスキーの佐々木大輔さんも、命の危険を感じていったんは断念しました。命に危険を感じた時は、断念して次回の成功のために命を守るからこそ、成功できるのです。

法華経に戻りますが、人々が釈迦の前世である常不経の体に危害を加えようとしたとき、常不経は逃げ出しました。命を守れば「法」をまもり、「法」を育て、「法」をひろめてゆくことができます。

『法華経の新しい解釈』(庭野日敬著)に次のように書かれています。

「楠正成は赤坂城を幕府の大軍に囲まれたとき、戦いはここがおしまいではないのだからiといって、さっさと逃げ出しています。楠正成は深く仏法に帰依していましたから、ほんとうの「柔軟」な心を体得していたのでしょう。そうして赤坂城から逃げ出したからこそ、あとでふたたび赤坂城や千早城その他でさんざん幕府勢を苦しめることができたのです。」

常不経は、人々の中に「仏性」を見出してその「仏性」を拝みだそうとしたのです。それが理解できない人々が常不経に石を投げたのですが、人々を創ったのは創造神である「大生命」です。「仏」です。「仏」が創られたものに内在する「仏性」を大切にする行為は、「仏」に対する最高の奉仕です。こういう奉仕は人を最高に輝かせ、心は最高の喜びで満たされるでしょう。

釈迦が説かれた大乗の教えは、自分だけではなく、すべての人の幸せを願うこころの働きでしたが、全ての人の「仏性」を高めることは自分の「仏性」をより高めることになります。その教えはさらに進めば、人を支える環境である自然のあらゆる存在の「仏性」を大切にし、働きかけて「拝みだせば」(別の表現をさせていただいて、「強いつながりを持てば」)、人はもちろん、さらに自分が、「大生命」(「仏」)により強く結ばれて、「仏」の光が自分に満たされるでしょう。

前回、紹介させていただいた佐々木大輔さんは、人はもちろんですが、自然の「仏性」を大切にし、働きかけて「拝みだして」(別の表現をさせていただいて、「強いつながりを持って」)過酷すぎるというデナリの自然の中でビッグマウテンスキーを成功させることができたのですね。

法華経13(自然との強いつながり)

昨日、9月3日、北米の最高峰、アラスカにそびえるデナリ山に登頂滑降に成功した佐々木大輔さんさんの放送(NHKスペシャル)を見ました.。ビッグマウンテンスキーというようです。

険しい山岳地帯を猛スピードで滑り降りる姿はすさまじいものでした。しかし、緻密な知識と技術が命の極みにありましだ。友人の負傷で1回はあきらめようとしましたが、翌日の好天気で再度ひとりで挑戦しました。みごと、成功です。

「気持ちがあればデナリは開いてくれる。」佐々木さんはそう語りました。

「自然との一体感」、 そういう表現もありました。法華経の言葉を使えば、自分の「仏と」自然の「仏」との強いつながりです。

NHKスペシャル

法華経13(『20歳の原点』)

人に勧められて『20歳の原点』(高野悦子)を読みました。

裏表紙に「独りであること、未熟であることを認識の基点に、青春をかけぬけていった一女子大生の愛と死のノート。学園紛争の嵐の中で、自己を確立しようと格闘しながらも、理想を砕かれ、愛に破れ、予期せぬうちにキャンパスの孤独者となり、自ら命を絶って行った痛切な魂の証言。」と書いています。どうして自殺をしたのかと読んでいたら、睡眠薬の飲みすぎで通常ならいくつもの防御柵でブロックされるような、かすかな自殺願望が実現してしまったケースでした。私の身近でも、ヒロポンの注射でそうなった人達がいます。

この本は彼女が自殺したのちに、残された日記を親が出版したものです。

私も彼女と同世代で、親から離れて一人暮らしの孤独な浪人生活を送っていましたので彼女の心の動きがよくわかりました。。自由である反面、タバコや酒、服薬の危険、食事のバランスなど、アドバイスする本来の環境がなかったのですね。彼女は感受性が強く、知性もすぐれていました。世の中の不合理にも気づいていました。

彼女は次のようにいっています。

「人間は完全なる存在ではないのだ。不完全さをいつも背負っている。人間の存在価値は完全であることにあるのではなく、不完全でありその不完全さを克服しようとするところにあるのだ。

(中略)

人間は誰でも、一人で生きなければならないと同時に、みんなと生きなければならない。私は「みんなと生きる」ということがよくわからない。みんなが何を考えているのかを考えながら人と接しよう。」

日記を読んでいると、まじめで不器用な人間であることがよくわかります。私はいま、ちょうど法華経を読んでいて、この経典が千何百年も前に日本に入ってきているのにどうして日本人のすみずみまで行き渡らなかったのかと残念に思いました。

「人間は誰でも、一人で生きなければならない」のではなく、「大生命」である「仏」によって生かされている。「同時に、みんなと生きなければならない」というのは、一人で生きなければならないのではなく、不完全さを補うために「仏」によって仲間が与えられている。 その上、この年代では異性の友達が喜びを与えてくれるのが普通です。いや、一時その喜びに触れたようですが、その友達を失ったことが彼女をより孤独にしてしまいました。普通のひとなら、このような体験をしても青春のひとつの体験ですんでしまったのですが、彼女は睡眠薬の恐ろしさを知ることなく、ききめが無いからと多量服薬してしまったのです。

戦後のこの時代の親たちは、戦争で何もかも失ってしまい、生活の糧を手に入れるのに寝る間も割いて、必死に働きました。そのかわり、働いた分は生活するのに十分なお金に変わり、豊かさに向って突進し、戦争に負けたにもかかわらず、世界第2位の経済大国を築いたのです。一方で目先の物ばかりを見、哲学や宗教など目に見えないものを意識する生活を失ってしまいました。ここで法華経の精神は失われてしまったのですね。私は両親が特別信仰の深い人であったので、救われたのですが、私の身の回りには、目先の物しか見えず、見えないものは否定して自分が何者かも知らないまま一生を終えた人びとも少なくありません。

それに彼女には憑依があったように思われます。憑依の相手が悪かったようです。彼女が「大生命」を意識して「大生命」の守りがあればこのような憑依は防げたでしょう。一般の人の意識から遠のいてしまった宇宙のしくみを、「仏」はどのようにして若い人に教えていかれるのでしょうか。戦後とがらりと変わった、ゆとり教育、冷え込んだ経済、その先に私たちは何を見出すのでしょうか。

20歳の原点

 

法華経12(智・慈・行)

私は法華経の真髄は「知」・「慈」・「行」の教えだと思いますが、これらは、「仏」と深くつながってこそ価値あるものです。

だから、「智」は、単なる知識や、悪智慧などではありません。強くつながった「仏」からいただくものです。それらは人のスケールをはるかに超えた深遠広大なものです。

「慈」については、私は若いころ、聖書の「愛」に惹かれましたが、「仏」の「愛」は、男女の「愛」のように、憎しみに変わる可能性のあるような「愛」ではなく、おもいやりの「愛」です。宇宙を創造した「大生命」である「仏」が、その被造物(宇宙のあらゆる存在)である私たちに持つ感情です。

「行」については、すぐ修行を思ってしまいますが、自分を鍛えたり、いじめたりすることではありません。「仏」と深くつながって行う「行」というのは、いいかえれば「仏」に対する「奉仕」です。苦しみながら行うものではなく、喜びの中で行なうものです。人は、会社に奉仕したり、社会に奉仕したり、家族に奉仕して喜びを味わうのは、奉仕する存在としてつくられたからです。

本来は「仏」に対する「奉仕」のためにつくられたのですが、その能力が会社に向けられ、社会の向けられ、家族にむけられてもそれらは全て「仏」の被造物だから喜びが感じられるのです。

しかし、最高の歓びはやはり、「仏」に対する直接のつながりの奉仕で、それが社会であったり、個人であったりすることが最高の喜びに感じられます。自分の役割がしっかり確信できるから、おせっかいにはなりません。

 

法華経11(量子世界と法華経・心2)

(前回から続く)

原子までの物理法則に親しんできた私たちもいま、宇宙全体に関心を寄せ、宇宙に関した名前を生まれてきた赤ちゃんにつける人たちが増えてきました。全体を意識する時代に変わろうとしているのですね。一方、量子世界に関心を持つというのも、目に見える限られた物質世界から、物質になる元の世界まで意識が拡がり出したということですね。

量子には物質がなく、状態だけがあります。心もそうです。心は量子と同じく、他に影響を与えるのに物質と違って、距離は関係ありません。心で念じたことは遠近に関係なく届くのです。心は量子だと考えてもいいのではないでしょうか。

大乗仏教の教えは知識としてではなく、「状態」として衆生の心(「状態」)に働きかけるので、総合的(「状態」として)に衆生に伝わります。いいかえれば、「仏」という宇宙の元の意識(私は「全意識」と呼んでいます)につながることができるのです。

ごめんなさい。いきなりこんな話は難しかったかもしれません。いずれ、「心」の話、わかりやすく説明させていただきます。

なにもかも繋がっている・量子力学

法華経10(量子世界と法華経・心1)

「そのときの大衆の目には、その菩薩たちのいます無数の国土が虚空にいっぱいになっているのが見えましたが、中でもいちばんすぐれた4人の大導師がおられました。上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩がそれです。」『法華経の新しい解釈』(庭野日敬著)

上行菩薩は、一切の衆生を救うという誓願の概念。無辺行菩薩は全ての煩悩を断ち切るとい誓願の概念。浄行菩薩は全ての仏の教えを学ぶという誓願の概念。安立行菩薩は必ず仏に到達するという誓願の概念です。

「心」というもののの働きを、分子や、原子をつくり出す元(前)の「状態」、「量子」世界の働きだと私は理解しています。ここに集った仏教の修行者たちが、「その菩薩たちのいます無数の国土が虚空にいっぱいになっているのが見えました」というのは、量子世界が物質世界と同じように目に映っていたのですね。目に見えないものの話うをしなければならないために、釈迦が作り出した場でした。人神の柱がくっきりと見える体験を2度した私には、それは理解できます。

釈迦は次のように話されました。

「もろもろの善男子よ、私は安楽で、すこしの苦しみも心配もありません。もろもろの衆生もかならず教化されます。(中略)

始めに、小乗の教えを学んで、それで十分であると思い込んでいる人びとは、なかなかその根性が治りにくいのですが、そのような人びとをも、この『法華経』を聞いて仏の悟りに入るように導いてあげましょう。」

物質の目に見える一面的な世界しか理解できなかった衆生にも、量子世界の「状態」としての世界が理解できるよう、釈迦はこのような「場」を準備されたのですね。

 量子力学入門:量子と概念の世界

(次回に続く)

 

 

法華経9(仏と行と因縁)

『法華経の新しい解釈』(庭野日敬著)では、「如来寿量品第16」で次のようにいっています。

「何十億年も前には、地球が溶岩の火の塊であり、空には水蒸気やガスがたちこめて、生物というものはひとつも存在していなかったのです。約20億年前頃、地球がだんだん冷えはじめたとき、顕微鏡で見なければわからぬほど微細な単細胞の生命体が生じてきた。これをバチビウスというのだそうですが、とにかく生命というものがはじめて生まれた。

これはもちろん、「法」によって生じたものです。溶岩とか、ガスとか、水蒸気とか、そういったもののみが存在していた地球上に生命の源となる原因(因)がそれにふさわしいある条件(縁)にあって、この生命体が生じたのです。その条件を与えたのは「法」なのですから、「法というものは、われわれ人間の目からみれば、たんなる法則というような冷たいものではなく、やはりものを「存在させる力」「生かす力」という生々溌剌(せいせいはつらつ)たるものとして感ぜざるを得ません。」

「法」と「仏」が同じものということですから、これらはエネルギーに命を与え、「因」と「縁」によって創造していくということです。そして、全ての物や空間に存在するこの「法」すなわち「仏」を自分の心の中に感じる。そしてそこから、知恵をもらい、愛をもらい、自分に必要な行をもらう。そしてこの行(行為)が与えられた「因」と「縁」によって形を生み、次の行に進んでいく姿を見る。これが人の生き方であるということなのですね。

いいかえれば、宇宙のすべての奥底、自分の心の奥底に存在する「仏」を感じ、そこに意識を合わせて、行動を重ねていく。因縁が次の行動、さらに次の行動へと結び付けてくれる。そういう生き方をしなさい。それが宇宙の中で調和がとれた生き方であり、宇宙の喜びの中の生き方だということなのですね。

ちょうど、体の細胞のひとつひとつが脳の指示に忠実に従うことで、細胞がそれぞれの役割を果たし、互いに助け合って体全体を健康に維持できる姿と同じですね。

ただ、末法の世だから、「法」や「仏」が弱まるので、感じ取るのは難しいよということなのか。それなら、強く結びつき、感じ取れるような工夫が必要ですね。

「仏」「法」につながるために 偉人たちが準備してくれたのがマントラを唱える方法、「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」などです。いまは、さらに一工夫必要なようです。

因縁

行(仏教)

法華経8(如来寿量品第16「仏」を絶えず意識し続ける)

昨日アメリカから日本に一時帰国された日本人にお会いしました。私と同様、常に根源を意識しようとする方ですが、日本はあらゆるところに広告があり、気が分散するそうです。

法華経如来寿量品第16に、

「私はいつでもどこにでも誰のそばにも存在して、衆生を救うのですが、衆生が真剣に私を求めなければ、その効果がないので、いなくなってしまったかのように見せているのだ。私が居なくなってしまったと思えば人は私を恋慕し私に強い気持ちを抱く。」というような意味のことを書いています。

チャイタンニャは、根源紳クリシュナに絶えず強い意識を持つために別れのときの気持ちを持ち続ける工夫をされました。私はつらくてとてもそんな方法をとることはできません。

私はこの初めて出会った同志の方に、「私は、生活そのものを『全意識』で行うという、別名『生活瞑想』を以て生活するようにしています。そのようにすれば、広告をみても『全意識』で、法華経の表現でいうなら、『仏』とともに見ているわけですから、チャイタンニャほど強くはありませんが、根源紳への意識から離れないで居れます。」というような話をさせていただきました。

法華経ではこの遍在する根源の存在のことを「仏」と呼んでいるのですね。

法華経如来寿量品第16