会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

月別アーカイブ: 2015年6月

枇杷の葉(2)

枇杷の葉風呂2日目です。温め湯にして2日目です。洗髪の後、頭からお湯をかぶり、後はよく洗い流しておきました。これで全身です。

昨日に続いて元気な朝を迎えることができました。気分的には最高です。

ただ、妻に昨日聞いたら、

「うーん。少しだけど湯船には入って、よく温まる湯だなと思ったけどとくには何も。」

「細かい毛の影響は。」

「うーん。洗い流さなかったけどなんともない。」

私は、風呂以外に腹巻の中に入れてみました。1日目はお腹。二日目は右腰。3日目は腰の後ろ。おなかに居れたときは、出にくかった排便がスムーズになりました。右腰の場合は右腰が弛んだ感じがしました。後ろに入れたら腰がだるくなりました。これも弛んだのでしょう。今日は前後左右腹巻にいれておなか全体をまきました。片寄りの感覚がなく、腹ができているとか、腹がすわっているとか表現できる上体でした。

肌に接触していないので、波動の世界です。枇杷の葉がこのような波動を持っているとは。

今晩は3日目の枇杷湯に挑戦します。

枇杷の葉風呂・なんじゃこりゃ

いつもの松葉風呂を休んで、びわの葉を風呂に入れました。2,3枚の予定だったのですが、ネットで 15枚くらいと書いてあったので、20枚くらい入れました。葉の裏の細かい毛をこすりおとすように書いてあったのですが、そんな時間もないので、出るときに洗い流すようにすることにしました。風呂にとっては早く傷むことにことになるかもしれません。

30分ほどで入りましたが、第1の感想はまろやか、初めての感触。そんなお湯です。でも、量が多すぎと感じたので、半分に減らしました。5分ほど浸かって、体に細かい毛が附着しないようによく洗い流しました。この注意を母と妻にすると、二人とも入浴を拒絶しました。私の体験を見てからということのようです。

寝るときには、多少体が興奮した感じがありましたが、すぐに眠ってしまいました。

驚きました。体の興奮を感じて、うつらうつらとしていたのに目覚めは体にパワーがみなぎっています。鏡で自分の姿をみると、「なんじゃ、こりゃ。」という、まんがのヒトコマの表現を思い出しました。それほど鏡に映った姿が違ったのです。

体の芯から、細胞の全てがいきいきとしています。こんなことがありうるのか。そう感じるほどの激変です。初めての体験です。

1か月ほどの松葉風呂の次にしたのがよかったのか、体調が回復してきているときにタイミングよく、このびわの葉風呂が一気に回復する助けをしてくれたのか。

朝の出勤の道で、見えるものがこまやかでなんとも言えない味わいを感じていたら、いつも見ている筈の金柑の木に、黄色い身の他に小さな白い花が一杯咲いているのに気づきました。大きな木の中に、昨日の強風で折れた枝があるのに気づきました。確実に内部エネルギーがたかまっているなと思いました。

通常、激変というのは、不調和を示唆します。そこだけが気にかかります。また、経過報告をします。

天理教の大教会が3つもある信仰の地

恩智の地は神道、仏教など信仰心の深いところですが、恩智にある中河大教会をはじめ、北には高安大教会、南には大県大教会、3つの天理教の大教会があります。いずれも恩智から1kmあまりのところです。

120年から150年ほど前でしょうか、私の本家、畑中の家に天理教の創始者であるおみきさんがたびたび顔をだされていて、いつもはったい粉を求められたと聞いています。おみきさんがよく腰をかけられていたという石がいまでも本家の道のカドにあります。

ごかんさんは、大阪に布教に向かわれたので、生駒山越えは、十三街道を使われたようで、十三峠にその碑があります。おみきさんは恩智の乾小路にこられたのですから、恩智道を通ってこられたのではないでしょうか。ただし、この話を天理教関係者にすると、25号線から、東高野街道に入るコースを通ってこられた地図をみた記憶があるとおっしゃっていました。高安大教会の松村さんの病気のあさずけにこられていたということです。

このころは、出口王仁三郎さんの大本教など、多くの新興宗教が現れた時代で、従来、神道が多神教だと考えられていたときに、宇宙根源の神を持ち出して、人々を、あらためて信仰の道にしっかりつないだ時代なのですね。

万物の中に神を見出す日本の神道が多神教とされるのは、その奥に根源の神を見ることを忘れてしまったために誤解されたのであって、本来、惟神(かむながら)というのは、万物の中に根源神を意識してきたものでしょう。それを、この時代にもとに戻そうとされたようです。

外国の宗教と日本神道の大きな違いは、外国の宗教が善悪、契約などの概念を根底にするのに対して、根源神という全体に対して互いに助け合いながら、根源神を中心として、善悪を超越して楽しく暮らしましょうとすることです。そういう全体を中心に考える場を恩智を中心としたこの地が持っているようにも感じます。

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天理教高安大教会

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天理教大県大教会

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天理教中河大教会

 

ドクダミ・十薬

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庭にドクダミがはびこり、草むしりが大変です。父が病床についてから私や、妻が庭の草むしりをするようになったのですが、私がしたときは、引き抜いたドクダミを乾燥させてドクダミ茶をつくろうと準備していたのです。ですが、忙しさの中で実行できず倉庫を掃除するときに捨てていました。

今年は、母が知り合いにすすめられたということで、乾燥してあったドクダミを煎じました。父が使っていたという薬草用の土瓶をとりだしてきたので、夕食のあと、すぐ実行しました。

生のあの臭さはなく、味はまろやかで、水と草の分量比が最適だったようです。思っていたのとは違って、とてもおいしい飲み物でした。

父は生前、十の薬効があるから十薬というのだといっていましたが、母はもろくなった血管のため、妻は高血圧症のために飲みました。私は特になかったのですが、飲んでみると、3日間で胃腸の調子が改善されました。

副作用もあるそうで、腎機能や肝機能が弱っているひとは要注意です。私個人は続けないで、ときどき飲むことにしましょう。

青春を第2次世界大戦で迎えた人達

大阪市八尾市恩智の乾小路(現在は恩智中町4丁目)で第2次世界大戦を迎えた母は、生駒山脈のふもとで少し高台になっているので、大阪市内がよく見えたそうです。市内に戦闘機から落とされる爆弾の火がよく見えて恐怖を感じていました。まだ幼くて怖さが分からない子供であった人などは美しかったともいいます。この話は何人もの人から聞きました。

戦争中に小学生だった人は、近くに軍人の宿舎があったときのことを話してくれました。親が奉仕で軍服の修繕をしてあげていたら、そのお礼にとチョコレートをくれたり、田舎の岡山からモモを送ってくれたりしたと嬉しそうに当時を振り返っておられました。

母が戦死者のために地蔵流しの行をしていた頃、私の妹婿が沖縄旅行をしたときに、地蔵流しを手伝うために乗ったタクシーの運転手から、アメリカ兵に追いかけられて若い娘たちが何人も海に飛び込んことを聞いて、母に報告しています。地上戦になれば、地獄そのものだったのですね。

八尾市恩智でも崖の近くの家の人は、横穴を掘って爆撃に備えていました。農家の各家にはおおきな芋穴が掘ってありますのでいざというときには、そこに逃げ込むつもりだったのでしょうか。

隣の村の八尾市垣内には、生駒山のふもとに飛行機の防空壕2台がありました。アーチ型のコンクリートが私達子供には珍しく、当時は柏原新聞の主催者の上田さんが住んでいましたが、近くにいって中を覗きこんだりして遊んでいました。

八尾市沼の八尾空港から、この防空壕に繋がる広い道、飛行機の滑走路ができる予定だったと聞いています。できるまえに終戦になりました。終戦前にそんな道が出来ていたら、空からも目立つので、飛行機の防空壕や周辺の村も爆撃されていたでしょう。もうすでに防空壕は取り壊されていますが、ダミーとしてつくられた土のかぶっていない小さな方は残っています。IMG_20150620_140834

母は嫁ぎ先の義兄の嫁が肺病で寝ていたので、畑仕事から帰ったら、その看病をし、その子供たちの世話をしていました。戦後間もなく、37歳の義姉は子供たちのことを母に頼んで、息を引き取りました。このころは肺病は治らない病だったようです。

同じころ、『氷点』の作家、三浦綾子さんは、母より2歳上で青春をベットの上で過ごしました。まわりで肺病でなくなっていく人たちが記載されています。三浦さんは戦争というより、病のために苦しんだのですが、親身になってくれるクリスチャンによって救われ、敬虔なクリスチャンとして、素晴らしい人生を過ごすことができました。

母は、健康には極めて恵まれていましたが、戦争で夫をなくし、十年後に家が全焼し、私の弟まで焼死するという体験をしました。気が狂わんまでの心境の中で融通念佛宗・丹山和尚との出会いがあって、地蔵流し、写経、地蔵菩薩の建立という行で救われました。

戦後の好景気を、底辺でこのような人々が支えていたのですね。その人たちはもう90歳にほどになっておられます。私もそうした話を聞いてはいましたが、苦労を知らずに育った終戦子ですから直接戦争体験をした人たちは極めて少なくなっています。

 

 

 

 

大阪府八尾市神立水呑地蔵境内・智慧地蔵尊

 

水呑山縁起1-左

第2次世界大戦のとき、結婚式を挙げた翌日招集令状が届き、1夜を過ごしただけで花婿を奪われた花嫁。わずか数か月で太平洋のもくずとなって帰らない人となってしまいます。結局弟である私の父と再婚することになりますが、その後も心の整理がつかないまま苦悶する母と、それを支える父。人の目には激しく仲がいい夫婦と映っていたようですが、内情は苦悶の日々だったようです。

そんな父母に、戦死者に対する回向として、全国の河川、海に地蔵流しの行、百万体放流をしなさいという融通念佛宗観音寺・丹山和尚の指導がありました。その時に丹山和尚が作られた地蔵菩薩の掛け軸をいただきましたが今日でも仏壇の横に掛かっています。

地蔵菩薩掛け軸

百万体放流が達成できたら、こんどは、写経1万巻の行をして、生者のためにご利益を授ける祈願の地蔵尊をたてさせてもらいなさいといわれました。いまから、30年ほど前のこと,昭和57年に記念の地蔵菩薩を建立させていただきました。

この時は、ちょうど十三街道の隣りに森川祐良さんらの力で自動車道が完成した時でした。この自動車道を利用して建立が達成されました。

長い年月に丹山和尚も亡くなられて、山本の書家の増市東陽先生、神立の森川祐良さん、恩智の坂野敏昭さんらのご指導、ご協力のもと、智慧地蔵尊と名付けられた地蔵菩薩の建立が実現したのです。

開眼直前8月1日に60年に一度という大雨が降り、鉄砲水で十三街道はずたずた。毎年晴れるはずの8月1日の恩智神社の夏祭りもどしゃ降りでした。このとき、開眼直前の地蔵尊を案じて、鍬を片手に、この荒れた水でずたずたになった十三街道の急こう配の地獄坂を修復しながら登る父のあとをついていって、私は多くの学びを得たのを覚えています。

さらしで巻かれた智慧地蔵尊は無事で、8月7日に開眼供養が行われて、直後から、参拝者が手作りエプロンをかけたり、線香、水、花を供えて多くの信者さんの礼拝を受けられました。その時期に立つべくして建てられたのですね。父母はその役割を与えられたのですね。

豪雨は、森川さんが通夜島から持ち帰られた有姫龍神さんによる浄化作業だったようです。森川さんたちの肝いりで作られた水のみ地蔵尊の横を通る自動車道、自然公園道がこの直後に完成していますから、この道の浄化、安全のためでもあったようです。

神立道路1神立道路2

満州事変から太平洋戦争へ

続けて『近畿日本鉄道100年の歩み』を紹介します。

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「昭和初頭、日本経済は第1次世界大戦後の慢性不況から抜け出せない状態であった。それに追い打ちをかけるように、昭和2(1927)年3月に金融システムの不安などから「金融恐慌」が起こり、5年には「昭和恐慌」が発生した。

ー中略ー

昭和6年12月には犬養内閣が発足し、金輸出の再禁止、内需拡大による積極財政など、金融政策の転換が図られた。それとともに、同年9月の「満州事変」に伴う軍需拡張路線の進行により、7年以降景気が急速に回復した。

昭和12(1937)年7月には日中戦争がはじまり、太平洋戦争へと続く統制の時代へ突入した。

ー中略ー

13年4月には人的・物的資源の統制を全面的に政府に委ねる国家総動員法が成立し、経済活動を統制する様々な勅令などが同法に基づいて公布されていった。

昭和14年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発した。日本は15年9月にドイツ、イタリアと三国同盟を結び、16年12月にはアメリカに宣戦布告して太平洋戦争が始まった。

ー中略ー

16年4月には生活必需物質統制令が公布され、米は配給制となった。15年7月公布の奢侈品等製造販売制限規則は、不急不用品や贅沢品などの製造・加工・販売を禁止するもので、「贅沢は敵だ」の標語を生んだ。百貨店の売り場からは日常的な商品でさえ次第に姿を消し、17年2月には衣料品も切符制になるなど、百貨店の営業事態が困難になっていった。」

私が親から聞いていた親の時代の背景です。 「贅沢は敵。」「ほしがりません。勝つまでは。」という言葉も何度も聞きました。戦後、しばらく、その言葉だけは生きていたのですね。「ヤミ米」ということばもありました。正直に守って、死んだ人、統制をくぐりぬけて生き延びた人。さまざまな人の話も聞きました。

 

日本・戦争の半世紀

1894年、明治27年に始まった日清戦争から、1945年、昭和20年に終結した第2次世界大戦までの半世紀は日本は戦争の半世紀であった。私の親、おじいさん、おばあさんたちはその中の激動する日本でその生涯を暮らしたのですね。

今回も『近畿日本鉄道100年の歩み』から抜粋して、紹介します。

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「日露戦争後の財政赤字、国際収支の不均衡により、日本経済が厳しい状況となっていた中で、大正3年7月に第1次世界大戦が勃発した。ヨーロッパを主戦場としたこの大戦に、日本は連合国の一員として参加した。

第1次世界大戦で日本が得た最も大きな経済効果は輸出の拡大である。連合国への軍需品・食糧品の輸出、交戦諸国の輸出途絶に伴うアジア諸国への製品輸出などが急増し、「対戦ブーム」と呼ばれる未曾有の好況をもたらした。

―中略―

対戦ブームは海運業に始まり、やがて造船業が活況を呈した、輸入品の途絶は、国内の化学工業、鉄鋼業および機械工業の需要を増大させ、輸出の拡大に刺激された繊維業も生産が増えた。

―中略―

このブームが産業界に与えた最大の変化は、重化学工業の進展である。

―中略―

消費の拡大は、大衆消費社会の萌芽につながり、生活の洋風化や人口の都市集中化を促した。こうした背景のもと、私鉄各社は沿線を中心に郊外住宅地の開発に務めた。」

大阪府八尾市山本の高級住宅地もこの流れに乗るものだったのでしょう。いまは、町全体の高齢化がすすみ、大きな住宅地のあとは、何軒もの建売が建ち、商店街もかつての勢いを無くしています。

 

大阪市・上本町・阿倍野・近鉄

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最近、大阪都構想がさわがれましたが、大阪市は、明治22(1889)年に市制施行のよって誕生しました。その当時は、上本町も、阿倍野も大阪市域にははいっていませんでした。

近鉄に務めておられて、長年町会の活動に貢献されてこられた駒井さんが、私のブログのために『近畿日本鉄道100年の歩み』という本を貸してくださいました。その本にそう書いていました。

時代の変化と、近鉄の経営の歩みがかかれていました。近鉄の重大な拠点が当時まだ大阪市域ではなかったというのは驚きでした。それと、その時代の世界と日本の動きを教えてくれます。

日清・日露戦争と日本経済というところを抜粋して紹介します。

「イギリスから遅れること100年、明治中期には日本でも産業革命が始まった。なかでも盛んであった綿紡績業は日清戦争後の明治30(1897)年ごろには輸出産業へと成長した。日本産業革命は、日露戦争後の40年前後に完成したといわれ、官設鉄道、及び私設鉄道は、その進展をインフラの充実という面から支えた。

景気動向に目を向けると、日清戦争後の明治30年~31年と33年~34年に恐慌がそれぞれ発生し、日露戦争後には40年の世界恐慌が日本にも波及し、40~41年に恐慌が訪れた。43年には、借換外債発行による金利下落などによって、一時的に景気は好転し、「中間景気」が出現して。当社の源流となる奈良軌道は、この好況のもとで設立された。

その後、大正3(1914)年7月に勃発した第1次世界大戦は、深刻な不況をもたらすと危惧されたが、じっさいには、輸出の拡大により「対戦ブーム」と呼ばれた好況を現出させ、日本経済は飛躍的な成長を遂げた。」

 

 

大阪府八尾市八尾座のキリスト教と寺請け制度

江戸幕府は、キリスト教の禁止を徹底するために、住民すべてを生れた土地の寺に登録させて仏教徒(檀家)として、その寺の監督を受けなければならないしくみをつくりました。住民は自分の寺の行事ごとを共同で支えました。寺にとってはとてもいい制度といえます。戸籍制度の基礎にもなったのですね。

恩智では今も寺の世話をする檀家が寺の行事を支えています。八尾では,古い地域はそうです。

一方、1582年の「イエズス会日本年報」に「八尾に2つの仮聖堂」という記載があり、八尾にも大聖堂が建てれられる予定でしたが、幕府の強いキリスト教禁止政策で、キリスト教は迫害されて、他の住民から隠れて教えをまもらなければならない運命となりました。弾圧によって殺された敬虔なクリスチャンも大勢いました。こうした魂は、根源神の特別な役割に従事していったのでしょうね。

長い鎖国が終わって、1858年日米修好通商条約締結後、キリスト教信教の自由が保障されても、人の心までなかなか変えることができず、つい最近の昭和の時代でも、ヤソ教信者ということで、まだ、親が婚姻を認めないために悲しい別れがあったようです。八尾はキリスト教信者の多い地区で、八尾城があったと言われる八尾座(現在の南本町8,9丁目)の近辺は、キリシタン城主・池田丹後守や、その家臣が多く住んでいたところです。

最近、八尾座ということばも聞かなくなりました。八尾の保健所の東から、安中に抜ける旧村の中の一方通行は、八尾方面の仕出し料理の配達の帰りによく通る道ですが、私が父から聞いていた庄之内、成法寺、今井、別宮、八尾座という地名がありましたが、いまは、南本町1~9丁目という呼び名で、若い人たちはその名前を知りません。

最近は、八尾市内のいたるところで、恩智にも、キリスト教の教会ができていますし、身の回りにもキリスト教信者がいます。美家古も、キリスト教会へのお葬式などの仕出し料理を配達する機会もあります。

ルーテル教会

迫害当時の恐ろしさを思うと、いまの時代のありがたさを感じます。