会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

月別アーカイブ: 2015年7月

大阪府八尾市神立・十三峠・経ケ塚

前回は仏教が日本に入ってきたときの話でしたが、今回紹介するのは、仏教が成熟しきって、一部、欲まみれになっているところもでてきている頃の話です。

織田信長が寺の焼き討ちをします。そんなバチあたりのようなことをする信長はまともな人間ではなかったのでしょうか。いいえ、そうではないと思います。当時、キリスト教が日本に入ってきていましたが、信長はその教えを気に入っていたようです。一夫一婦制でなければ、私も洗礼を受けたいといっていたということを本で読んだことがあります。

信仰心がなかったのではなく、本来の姿から逸脱した仏教を真の宗教と認めていなかったのかもしれません。単に敵対する相手としかみていなかったのでしょう。仏教は、「阿都の村人」で紹介したように、日本に入るときにその教えの神髄から離れた形で始まり、成熟してその教えから逸脱し、このあと江戸時代には、キリシタン排除のために戸籍管理に利用されて、ずっと政治に利用されてきたのですね。おかげで大きな寺院や、数えきれないほどのお寺が建立され、その中で偉大なる僧侶が出現し、その書物はとても読み切れないほどの量になっています。物事は多面性を持つもので、一面だけで判断できないことがわかります。

十三峠にある経ケ塚紹介者の坂上ひろ子さんは、経ケ塚についてつぎのように紹介しています。

「今から420年ぐらい前(注:1577年のこと。この書籍は1998年に刊行されている)、後世、松永弾正として知られる松永秀久は、信貴山に城を構えていましたが、織田信長の軍勢に攻められ滅びました。この合戦のとき、平群から河内高安にかけての一帯も焼き討ちされたそうです。

経ケ塚の東方、平群白石には「白石千坊」と言われるほど、たくさんのお寺がかたまって建っていました。これら白石の寺々も例外ではなく、焼き討ちに遭いました。兵火が迫って来た時、寺々のお坊さんたちは、ちょっとでも多くの経典を残したいと、持てるだけの経典を背負い、西方の山に逃げました。」

そこに穴を掘って経典を埋めたので、その後、この峰を経ケ塚と呼ぶようになったそうです。いまは白石千坊と呼ばれていた場所に多くのお寺はありません。そのあたりに杵築神社がありますが、塔頭の一院だったようです。。平群郡福貴畑地区です。

十三峠の南に「おと越え」があります。平群では「大塔越え」といいますが、河内から大和に超えるとき、人々は白石千坊の大きな塔がそびえていたのを目印にしたという説もあると書いておられます。いま残っていれば観光名所になっていたでしょうね。

 

大阪府八尾市跡部(阿都)蘇我と物部の戦い(2)

『河内野ものがたり』(堀井健市編著は、近鉄山本駅から5分ほどの住宅地の中で喫茶店「コスモス」を経営しておられる寺西さんから借りたものです。「コスモス」は、一工夫された料理と栄養を配慮したてづくり料理に、デザートまでついていて、連日盛況です。

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寺西さんとは、1994年、「あまから手帖」の1月号と2月号で、栄養士と調理師の対談ということで、連載されたときからのご縁です。ときどき、仕出し料理をご注文いただきますし、私も食べに行きます。

私がブログで河内の昔のことを紹介することになったと話すと、すぐに『河内野ものがたり』を貸してくださいました。半年ぐらいどうぞということでしたが、早めにお返ししたいので、続けて紹介させていただきます。

「阿都の村人」の続きです。戦闘が開始されました。

夕陽がいつもより赤く燃えるように感じられる頃、先人として、古市の河川合流点付近を固めていた兵士たちが、傷ついて稲城にもどってきた。

穴虫から進んできた蘇我の本陣と戦っていて、一進一退の時、竹内峠を越えてきた葛城,巨勢の軍が、横合いからつっかけてきて、味方は大混乱になり、敵味方もわからない乱戦になったそうです。

両軍が引いた後には、数百人の死体が河原にころがっていたというのです。その言葉どおり、阿都の宅のそばの河にも、敵味方の見分けもつかないような遺体が流れてきたのです。村人は、それをとむらいながら、帰らぬ知人や隣人、戦場になった場所に残された遺体や傷ついた人は、どうなっているのだろうかと気遣うのでした。

「なんとむごいことを。わしらは、その日その日のやすらぎと暮らしの安泰のために、神様をまつり祈ってきた。隣国からきた仏像も、国の民のやすらぎのためにまつらねばならないと、蘇我氏は言っていると聞く。それがなぜ争うのだろう。」

何度かの戦いを繰り返し、結局、阿都のムラは焼き払われ、村人は逃げまどい、その後どこで、どのような生活を送ったのでしょう。

日本人の民は、善悪を決めつけることなく、どちらも相容れながら事を納めていく性質を持っています。しかし、国の権力を手に入れようとするものは、身内であっても殺してしまうほどの性質を丸出しにします。実際、このような地獄絵を作り出して、勝者蘇我氏は、その後、天皇家すらおびやかす横暴な振る舞いに出ます。592年に崇峻天皇を殺害しています。あきらかに仏教の心と相いれない行動をとりますが、596年に氏寺、飛鳥寺を建立するのですね。

 

 

 

大阪府八尾市跡部(阿都)蘇我と物部の戦い(1)

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『河内野ものがたり』(堀井健市編著)から「阿都の村人」を紹介します。堀井さんは、1936年に生まれて、現在80歳の方ですが、この本を書かれた当時は八尾市水越に在住と書かれています。

「阿都(あと)の村人」については、堀井さん本人の書かれたもののようです。文献が残っていたのかどうか分かりませんが、飛鳥時代、物部連と天皇の親戚筋の蘇我馬子とが対立して、この河内を支配していた物部の領地を奪ってしまう戦いの様子を、物部守屋の領地である阿都の村人の立場で書かれています。587年、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼしてしまいます。

書かれている村人の会話と、私の感想とを書きたいとおもいます。

「領主様は大王様に背くものを取り締まる役ではないか。それがどうして大王様に責められるのだろうか。」

「なんでも、大王さまに無礼なことをしたと、攻められておられるそうだけれど、本当は、蘇我氏が朝鮮から伝え持ち帰ってきた仏像や経典を、領主様が粗末にしたからだそうだよ。領主様は、他国からの教えをまねしなくても、昔からの教えがあるのだから、それで十分だと主張されたそうだよ。」

「どんな教えか知らないけれど、わしらには別に新しい教えなどなくてもいいがなあ。」

「そうだとも。なんでも、新しい教えには、大王様や、蘇我氏についてつごうのいいことがあるそうだよ。だから、蘇我氏が、つぎの大王様のことで、領主様といいあらそいになって蘇我氏のいい分が認められたということだよ。」

「そうだろうなあ。大王様のお妃様は、代々蘇我の縁者が入って居るものなあ。」

「だからこそ、領主様も、次の大王さまをだれが継ぐのかで、がんばられたのだろうなあ。」

「なにしろ、蘇我氏は大王と縁者になって、クニを好きなようにしようとしているのだからなあ。われらとて、大王様を守り立ててきたもののふの中心だ。おめおめと蘇我の威におそれるものではないわなあ。」

と、このような会話がされています。どの時代にも、相続争い、権力争いというものがついて回り、戦となって相手を滅ぼそうとします。蘇我氏側にはあの聖徳太子もいます。慈悲をうたう仏教がこのような姿で、日本に入ってきたのですね。考えさせられますね。

「領主さまの先祖は、天の磐船にのって河内の哮峰に降りたという天の神の子、饒速日命だ。以降大王様をお守りして、敗れたことはない。異国の神を奉じようとする土着の民などおそれるものではないわ。」

阿都の村人はこのようにいっていますが、もう、大王様は、蘇我氏側におられます。そこには気づかなかったようです。

「われわれ物部は、神をまつり、蘇我氏たちは仏像を拝むことで、互いに平穏に暮らせるのなら、何もいうことはない。それなのに、どうしても仏教だといいはり、反対するものを攻め滅ぼそうというのは、やはり、よこしまな神だといっていいと、わしはおもうね。」

「そんなものかのう。わしは、神仏の争いは名目で、ほかに目的があると思えてならない。」

「なんだ、それは。」

「いや。よくわからんが、領主様は、難波から大和川一帯を支配され、他所からの貢物などを管理されている。蘇我や葛城は山地で、異国にも直接出掛けるには不便な所領地だ。仏教とつながるには、大和より難波の方がいい。そんなことで、何が何でも、河内を攻め取ろうとしているように思えてならんのだ。」

いやあ、いつの時代にも、どこの国でも宗教が政治に利用されるのですね。国も人の統治ですから、心から統治しないと、統治というのは難しいからでしょう。しかし、このことがなければ、日本にこれだけ仏教がひろまることがなかったのですから、結果的にはよかったのでしょうか。

また、蘇我氏がわの彦人皇子の 舎人(または聖徳太子の舎人)迹見 赤檮(とみ の いちい)は、

「守屋殿は、水路、沼田を利用し、高みよりわが兵の動きを察知して、攻撃してくるので刀をもって近づくのは困難です。そこで、まず、物部の矢作をしている矢作の陣を落として、弓矢を集め、集中攻撃をしましょう。」

といいます。結局、この作戦が功を奏して、北の衣摺までさがって榎の樹に登って指揮する守屋を矢で射とめて蘇我の勝利が決定的になります。守屋はいまのあの東大阪市の衣摺で殺されたのですね。また、以前に紹介した、八尾から恩智へ帰る抜け道の南本町にある矢作神社の矢作は、弓矢のことだったのですね。

 

 

大阪市八尾市恩智・融通念佛宗来恩寺

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来恩寺は、現在地の融通念仏宗来福寺と元真言宗、当時融通念佛宗恩覚寺(桜公園の東にあった)が一つになって明治38年にできた比較的新しいお寺です。融通念仏宗です。初代の芳雄上人からは、私も大学生の頃に、以前のブログで紹介した「天王の森の話」をお聞きしました。学者さんで、寺子屋のようなものをされていて、私の父も母も習っていました。融通念佛宗一番の学者と言われ、住職の学校である歓学林で教鞭をとられていたそうです。

ご長男の竹岡八雄さんが後を継ぐ予定でしたが、三重大學の名誉教授になられて、次男の不二雄上人が後を継がれました。今回、現役を退かれた奥さんからお寺のことをお伺いしました。

奥さんは、学校の先生で、ご主人の不二雄さんも学校の先生でした。ご長男竹岡八雄さんがおられたので、お寺を継ぐとは思わず嫁がれたのですが、ご主人が大念佛宗のお寺を継ぐとなると、すぐに教職を退かれて寺の仕事に専念されました。ご主人が退職されるまでの間は、私の家も来恩寺の檀家なのですが、観音寺の丹山和尚が檀家参りをしてくださったそうです。この時に私の両親と丹山和尚とのご縁ができたのですね。

奥様も戦争を体験した世代です。学生の頃、学徒動員で南港の軍需工場で働いていた時空襲があり、汽車も止まってしまって、帰り道も分からない中、生駒山をめがけて実家に走り帰ったそうです。

帰りの道、堂島川ののほとりはくすぶった家、転がった死体がありました。1945年、奥さんが15歳くらいのときです。生き残った人たちがこの後、日本の復興に全力をあげます。来恩寺は、はじめは本堂しかなく、初代芳雄上人が大阪から、山門を持ち帰られたそうです。教職を退職された不二雄上人と檀家の人たちが協力して、本堂の瓦の葺き替え、客殿、厨の建て替え、十三重の塔の建立などされました。もちろん、この奥様の影の支えがあってのことだったと思います。

竹岡文庫2平野本山に作られた竹岡文庫

不二雄上人は本山の様々な役を歴任されました。また、紫綬褒賞を受けられた長男竹岡八雄さんの大量の仏教書籍とその重い本を収納する書庫を平野本山に寄贈されて、本山の中に竹岡文庫が作られました。

紫金職おねり

前住職の不二雄上人は昨年亡くなられましたが、権大僧正という、大僧正に次ぐ位が戒名にありました。紫金職を与えられて、おねりをされている様子です。

晋山式2 (2)仏画2

いまは、哲雄上人が住職ですが、写真はその晋山式の様子です。仏画が好きなようで、本堂にその作品がいくつか飾ってあります。また、その子供さんの淳雄上人も檀家参りをされていて、檀家さんから「あっちゃん」と呼ばれて、とても人気があります。私もすべての檀家さんを温かく受け入れる度量をもっておられると感じて、先を楽しみにしています。

 

 

南北朝時代、恩智でにわとりを飼った武士

河内野ものがたり

『河内野ものがたり』(堀井健市著)にこんな話が載っていました。南北朝時代、恩智城主が楠木正成の要請を受けて、千早城を守るために出陣しました。多勢に無勢の苦戦で、いろいろな工夫をしました。

そのひとつに、にわとりを城のまわりの攻め口に放したそうです。夜討ち朝駆けといって、攻め手は見つからないように夜明け前に険しい崖をよじ登って攻めてきます。にわとりが人の気配で驚いてたてる羽音で敵襲に気づきます。

それでも数には勝てず、全員、城を抜け出します。その時、河内の野武士の一人が自分たちを守ってくれたにわとりを持てるだけもって、見事な働きをした恩智城主について恩智にやってきました。くさいとか、うるさいとか村人に言われながら飼っていました。

玉祖神社との氏子争いで、恩智のにわとりが鳴き遅れて以来、この辺の人はにわとりを飼うのを忌み嫌っていたということを知ります。村人に嫌われながら鶏を飼っていた野武士は、そのことに気づいて、にわとりを恩智神社ゆかりの住吉神社に放しました。

野武士は、その後の戦いで、恩智城主とともに北の方に出陣してふたたび恩智に戻ることはありませんでした。

 

大阪府八尾市恩智・融通念佛宗法立寺

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法立寺の清林住職にお話しを伺いました。歴史資料はないそうですが、言い伝えで、52代ということです。年代は分かりませんが、1代15年として計算すると、780年前となるし、20年とすると1040年前となります。鎌倉時代か平安時代と考えていいでしょうか。

法立寺という名は、仏教の法を立てたという意味でその名のつくお寺は全国にありますが、その地域で最も古いお寺が多いそうです。それなら、仏教が入ってきた奈良時代の可能性もあります。

長い歴史の間に、最初は真言宗、次が浄土宗で、いまは、融通念佛宗と変わってきています。恩智は古い土地ということもあるのか、狭い土地に多い時は15以上のお寺があったようです。織田信長の焼き討ちにあって、一度は大半が無くなりましたが復興して、いまは10位あります。法立寺は、恩智では、その中でもっとも古い歴史を持つお寺です。

かご2

私がもっとも印象に残ったのは、本堂の天井に吊ってあった籠でした。葬儀のときとか、平野の本山に行くときなど、和尚を籠で送り迎えしたようです。融通念佛宗の平野の本山へは、いまは自動車ですぐに行けますが。電車や自動車のない当時は大変だったでしょう。それにしても、檀家の人が籠を担いで和尚を連れて行くとは、檀家の人々にとっては和尚はそれほど大切な格の高い存在だったのですね。

お話の中で「声明」という言葉が出てきたのでどんなものか聞かせていただきましたが、お経を唄うものということです。お経の最初のオーンというところを唄っていただきました。丹田から声をだし、喉でしぼって、口腔内で響かせるそうです。一息で2分くらい唄うということです。

感動しました。しかし、一人で唄うのと、大勢で唄うのとは雲泥の差があるといわれます。一人でも素晴らしいのに、大勢で息が合っているとそれほど素晴らしいというのですから、機会があればぜひとも聞いてみたいと思いました。

西国観音菩薩

西国33か所の観音菩薩が御堂の隅にありました。最近どこのお寺でも観音講が無くなっています。観音講に使われる道具は寺で預かっているそうですが、復興の気配は全くありません。私達の親の時代まで、地蔵講とか観音講とかあって、人々の心が救われていましたが、これからは人は何によって支えられていくのでしょう。

本尊阿弥陀仏西勝庵阿弥陀仏

左が本尊の阿弥陀仏です。右が西勝庵阿弥陀仏といいます。西に勝つというのは、恩智城の護りとして設置されたのでしょうか。

恩智とは、オーンの地

恩智の歴史を研究しておられる辻野和夫さんに話を聞きに行ってきました。

私は、辻野和夫さんからひととおりお話しを聞いた後、

「何の歴史的根拠も持たずにいうのですが。」

と前置きして、つぎのように恩智(おんぢ)の言葉の成り立ちを話してみました。

おんぢ(恩智)は、むかし、オムチ(母地)と呼ばれた。渡来人がこの地を占めていたので韓国語の読みで母の部分をオモニと呼んだのが母地(オムチ)、恩智(オンヂ)になった。そのように説明されます.

私もそのように紹介しています。

しかし、私は一方で、韓国にその発音があったように、もともと古代の日本語にその発音があったのだと考えています。

バラモンや、ヒンズー、仏教で使われる、「オーン」は、宇宙すべての存在を意味します。宇宙の根源の神は、宇宙の全てを生み、育てますから、それは母を表すことば「オム」となったと考えることもできます。逆に考えれば、恩智、すなわちオームの地、産み出し育てる母の地、母地(オムチ)を意味します。

「こんな考えを持っているのですが、何の歴史的根拠のないことで、これはブログに書いてはまずいですよね。」

「おもしろいじゃないですか。古代語という立場での推測というのもありますよ。」

そういって、『ヤマトコトバの考古学』(木村紀子著)の本を貸してくださいました。

いずれにしても、恩智は「オーン」という音に運命つけられた土地です。

ことばが持つエネルギーを考えれば、恩智は様々なものを生み出し育ててきたはずです。

縄文時代は、河内湾がすぐそばにあり、山海里の幸に恵まれ、水も豊かにあり、人が豊かに育つ環境を生み、育てたのですね。

弥生時代から、古墳時代は、道具を使う社会を生み、育てたのですね。

鎌倉時代の末期は、混乱した世の中で、住民が結束してたすけあう生命共同体をつくり育てたようです。

江戸時代末期になると、河内木綿を中心に、経済活動を生み育てます。

恩智の地は、いまに至って、次は何を生み出し、育てようとしているのでしょう。

恩智城の時代背景

恩智が結束を固めた時代というのはどんな時代だったのかと、楠正成の伝記を読んでみました。『楠木正成』(新井孝重著)IMG_20150704_123850

 

異常気象、地震、疫病、治安のみだれ、統治最高責任者である天皇家内部の争い、鎌倉幕府の最高責任者北条高時の闘犬、田楽好きによる御家人に対する荷重な負担、それは住民の叫び声が聞こえてきそうな時代だったのです。

1325年6月、大豪雨が比叡山無動寺の学舎17宇を流失し、坂本の人家は濁流にのまれ、死者は500人に及びました。

同年10月、京都で大地震が起こります。その前にも、1293年、1317年、1323年と鎌倉、京都で交互に地震が起こっています。政治の中心地で地震が発生するというのは、政治の大きな不調和と関係しているのでしょうか。

1329年から1330年にかけて、疫病「しはぶきやみ」(咳の病)が流行し、多くの人の命を奪いました。河原には死人の山ができていただろうと書いています。

連夜、流星があやしく光を放ち、宮中天文博士による内々の占文は、「兵乱」「兵革」を予言していました。

本来、人の心を育てるはずの僧侶も欲望に溺れ、比叡山の僧兵や、神人、悪党どもは寺の内外で戦闘に明け暮れていました。

後醍醐天皇が密かに討幕の計画を練っていたとき、それを秘密裡に支える人たちのの無礼講という会合では、身分の上下もおかまいなし、ほとんど裸の状態で肌が透き通る衣をきた若い女性をはべらせ、料理は山海の珍味を尽くし、うまい酒は泉のように用意されていたといいます。この世の秩序に嫌気がさして、それを消し去ろうという情念の現れだと著者は書いています。

「世も末」ということばがありますが、まさにこのときをいうのだと思うほど典型的な姿でした。私は精神秩序のみだれを非難するのではありません。著者がいうようにその秩序に真実がなくなっていたことを表しているのでしょう。

堕落しきった仏教とは反対に、真言密教が山岳を修行の場とする山伏修験信仰と融合して、生産と生活、戦闘との関連から民間武装民と深くかかわっていました。

これが民間武装民として恩智城をつくり、それを守る恩智の住民達の姿であり、強い結束をつくる背景であったようです。

 

枇杷の葉風呂3

しばらく枇杷の葉風呂が続いていますが、いまは、松葉と混ぜています。体調がどんどんよくなるのを感じます。

昼間は腹巻の中に前後、左右2枚ずつ8枚入れています。ときどき、腹巻をずらします。おなじところにしているとだるくなるからです。

腰が弛んでくると、味をしめて首、肩もと欲がでてきます。いまの時期にネックウォーマというわけにもいません。そこで、昼間使った枇杷の葉が入った腹巻をそのままシーツの下に引いて、ちょうど首と肩のあたりになるようにして寝ます。

何日間か体験していますが、朝は快調です。腕に力が漲っています。がんばるぞという気になります。時間の少ない私向きの、手間かからずの健康法です。

恩智の村を支えるもの(水、火、母・道・城・神社・木綿)

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曙川東に在住される辻野一和さんが恩智の研究をされているということで、お話しを聞きにいってきました。『恩智の扇状地形と史蹟』という本を書かれています。

「恩智の村を支えてきたものはなんでしょう。」

という私の質問に次のように答えて下さいました。

「恩智の扇状地形は、井戸という良質な水を供給してくれました。恩智川という、下水処理の川もありました。湿度も少ない環境をつくっています。

山が近いので、薪にこまらず、火がいつも使えました。これらが、恩智を居住地として支えてきました。」

たしかに、今のように人工的にインフラが整備されていない時代には、以上のような環境条件が必要でした。

さらに、河内湾、大和川などの河川、クロスする恩智道、東高野街道を中心として他地域との交流が進み、発展していく様が目に見えます。

鎌倉時代後期あたりには、村が形成されて、恩智城、恩智神社を中心として、堅固な村組織を作るようになりました。

狭い土地に多い人口。江戸時代の恩智のこの特徴は、大和川の付け替えによって、急に拡大した木綿産業の発展に支えられていきました。コメの生産量は少ないのに、多くの人口を支えることができたのは、この木綿産業のおかげでした。自給できなかった米は木綿産業に支えられた財力で購入できたのです。

恩智は縄文時代は、居住地として、山、海、里の幸に恵まれ、薪すなわち火に恵まれた豊かな土地でした。舟での交流もありました。恩智神社の境内にに舟戸の神が祀られていますが、もともと天王の森にあったものでしょう。河内湾もあったし、大和川もあって、いずれの時代も舟は重要な役割を持っていたでしょう。

生駒山脈の中腹に見られる多くの古墳群(柏原市、八尾市、東大阪市)は、古墳時代、これらの環境に支えられた豪族の存在を示しています。

もっとも聞きたかった恩智村の住民の結束をつくりあげたのはいつの時代だったのでしょうという問いに対して、

「恩智村が、上からの支配という形での村ではなく、自分たちでの結束した存在に作り上げたのは鎌倉時代の後期、恩智城が出来た頃だと思います。」

と答えていただきました。