会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

日別アーカイブ: 2015年7月27日

大阪府八尾市跡部(阿都)蘇我と物部の戦い(1)

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『河内野ものがたり』(堀井健市編著)から「阿都の村人」を紹介します。堀井さんは、1936年に生まれて、現在80歳の方ですが、この本を書かれた当時は八尾市水越に在住と書かれています。

「阿都(あと)の村人」については、堀井さん本人の書かれたもののようです。文献が残っていたのかどうか分かりませんが、飛鳥時代、物部連と天皇の親戚筋の蘇我馬子とが対立して、この河内を支配していた物部の領地を奪ってしまう戦いの様子を、物部守屋の領地である阿都の村人の立場で書かれています。587年、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼしてしまいます。

書かれている村人の会話と、私の感想とを書きたいとおもいます。

「領主様は大王様に背くものを取り締まる役ではないか。それがどうして大王様に責められるのだろうか。」

「なんでも、大王さまに無礼なことをしたと、攻められておられるそうだけれど、本当は、蘇我氏が朝鮮から伝え持ち帰ってきた仏像や経典を、領主様が粗末にしたからだそうだよ。領主様は、他国からの教えをまねしなくても、昔からの教えがあるのだから、それで十分だと主張されたそうだよ。」

「どんな教えか知らないけれど、わしらには別に新しい教えなどなくてもいいがなあ。」

「そうだとも。なんでも、新しい教えには、大王様や、蘇我氏についてつごうのいいことがあるそうだよ。だから、蘇我氏が、つぎの大王様のことで、領主様といいあらそいになって蘇我氏のいい分が認められたということだよ。」

「そうだろうなあ。大王様のお妃様は、代々蘇我の縁者が入って居るものなあ。」

「だからこそ、領主様も、次の大王さまをだれが継ぐのかで、がんばられたのだろうなあ。」

「なにしろ、蘇我氏は大王と縁者になって、クニを好きなようにしようとしているのだからなあ。われらとて、大王様を守り立ててきたもののふの中心だ。おめおめと蘇我の威におそれるものではないわなあ。」

と、このような会話がされています。どの時代にも、相続争い、権力争いというものがついて回り、戦となって相手を滅ぼそうとします。蘇我氏側にはあの聖徳太子もいます。慈悲をうたう仏教がこのような姿で、日本に入ってきたのですね。考えさせられますね。

「領主さまの先祖は、天の磐船にのって河内の哮峰に降りたという天の神の子、饒速日命だ。以降大王様をお守りして、敗れたことはない。異国の神を奉じようとする土着の民などおそれるものではないわ。」

阿都の村人はこのようにいっていますが、もう、大王様は、蘇我氏側におられます。そこには気づかなかったようです。

「われわれ物部は、神をまつり、蘇我氏たちは仏像を拝むことで、互いに平穏に暮らせるのなら、何もいうことはない。それなのに、どうしても仏教だといいはり、反対するものを攻め滅ぼそうというのは、やはり、よこしまな神だといっていいと、わしはおもうね。」

「そんなものかのう。わしは、神仏の争いは名目で、ほかに目的があると思えてならない。」

「なんだ、それは。」

「いや。よくわからんが、領主様は、難波から大和川一帯を支配され、他所からの貢物などを管理されている。蘇我や葛城は山地で、異国にも直接出掛けるには不便な所領地だ。仏教とつながるには、大和より難波の方がいい。そんなことで、何が何でも、河内を攻め取ろうとしているように思えてならんのだ。」

いやあ、いつの時代にも、どこの国でも宗教が政治に利用されるのですね。国も人の統治ですから、心から統治しないと、統治というのは難しいからでしょう。しかし、このことがなければ、日本にこれだけ仏教がひろまることがなかったのですから、結果的にはよかったのでしょうか。

また、蘇我氏がわの彦人皇子の 舎人(または聖徳太子の舎人)迹見 赤檮(とみ の いちい)は、

「守屋殿は、水路、沼田を利用し、高みよりわが兵の動きを察知して、攻撃してくるので刀をもって近づくのは困難です。そこで、まず、物部の矢作をしている矢作の陣を落として、弓矢を集め、集中攻撃をしましょう。」

といいます。結局、この作戦が功を奏して、北の衣摺までさがって榎の樹に登って指揮する守屋を矢で射とめて蘇我の勝利が決定的になります。守屋はいまのあの東大阪市の衣摺で殺されたのですね。また、以前に紹介した、八尾から恩智へ帰る抜け道の南本町にある矢作神社の矢作は、弓矢のことだったのですね。