会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

月別アーカイブ: 2015年11月

終戦

量・質ともにアメリカに負けたころから、燃料供給の道が閉ざされ、本土空爆に対して十分な迎撃もできず、日本は敗戦の一途を歩みます。

「B29が一般住民に戦意を喪失させるため大量にビラを空中撒布した。八尾では西風に乗って高安山麓に達し、相当の数が拾われた証言がある。ビラを手にした子供たちは、B5版大か一周り小さい形で桃色・水色・黄色・緑色の紙に日本語の漢字まじりで平仮名文で書かれていたとしているが、親から日ごろこれに触れると爆発すると教わっており、内容は読まずに警察に届けたという。」『日常の中の戦争遺跡』(大西進著)

このビラ配布は、私も親から聞いて知っていました。一般市民には、それほど影響を与えなかったようですが、負け戦を隠してきた日本軍幹部にとっては大きな影響を与えたと思われます。

「終戦前日に、当時日本最大規模の兵器工場であった大阪造兵廠に700トン近い爆弾が投下され、徹底的に壊滅させられた。工場の建坪12万坪という広大な建物が鉄とコンクリートとレンガの残骸となり、スクラップの廃墟となった。」『日常の中の戦争遺跡』(大西進著)

翌日、天皇陛下の玉音放送があり、国民は日本が戦争に負けたことを知ります。戦争に負けたことによる恐怖感よりも、張りつめた気持ちがゆるんでホッとしたという話も聞きました。「敗戦」というより、「終戦」というのが実感だったようです。

外地の戦争で疲れ切った兵士たちが続々と帰郷してきます。家もなくなって身寄りを頼って居候した人もあります。貧しさの中でそうした人々を受け入れながら、日本は復興への道を歩み始めます。危険な軍隊の解体をさせましたが、無条件降伏をさせながら、一般市民に対しては、 なんら害を及ぼすような仕打ちはしていません。「なんじの敵を愛せよ。」といったキリスト教の教えが行き届いていたのでしょうか。

人々は戦時訓練によって培った力を復興の力に変えて頑張りました。その結果日本は世界が目を見張るほどの復興を遂げました。敗戦は日本を守るための神風ではなかったのかと思うほどです。

終戦から70年、いま日本も、景気が急速に悪化して回復の見通しはありません。しかし、この戦争のことを振り返る今、明らかに終戦前より、はるかに恵まれています。「がんばれ。」と当時の人たちがいってくれているような気がします。

第二次世界大戦大阪空襲

戦地に赴いて無くなった人、負傷して戻ってきたが、寿命を早めた人、爆弾の破片があたって、手足や、目が不自由なまま、生涯を送った人、みじかにがんばっていたこのような戦争による障害者の人たちも、いまは、ほとんどが亡くなってしまいました。戦後70年、当時20歳の人でも90歳です。戦争体験者がほとんどいなくなるこの時期に、戦争を振り返って、知らない人たちに伝えようとテレビでもたびたび番組が組まれています。

「日常の中の戦闘遺跡」(大西進著)に、詳しい空爆の記録がかかれています。

戦争が外地で行われていたときは、内地は不自由な生活だけで恐怖におののくようなことはありませんでしたが、昭和17年東京の空襲があり、昭和19年、12月には、大阪で初空襲がありました。翌20年になると連日のように空襲があり、日米間の戦闘能力に格差がついてきて、軍事工場が破壊され、敵機迎撃の有力基地の大正飛行場でも、反撃戦闘はできなくなっていきました。避難、退去しか方法はありませんでした。

昭和20年2月になると、B29による重点目的攻撃から、大都市への焼夷弾の無差別爆撃に移り、また、航空母艦から発進する2000機もの艦載機の大集団が重要施設を襲い始めたと書かれています。昭和20年3月13日深夜から未明にかけての第一次大阪大空襲があり、当時恩智の小高い地域から、親とともにこの様子を見た幼い子供たちは、花火のようにきれいだったという記憶をもっています。このとき、この無差別焼夷弾爆撃で、大阪中心部の19区はほとんど焼失しました。私は東京の壊滅的な焼失は聞いていましたが、大阪は軍需工場だけだと思っていました。親戚を頼って恩智の村にも、すすで真っ黒になったひとたちが大勢やってきたという話はそのことだったのですね。

大阪市内も全滅ではなく、一部残った地域の様子が最近テレビで映されていましたが、駄菓子屋などが残った昔の家並みでした。戦後の復興の速さは、壊滅状態から始まったためだったのですね。終戦が半年早ければ、30万人の命が助かったのにと悔やまれていますが、一方では半年遅かった終戦が復興を早めたのですね。

いまの八尾空港はローカルな空港でそのイメージから、戦時中もそうであったように思っていましたが、その当時の八尾空港(大正飛行場)は東洋一の航空基地で、爆弾攻撃の目標になっていたのですね。関連施設、軍需工場、鉄道、周辺住宅などには機銃掃射による攻撃を受けたそうです。

この本に、紹介されていた恩智の防空壕の話を読んで、現在の大畑山会館の前に、ブドウ畑であったところに防空壕がつくられ、家を失った浮浪者が住んでいて、戦後その中で無くなっていたという話があります。私は古墳の間違いだと思っていたら、本当に防空壕だったかもしれないのですね。私が子供のころ、他の場所で見た防空壕も、古墳の学習をしているときに古墳を見間違えていたのだろうと考えましたが、やはり古墳ではなくて実際には防空壕だったようです。いまは壊されていて、その場所も特定できません。

 

 

 

 

戦後をどう観るか、江戸時代に学ぶ

戦争が人々をどのように不幸に陥れたか、その話を聞いて紹介しようとしていたのに、またしても、違う話を紹介することになりました。

「菜の花の沖」(司馬遼太郎著)の最終巻(6)を読んでいると、次のような話に出くわしました。

江戸時代(1812年)にこの物語の主人公、嘉兵衛は、ロシアのリコルドに捕虜として囚われました。そのとき、嘉兵衛は、囚われの身でありながら、ロシアのフヴォストフの乱暴や、ゴローニンの捕虜事件でこじれかけた日本とロシアの関係を修復させようとしました。嘉兵衛は、リコルドに次のようにいいます。

「上等の国とは、他国の悪口をいわず、また自国の自慢をせず、世界の国々とおだやかに仲間を組んで、自国の分の中に納まっている国をいう。愛国心を売り物にしたり、宣伝や、扇動材料に使ったりする考えはよくない。好んで軍を催し、人を害する国は国政がまちがっている。

いま、欧州では、ナポレオンの出現以来、戦争の絶え間がないと聞いているが、我が国は国政がいいので戦争の苦しみがなく、われわれのような者でも心安らかに暮らしている。」

私の時代の教育では鎖国は間違っていたという教育を受けましたが、鎖国の江戸時代は、町民に属する嘉兵衛まで、このような正常な考え方が行き届いていたのですね。実に驚くべきことです。

しかし、明治時代になって、国交を開いて間もなく、急速に軍国主義に汚染されてしまいます。第二次世界大戦まで、いくつもの戦争をすることになります。戦争の反省も大事なことですが、敗戦で自国のすばらしい性質を捨ててしまったことも省みる必要があるのではないかとも思いました。200年前、わが国民は嘉兵衛のような考え方ができたのです。

今回も日本人が持つ好ましい性質を紹介させていただくことになりました。大切に育てなおす時がきているように思われます。

潜水艦にまつわる話

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『教科書が教えない歴史』(藤岡信勝・自由主義史観研究会著)から、潜水艦にまつわる話を紹介します。

日本陸軍が航空機の生産を開始したのは、1937年(昭和12年)太平洋戦争の前でしたが、日本海軍がはじめて潜水艇を保有したのは、日露戦争の終わった1905年(明治38年)秋のことでした。潜水艇とは潜水艦の小さなものです。6号艇とも呼ばれていた佐久間艇は全長22メートルで、世界最小のものでした。

広島湾沖で潜水訓練中の潜水艇が遭難事故を起こし、乗組員全員が呼吸困難のために窒息しするという事故を起し、数日後ひきあげられました。

ヨーロッパでは潜水艇の遭難事故は、度々起きていましたが、扉の近くに遺体が群がり、乱闘のあとさえあったといいます。

「ですから、関係者たちの間では佐久間艇もそのような状況下もしれないと、思われていました。ところがハッチを開けると、艇長の佐久間は司令塔で指揮をとるままに息絶え、舵取りはハンドルを握ったまま、各々自分の持ち場を離れずに絶命していて、とりわけ取り乱した様子がなかったというのです。」

その苦しい息の中で書き残した遺書の中に、部下を死なせてしまった罪を詫び、部下が最後まで沈着に任務を遂行したこと、事故が将来の潜水艦の発展に妨げにならないこと、沈没の原因と対処について記してありました。

その上、明治天皇に対し、部下の家族がその後の生活に困窮しないよう配慮していただけるように懇願していたのです。

内外の新聞はこれを絶賛して報道しましたが、英国のグローブ紙は、このようなことは世界に例がないと、日本人の精神と道徳を褒めたたえたそうです。最近の東北の震災のときも、同じように世界の人々から、日本人の高い道徳性について、同様の賞賛をいただいたことを思い出しました。

もう一つ紹介したいのは、真珠湾攻撃の半年後、連合国の一員であるオーストラリアのシドニー湾を3隻の特殊潜航艇で攻撃して、爆撃を受けて日本人戦士が戦死したときのことです。

オーストラリア海軍司令官ムーアヘッド・グールド少将は、「敵国である日本の戦士があのような小型潜水艇で死地に向かうことは最大の勇気を要する。その行動は最高の愛国心によるものだ。」と、敵国の戦士であるにもかかわらず、海軍葬で弔ってくれた話です。私はこのことで、日本人にひきつがれてきた武士道の精神を見るとともに、オーストラリア人のレベルの高い精神に感動しました。

極限の状態になって見せる人の心、戦争という間違った行為の中に、悲しみの奥にも多くの学びがあったことを忘れてはならないと思いました。戦死者たちの墓地に参らせていただくたびに、その魂が悲しんでいるのではなく輝いている姿にいつも驚かされるのですが、彼らがその役割を全うして、いまの社会があり、その社会での役割を全うすべく我々が頑張っている姿を見て、彼らの命が無駄になっていないことを喜んでいるのでしょうか。

 

 

 

恩智の山にあった射撃場

ひきつずき、『日常の中の戦争遺跡』(大西進著)から紹介します。

恩智の山中に実弾射撃場が大阪国防協会によってつくられた。昭和16年11月に大阪府の中学生の協議会をおこなっている。大阪学芸校出身者は恩智で実弾訓練を受けていた事実がある。すなわち当所が射撃のメッカになっていたのであると書いています。戦後、この戦争遺跡は青少年キャンプ場として長らく利用されたが、今は全体が野山にかえっていると書かれていますが、この山を遊び場所にしていて、キャンプ場も利用した私の記憶には射撃場の記憶はありません。

当時機関銃体隊に属していた勝島さんは、上官に、

「玉一発も無駄にするな、評価点を上げろ。引き金は心で引くな、手で引くな。深夜(寒夜)に霜の降るごとく無心に自然体で」

と、教えられたと話されています。わずかな心の動揺、手の力みがあれば銃身に影響を与えて的をはずすという微妙な世界で、どのような状況でも自己制御ができるよう教育されたのですね。

銃口が的でなく、人に向けた時に、どのような精神状態になるか、想像しただけで、恐ろしくなります。昔、弓矢の名手である源為朝も、自己制御の達人だったのでしょうね。人生の全ての場面に通用するこころがまえの教育がされていたたのですね。

太平洋戦争の意外な一面

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『日常の中の戦争遺跡』(大西進著)を読み始めて、最初に感じたことは、予想と違った一面でした。戦争がもたらしたマイナス面だけを予想していたのですが、類焼を防ぐために道幅を広げたことが紹介されていました。これは戦後の復興に伴う自動車社会をどれだけ助けたことでしょう。また、滑走路のために作られた広い道や、中央環状線に設けられた4つの航空施設のための広い敷地は戦後の都市計画に利用されたということです。これらは戦時中の特殊な状況だからこそ、短期間で実行できたのです。

また、南方での負け戦でガソリンの供給路を絶たれて、燃料がなくなって、その対策として松の油を利用しようとしたことが書かれていました。私は山から松の木が消えたのは松くい虫の流行のためと聞いていたのです。本当の松くい虫もいたのでしょうが、強烈な松くい虫とは、軍隊のことだったのですね。戦争がもう少し長引いたら、松の伐採のために、日本全国の山が崖崩れを起こしていただろうと書かれていました。戦争終結のタイミングも見えない存在にコントロールされていたのでしょうか。

八尾空港は、戦時中は東洋一の空軍其地だったそうです。いまは小さなローカルな空港ですので、そんなに重要な基点だと考えたこともありません。太平洋戦争のときは、まだ、空軍は陸軍の下に所属していて、新しく出来た戦力でしたが、この戦争の頃に戦闘機が急速に開発され、強力な破壊力を持つようになったようです。この開発競争に遅れをとったころから敗戦は明白になっていたのですが、ある宗教家に勝利を祈願してくれと軍の幹部が頼んだら今回は負けることが決められていると答えたという話を読んだことがあります。見えない存在が、負けることを通して、それ以上の復興を準備されていたのでしょう。

前回には戦後の高安地域の様子を紹介しましたが、戦争中もこの地域の人々たちは素晴らしい姿をしていました。

働き盛りの男たちを戦地にとられた残された女性中心のこの社会は、その働き手の留守を死にもの狂いで守ったのです。農家がおおかったのですが、その農作業も重労働を女手でと老人でこなしたのです。子供の教育に関しても、恐怖心を起こさせることなく、仏壇に毎朝毎晩手を合わせて出征していった家族のためにお祈りし、感謝する姿をもって、子供を教育したのです。

当時、小学生や、園児であった、いま、高齢の人々は、大阪に焼夷弾が花火のように落ちていく姿を見ながら、恐怖ではなく、美しいという記憶しかもっていません。親の背中を見て育ったこの人たちは、その後、わが身を惜しまず、村の行事に進んで奉仕してきたのです。この高安村は、成人病予防会の活動ひとつ例にあげても、全国一で、1週間余りに渡る100名近い地域の人々が2000人近い村人のお世話をするというのは、通常では考えられません。

高安村に限らず、戦争中の民間人の生き様はどのような倫理教育より、優れていたといえるかもしれません。今日多くのノーベル賞受賞者が日本から出るのも、このような下地によるものかもしれません。日本全国の姿を見ても、負けて栄えるというのが、太平洋戦争の一面だったのでしょうか。

戦後の高安地域

農家中心のこの地域は戦時中の配給制度下でも食糧がなくなることはありませんでした。しかし、よく働きました。年上の従兄弟から、「兄ちゃん、姉ちゃんは夜中の2時、3時でも出荷する大根や菜っ葉を洗っていた。」と、私の父母のことを聞かされていました。 とにかく、よく働いたのです。私が生まれた日も、父と共に畑で仕事をしていて、産気づいて家に帰って隣の家の人が産婆さんに連絡し、まもなく、午後に生れたそうです。その赤ちゃんが私です。何日か前から入院して出産するいまの習慣からは想像できないですね。

母はとくに、恩智一の働き者といわれたそうですが、父はよく私に、馬谷さんのことを話してくれました。馬谷さんは、「ひっちゃくにち」(700日)と呼ばれていたそうです。365日しかない1年に700日働くからだそうです。ふつう、お百姓さんは雨の日は仕事を休みますが、この方は変わりなく仕事をされます。毎日、普通の百姓やさんの倍働くので、1年365日の倍の700日を意味する「ひっちゃくにち」というあだ名がついたのです。朝も昼も畑で食事をとり、夕食だけ家でとるという百姓やさんは他にもあります。馬谷さんは大きな敷地で欅の立派な門構えの家ですが、私が父から聞いたときには、門だけで1千万円はするだろうといっていました。

高安地域のなかでも恩智の人は特によく働くといわれていたのですが、他の地域でも、奥さんは畑仕事を手伝うほか、内職もして、生活費は内職の収入で、百姓からの儲けは、土地を買い集めたという話をききました。

植木屋さんの多い北高安地域では、夜中は仕事ができませんので、そこまで働かなかったのでしょうか、恩智には嫁にやるなといわれていたと聞いたことがあります。働くばかりの苦労をさせたくないという親心のようです。どんどん家が建って庭が造られた時代で、植木屋さんはそこまでしなくても、どこも、財を築かれたようです。豊かになる社会で、大きな金額を扱う建築屋さん、不動産屋さん、電気屋さんや、呉服屋さんも大儲けできたようです。

マイナスのことなど考える間もなく、とにかく働いてお金をつくる。そういう社会だったようです。戦争でなにもかも無くし、ゼロから出発し、働くことで生き延びる道が見えた時代だったようです。戦死で働き手をなくしてしまった家はどのような日々を送ったのでしょうか。

東野さんが黒谷にお住いの友人・大西進さんが書かれた「日常の中の戦争遺跡」という本を貸してくださいました、この本を読んで戦争のことを紹介したいと思います。

 

 

第2次世界大戦と戦死

戦争手紙6   戦争手紙1  戦争手紙3戦争手紙7戦争手紙5

 

浅井さんが表装されて保存されている手紙3通をみせていただきました。2つは中尉と少尉からの弔文でした。仲間から集めたお金も同封されていたそうです。

1つは、中尉から戦死者の母にに送られたものです。そこには、最前線の生々しい姿が書き込まれていました。書道の先生かと思われるほどの美しい筆字です。この長い手紙は何度か書き直されたに違いありません。

浅井さんの長男は20歳を過ぎたばかりでしたが、果敢な軍曹で、最前線の戦いをしておられました。地名がかかれていましたが、私にはわかりません。灼熱という表現があるので、南方の戦場であることはわかります。

相手は、十倍くらいの多勢で何回も攻防戦を繰り返す様子が描かれています。そのたびに、敵味方の遺体が戦場に残されます。

とうとう、敵の手りゅう弾が浅井さんの頭部に命中します。戦いが終わって手当を受けながら、

「天皇陛下万歳!」といって、間もなく息をひきとられたと書かれています。

戦死を覚悟して戦われた様子が伝わってきますが、昭和天皇はこの大勢の戦死者のことでどれだけ心を痛められたことでしょう。残された家族はこの悪夢としか表現の方法がない現実を、どのようにして、乗り越えられたのでしょうか。

戦後っ子である私達は、その後の好景気で寝る間も惜しんで働く忙しい毎日を過ごし、親から聞く戦争の話をうわのそらで、またいっているというくらいにしか、とらえていませんでした。年を取って、その戦争の実情をいまようやく知るのです。いや、大勢の人が知らない間にこの世を去っていきます。ましてや、私たちの次の世代は、遠い別世界のできごととしか捉えていないでしょう。戦後70年のこの年、戦争を振り返る機会を与えられたことはありがたいことです。

もし、この戦争に勝っていたら日本はどんな道を歩んだのでしょう。想像しただけで背筋が寒くなります。敗戦は、神々の配慮によるものだったのでしょう。戦死者の墓で、純粋な戦士たちが、魂を輝かせてむかえてくれるのを感じるとき、その役目を終えた人達がすでに救われているのを感じます。

 

 

 

 

戦争・神社・倫理

昨日、恩智神社に参拝したら、午後であるにもかかわらず、大勢の参拝客で境内がにぎわっていました。大部分が七五三のお参りでした。宮司によって神社がここまで変わるものだと、子供の頃の恩智神社を思い出していました。その頃は、地元の人でも、七五三は、わざわざ遠いところの神社にお参りしていました。

最近、参拝所の横に『愛和』と『倫風』という実践倫理宏正会の本が置いてあります。実践倫理宏正会は上廣哲彦さんが広島で原爆にあわれ、その体験から、戦争を起こすような社会をつくってはならないと本来の人の生き方を教え、実践させてこられた会です。

神道は宗教のひとつとして区分されていますが、万物の中に神を感じ、その見えないものに繋がり祈祷するという人本来の姿を宗教という区分に入れるのでしょうか。他の宗教のように経典というものがありません。教えのない宗教? 「宗教」という字には「教」という字があるのに。

その祈祷だけで経典のない神道に、人という社会を生きるための「倫理」という教えが加わって、超越的な宗教が生まれている。そんな感じをうけました。神道は目に見えない神々と繋がりながら、戦争を繰り返す中で、敵なる人を滅ぼすということも許してきました。他の宗教でも、考え方が違うという人々を滅ぼすことを許してきました。宗教戦争ということばもあります。人は本来、互いに助け合いながら、宇宙を創造された根源の存在に奉仕するものです。殺し合ったり、傷つけあうといのは明らかに間違っています。

その次は墓参りにいきましたが、その途中で浅井さんと出会って、戦争にまつわる話を聞きました。その内容は、近日中に紹介します。また、戦死者の墓参りを済ませたあとに東野さんに出会いました。戦争のときのことを詳しく調べて本を書いた大西さんという友人がいるということで、紹介していただけることになりました。取材して紹介したいと思います。

人類は、戦争など多くの経験を経て、人本来の生き方を実践すべきときが来たのだと感じる一日でした。