会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

月別アーカイブ: 2015年5月

十三街道・茶屋辻・在原業平の恋物語

「河内どんこう創刊号」を読むと、聞き覚えのある話ばかりです。しかし、いまの若い人たちや子供に私はこのような話をしたことはありません。十三街道と在原業平の恋物語もそのひとつです。

昨日も、十三街道を登って、水呑(みずのみ)地蔵尊に家族で参詣したあと、美家古の店に寄ってくださった方があります。見覚えのある人だと思ったら、近鉄八尾駅近くで倍音浴アロマセラピーの教室をされている平田かよさんでした。平田かよさんのセミナーを、一度受講して体調がよくなったので、私は毎晩、家にあった仏具のリンで倍音浴をしながらアワ唄を唄います。数分ですが、疲れた体が瞬時に元に戻ります。かよさん、ありがとうございます。

いま、水呑地蔵さんの参拝は神立の故森川裕良さんたちが力を入れてつけられた自動車道を利用される人が増えています。

神立道路1神立道路2

最近、在原業平が通った茶屋辻は、新しくつけられた玉祖(たまおや)神社の下を通る農免道路の工事によって、崖の補強工事が行われ、おもかげは少なくなりました。在原業平は、平安京を開いた桓武天皇の曾孫で、平安時代初期840年くらいの話でしょうか。1000年以上も前になります。

茶屋辻

<在原業平の恋物語>

在原業平は、竜田道から十三峠を越え、玉祖(たまおや)神社参詣のときに見初めた十三街道の茶屋辻の福屋の娘のもとへ通います。この時笛をふいて合図をするのですが、あるとき笛を吹かずに娘の家の東窓からのぞくと、娘がごはんをよそっている姿をを見て、身分の違いを感じ、百年の恋がいっぺんに覚めます。ごはんを手でたべていたという話になってきているそうですが、この時代は自分でごはんをよそうだけでも、卑しいことだったそうです。

在原業平は、その笛を玉祖(たまおや)神社に置いて帰ってしまいます。その笛はいまでも玉祖神社に保管されています。それを知った娘は池に身を投げてしまいます。

茶屋辻2

この時代には、失恋と自殺の話がたくさんあるのですが、「かむながら」の生き方をしている私は、彼らが恋以上の歓びを知らないまま、命を捨ててしまったことに、居たたまれない口惜しさを感じます。その点、今の人はドラマで恋の体験をしてさまざまな生きる道を知っています。ただ、絶えずメールのやりとりをしながら、本心で話せる友がない人が増えているのは問題ですね。

命を捨てるくらいの激しい恋というのも素晴らしいと思うのですが、事実を知ったら覚めてしまうというのは、恋の心は自分の妄想によって高まるのでしょうか。

 

 

 

 

 

大阪府八尾市恩智のいちご・柏原市のブドウ

私が小学生のころ、まだ恩智ではいちごを作っていて、盛んに出荷が行われていました。近鉄が恩智駅までだったころ、天皇に献上する献上列車があったそうです。大和川の付け替え工事で開発された新田でつくられたものです。新田は砂地だから稲作に使えず、さつまいもや、綿の栽培に適していたようです。

いまは、完全に住宅地になっているところで、イチゴ園という地名(呼び名?)が使われていました。私が知る限りでは、もうそこにはイチゴ畑はありませんでした。

私の家でも新田でいちごを作っていて、とっても甘いイチゴでした。ニシンの肥料を使うことで甘くなるのだといっていたように思います。河内どんこうでは、辻合先生の食べられたものはすっぱかったとおっしゃっています。いまのイチゴと違って、朝とったら、夕方には白く傷んでいたのを覚えています。たまに手伝い(?)にいって、腹いっぱい食べていました。(よその家では食べたら叱られたという話を最近聞きました。)

それが懐かしくて、伊豆の下田でイチゴ狩りをしたら、あまり食べられず、おなかがごろごろしました。農薬のせいだと思います。いまのイチゴは1週間ほど保存がききます。当時のイチゴは朝摘んだものが、夕方には白くなって傷んでいました。

もう恩智ではイチゴをつくらなくなってからの話ですが、柏原に元気な若者がいて、「わしは農薬なんかへっちゃらだ。」といって、ハウスの中で農薬を裸でかけていたらしいのですが、しばらくして亡くなったそうです。農薬はこわいという話を聞いたことがあります。つい最近までののイチゴ栽培は出荷までに5,6回農薬をかけていたようです。そのような事情でイチゴ栽培がなくなっていたのでしょうか。

いまは、イチゴに限らず、出荷する農作物には、農薬の検査があって、違反が見つかると、地域全体の出荷が止められる制度ができているそうです。

わたしの家でもぶどう栽培をしていました。ぶどうも甘いものが出来ていました。デラという種類と、本ぶどうという種類でした。青い農薬に種をつけて種無しのブドウをつくっていたようですが、これも健康には良くなかったのではないでしょうか。

このぶどうで葡萄酒もつくられていて、恩智でも、大東家や、坂野家、神田家といった主だったところは醸造権を取得していました。

醸造権と販売権はセットで酒販売の権利もついていて、酒屋さんもされていました。いまは酒の販売も地域が決められていないので、スーパーなどで安売りするようになり、酒屋さんの利益がなくなって、止めていかれる酒屋さんが増えて、酒屋さんの数も少なくなりました。

いまでも続いているのが、大阪府柏原市堅下の堅下ワインで、中野さんが経営されています。もう、35年ほど前の話でしょうか、柏原の青年会議所で中野さんとご一緒させていただいていたのですが、その時、英会話教室も経営されていました。おそらく販路を外国にと考えて進んだ経営をされていたのではないでしょうか。

いまのぶどうつくりは駒ヶ谷が中心です。ぶどうつくりは、ぶどう棚をつくり、上むきの作業が長時間つづき、体調不振になるので、他の農作物がつくれる農家はぶどうつくりを止めていかれました。いまは恩智では全くなくなったのではないでしょうか。私が小さいころあんなに盛んだったいちごやブドウの栽培がわずか50年で消えてしまったのです。その跡地は住宅地にかわり、恩智の地元の人は土地を売ったり、借家を建てたりして、裕福になっていきます。

商売人から、恩智地域の人の買い物が高級品が多いことから、「河内の芦屋」と呼ばれていると聞いたことがあります。大正15年にできた美家古もこうした裕福な地元の人の仕出し料理の注文に支えられて、90年も存続できているのかもしれません。ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

大阪府八尾市恩智中町4丁目キツネ坂

父からもキツネの話はときどき聞いていました。直接の体験ではなく、言い伝えの話です。村人が同じ道をいったり、戻ったりしているのでおかしいなと見ていると、上の道にキツネが座っています。キツネが右をむくと、村人は右へ、左を向くと左へ行くのです。昔キツネは、人の脳に直接影響を与える力があったそうです。

ある人にこの話をすると、「キツネ坂」の話を教えてくれました。

東高野街道の道沿い東側にシュミイ地蔵があります。その横の恩智城に向かう急な細い坂道を横切る坂道をキツネ坂といいます。

昔、この道を通っていると、きれいな女性と出会います。一緒に温泉に入ったつもりでしょうが、気がつくと、肥壺(畑の肥やしのために作った大便の肥え溜め)の中に居ます。こんなキツネのいたずらがあったので、この坂道をキツネ坂と呼ぶようになったそうです。戦前まではこのシュミイ地蔵からの道はキツネ坂で止まっていて、左へ迂回しなければ恩智城跡にはいけなかったそうです。

この坂道については、私が聞き違いをしていたので、現地を探索して、土地の状況を把握したうえで、そこに住んでいた板倉さんに確認をとってきました。板倉さんのお父さんはこのサカに家があったので、キツネ坂の増さんと呼ばれていたそうです。

板倉さんは、そこに住んでいた頃はまだたくさんキツネがいて、屋根を跳び交い、買っていたにわ鶏を襲ったりしたそうです。その頃は恩智の西の方の村の都塚にもきつねがたくさんいて、終戦後の外人を肥ツボにだましいれたそうです。子供に、都塚はきつねが悪さするから近づかないようにといわれたという話を別の人からきいています。

キツネに化かされる伝説話は八尾市でもあちこちにあります。

いまは、このあたりには、キツネもいないし、キツネにそんな能力もないでしょう。童話の中にもこんな類の話はそこらじゅうにあります。作り話というには多すぎます。昔はキツネにそんな能力があったのかもしれません。あるいは、人に変化があって、化かされなくなったのかもしれませんね。

 

 

水呑(みずのみ)地蔵尊と空海

水呑山縁起2

大阪・玉造から奈良・竜田につづく十三街道は、大阪側は急で奈良県側はゆるやかな勾配になっていて、1200年以上前に空海(弘法大師)が大和に行く途中で、十三峠の手前で疲れて休んでいたところ、旅人達がのどを乾かしていました。

そこで、空海がお経を唱えながら旅人たちとともに杖で崖の下を掘ると、冷たい水が湧きだし、水呑場(水飲み場)となり、いつのまにか地蔵菩薩が置かれていました。その後、通りかかった僧の壱演が庵をたてて、村人にお経を教えたら、村人は、村の神立辻地蔵から、水呑地蔵までをお経を唱えながら水呑参りをするようになりました。

神立辻地蔵

この間には、村人たちなど水呑詣りをする人たちによって、66体の地蔵の石仏がおかれています。熱い心が伝わってきます。

ペア地蔵2 ペア地蔵5

 

私に名付けられた「邦弘」という名は弘法大師の「弘」をいただいています。名前の漢字を説明するときに、いつも「弘法大師」の名前が登場します。ご縁を感じます。

大阪府八尾市恩智を横切る東高野街道

恩智を横切る生駒山脈にそった道、東高野街道は、外環状線ができるまでは、恩智の最も交通量の多い道でした。お店もこの道沿いにたくさんありました。

富田林を通って、高野山に続いていて、そのせいか、富田林は今より身近な場所に感じていました。(私も東京で暮らしていた時は、親のはからいで、富田林出身の衆議院議員古川丈吉さんの国会議員会館の事務所に出入りしていました。)

その東高野街道の起点が京都であったとは、今知りました。道そのものは、縄文時代にはすでに存在していたようです。その頃、いまの河内平野は海の底で、この道は河内湾に沿った海岸沿いの道だったようです。道の近くに船着き場の史蹟があったと聞いています。いま、恩智神社の敷地にある舟戸の大神は、天王の森にあったものではないでしょうか。

東高野街道は石清水八幡宮から河内長野までの街道で、平安初期の真言密教の開祖空海が京と高野山に本拠を置いて以来、民間の大師信仰、高野聖の活動と相まって、多くの信仰者の往来ができて、この道にこの名がついたのでしょう。京都の東寺は、弘仁14年(823)に空海に下賜されて、真言宗の根本道場となったようです。

高野山開創1200年記念大法会が、先日平成27年4月2日から5月21日の50日間に行われ、地元の人たちも大勢、高野山や、お四国参りに出かけられました。

八尾市神立玉祖神社と恩智神社の境界

父母の行の仕上げとして、水呑地蔵境内に智慧地蔵尊を建立させていただいたので神立地区の水呑地蔵尊との縁ができました。その後、数回神立の玉祖神社にも参拝させていただきました。それまでは、私は一度も神立の玉祖神社に行ったことはなかったのですが、玉祖神社と恩智神社との境界を決める話は子供の頃に聞かされていました。

恩智神社(当時は恩地神社と書いた)がまだ天王の森にあった頃のこと。恩地城ができるときに城が神社を見下ろすのはよくないと、恩地神社祠官であり兵法家でもあった恩地左近が、恩智城建築の際に恩地城より上の現在の位置に移設されました。これはそれより前の出来事です。玉祖神社に説明の張り紙がありました。今から約1800年前とありますので、210年くらいでしょうか。玉祖神社が周防国の玉祖神社から分霊を勧請した710年から500年前ということになります。分霊勧請以前にすでに玉祖神社が存在していたことになります。垂仁天皇の時代ということになると、250年よりも前の時代になり、その頃すでに両神社が存在していたということです。

玉祖神社説明縦

710年、周防国の玉祖神社から分霊を勧請しました。その際、住吉津から上陸し、恩智神社に泊ったのち、現在地に祀られました。天明玉命(櫛明玉命)を祭神とします。現在の社殿は、1725年(享保10年)の再建とされています。

 

玉祖神社との境がはっきりしないために、決めた日に一番鳥が鳴いたら、宮さんを出てお互いに進んで出会ったところを境としようという話がまとまった。ところが、本来生駒山の西斜面の中腹にある玉祖神社よりも、平地にある恩地神社の方が日の出がわずかに早いはずなのに、うっそうとした森の中の恩地神社の鳥は鳴くのが遅かった。

玉祖神社側の人の方は、恩地の隣の垣内まで来たのに恩地神社側の人の姿が見えない。そこで、恩智の隣村である垣内で鉾を立てて待っていた。

玉祖神社石縦

それで、そこが境界となったという。その場所は「垣内の鉾たて」と呼ばれた。写真は玉祖神社の境内におかれた石です。垣内の鉾たてに向いています。

この話は若者がいまも神社の奉仕団体である氏子青年団で活躍しているせいか、いまの恩智の若者にもよく知られています。

現在、恩智神社は、恩智1村、玉祖神社は、垣内、黒谷、郡川、服部川、山畑、大久保、千塚、水越、大竹、楽音寺、地元の神立と、11村の氏子を持ちます。これが、この話のいきさつで決まったままだとすれば、恩智神社が、三韓征伐の手柄でいただいた村の話はこの話以前のこととなるので、やはり、山口県から分霊をいただいた710年以降の話だったのでしょうか。

神社の神がたとえ人神であったとしても、鶏を鳴かせる力くらいはあったはずです。この話はなんらかの都合でいつの時代にか創作されたものと考えるのも一案ではないでしょうか。

いいえ、神々の世界で先に決められたことがこの物質界で起きていると考えると、なんらかの理由で、調和と平和を愛する神々がこのような話をつくって人の心をおだやかに治められたのでしょう。

 

 

 

大阪府八尾市恩智の天王の森・恩地・母の木(オモノキ)

神武天皇(紀元前六六〇年即位)が東征を始めたとき、まだいわれひこのみこと(磐余彦尊)と呼ばれていました。記紀東征伝説(記紀とは、古事記と日本書紀のことです)によると、神武天皇の一向は舟で九州から瀬戸内海を東進し、大阪湾に入ります。

まだ、その先に河内湾と呼ばれる海があり、いまの大阪湾とはかなり違っています。浪速国青雲の白肩津(しらかたのつ)に到着したのち、河内国孔舎衛坂(くさえのさか)でこの地を支配する長髄彦(ながすねひこ)に迎え撃ちされました。このときの戦いで天皇の兄五瀬命は矢に当たって負傷しました。

これから以下は記紀には記述のないことだが恩智に伝わる口伝の話で、磐余彦、後の神武天皇はいまの恩智に逃げてきて森の中の大きな楠木の穴に隠れて命拾いしたそうです。

その後、その木を母の木(韓国語で読まれてオモノキという)、その森を天王の森と名付けられ、その地は恩のある地、恩地と呼ばれました。恩地は昭和の時代(?)に恩智という字になりました。恩智のメイン通りの恩智川にかかっている橋はオモノキ橋というし、地元の保育園「母の木保育園」はオモノキと読むので、「母の木」の読み方には地元の人なら誰も抵抗がないと思います。

磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向って(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り、兵を返した。その後熊野の方に回って、この地を征服しています。

こんな話が口伝で二千五百年以上も伝えられるなんて、恩智はこれまでは話題の少ない環境だったのですね。いや、今が話題が多すぎるのかもしれません。

インタネットがここまで発達して、これから先はいまにも増して豊富すぎる話題にどう対処していくのでしょうね。いま人類の歴史が大きく変わるときにきていることを実感します。

大阪府八尾市垣内、岩戸神社・天照大神高座神社

先日、美家古に仕出し弁当の注文をいただいたときに、ブログの話をして、取材の依頼をしておきました。宮司の岡市さんは、大阪で税理士事務所を運営しておられ、山本に住んでおられるので、神社におられないことが多い。そこで、まず、現地を調べておこうと仕事の合間に、神社を訪問しました。(宮司さんがきておられないときは弟さんがおられるそうです。)

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ケータイで写真など撮り終わったところに岡市宮司さんがこられたので、挨拶をしました。すぐに取材に応じて下さり、私も書くものも持たないまま、お話しを聞くことになりました。

磁場も空気もよく、いつまでも居たい感じがしましたが、仕事があるのでそういうわけにもいきません。

高安山麓、弁天山にあるこの神社の正式な名前は、天照大神高座神社といい、摂社が岩戸神社という。摂社というのは、神社の祭神と縁の深い神を祀ったもので、末社というのはそれ以外のものということのようです。

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<末社>

奥にまつってある白龍大神と北斗七星は末社ということだと説明を受けました。在日韓国人の方々によるものだということです。もともと、この洞窟信仰は渡来人(百済・高句麗など)によるもので、その縁のようです。

私は地元の人間でこの神社の境内でも遊んだことがあるのに、天照の岩戸開きを名乗る無名の小さな神社のひとつだろうと思っていたのです。全く違っていて、驚きです。

天照大神神社IMG_20150511_134342

<天照大神高座神社>

元は、伊勢国宇治山田原に鎮座されていて、1500余年前、雄略天皇のときに、この地に鎮座されました。天皇の行幸、奉幣も何度もあり、清和天皇のときに神階正1位を賜りました。平安時代醍醐天皇のときに編纂された延喜式では官幣大社に列しています。延喜式に書かれている神社は朝廷に重視された神社で式内社といいます。その中で官幣大社とは朝廷から幣帛料を支給される高格の神社です。

式内社で、「天照大神」と称するのは、この神社だけです。名前の由来は、岩壁の穴(女陰)であるご神体が、冬至、夏至の太陽の登る場所にあり、日の出遥拝地であるということです。

この神社を東の起点として西に向かうと、淡路の式内社石屋神社に至る。この神社にも明神窟とい洞窟があります。途中にある、住吉大社から見れば、春分・秋分の太陽は岩戸神社の洞窟から出て、石屋神社の洞窟に没すると見えたようです。

岩戸神社 <磐座弁天岩戸神社>

摂社磐座弁天岩戸神社の方は、1100余年前、僧空海、高座神社参籠中、大神の御神託により創建されました。弁財天は、ヒンズー教の女神サラスヴァティのこと。吉祥天(ラクュシュミー)と同一視されることもあります。日本神話の宗像三女神の一柱、一杵嶋姫命と同一視されることもありますが、空海によるものですから、弁財天はサラスヴァティが仏教にとりこまれたものです。

<白飯の滝>

弘法大師が修行されたこの滝は、いまも健在です。密教曼荼羅の世界です。

参考文献:河内どんこう Vol.1 NO2   東高野街道(上)上方史蹟散策の会編

 

大阪府柏原市、八尾市、東大阪市を流れていた大和川の付け替え工事と新田

たびたび氾濫を起こす、大阪府柏原市、八尾市、東大阪市を流れていた大和川を大阪府堺市のの方に付け替えてはどうかと考える人がありました。。

河内郡今米村(東大阪市)の庄屋中九兵衛は、長い年月をかけて実施調査を行ったうえ、新しい川の流れを示した測量図を添えて1650年、幕府に、大和川の付け替え工事を願い出ました。

その後、運動を受け継いだ中甚兵衛は、あらためて新大和川の流路を測定しました。川底となる300町歩(ヘクタール)を失うかわりに、もとの川底や、沼、池などを開拓することで、2000町歩(ヘクタール)の耕地が生れる。工事は1回だけの出費ですみ、経済的だという意見を添えました。

その頃、堺は日本一裕福な町で、氾濫の恐れのある川を引き込むのはとんでもないと反対したのですが、堤防を堺側を高くするということで合意したそうです。

1703年4月、幕府は新川筋の測量を始め、翌1704年2月各藩に請け負わせてわずか8か月後の10月に完成しました。これによって、八尾市内にも9つの新田が生まれました。

17世紀中ごろから河内木綿の栽培がさかんになっていましたが、この新田開発で米つくりに適さない砂地が綿つくりに使われました。河内は綿産業で豊かになって、河内木綿は全国的に有名になっていきます。

表立ったこの素晴らしい話の裏に犠牲者も多くあったことをひとこと伝えておきます。

大和川の付け替え後、予想されていた水不足があちこちで起きました。弓削村の庄屋、西村一郎右衛門は、幕府に訴えましたが、幕府は取り合っていればキリがないと判断したのか、無視されました。それで、西村さんは、自分で大和川から水を引いて村人を救ったのですが、捕えられて大阪城内で獄死したそうです。

 

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狭山藩・大阪府八尾市神宮寺

狭山藩・大阪府八尾市神宮寺は小さな谷川をへだてて淀藩・大阪府八尾市恩智とと接しています。恩智町会とくらべて神宮寺町会は件数が少ないのですが、私が子供のころ、私は恩智なのですが、神宮寺は、気を配ってつきあわないと、すぐ争いになるやりにくいところだと聞かされていました。

どうしてこれだけの対立があったのか、その理由は、狭山藩の歴史にあったようです。

狭山藩のもとは、小田原城城主の北条早雲です。豊臣秀吉の命で徳川家康が滅ぼします。実際は民を助ける条件で戦わずして城を明け渡します。北条早雲は高野山に蟄居させられ、大名としては最低の1万1000石に減らされます。

30歳で嫡子をもたないまま死去してその後、氏規が後をついで、後北条の当主となります。そのままでは恐れ多いと、家紋の北条うろこは、正三角形から、二等辺三角形にかわります。写真のかぶとの金の紋が北条うろこです。

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氏規の後氏盛が後を継いで狭山藩藩主となります。禄高が少なくて不足する分は坂野さんや奥さんの里の狭山の大庄屋中林さんなどから借りて維持してきました。禄高は少なくても大名としての格の高さを意識して、淀藩とのつきあいがあったようです。それがそのまま、民にも伝わり、淀藩・恩智に対する狭山藩・神宮寺の対抗意識となっていたのですね。

八尾市制にかわって、南高安連合町会としての共同作業を重ねるうちに、最近ではそのような意識はなくなったようです。仲良く青年団などの活動をしている姿を見ると、心に熱いものを感じます。