会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

月別アーカイブ: 2016年4月

河内の転換期・河内木綿の最後・刷子工業

河内木綿は、江戸時代、大和川の付け替え工事で広大な木綿栽培の新田ができたこと、北海道への航路が開拓されたことなどから、龍が天に上るがごとき勢いで、栄えることになったが、明治時代、外国から安い木綿が入ってくると下火になってしまったと紹介しました。

『小説河内風土記』(今東光著)からひきつづき、紹介です。

「『なあ。お留。インドちゅう国の綿が仰山(ぎょうさん)入って来たそうやな。今に河内の木綿、あっぷ、あっぷ、せんならんようにならへんか。』

といったことがある。お留はぎょっとして、

『気にするほどの事ないように聞いているけどなあ』

そうは答えたものの手紡糸(てむぎいと)は舶来機械系の進出のために次第に追いまくられ、その上に実はもっと悪いことが起こっているのであるが、とうていおかんの耳に入れる気がしなかったので黙っていた。それは縞久のお爺の話によると、

『河内の奴は、ほんまに阿呆んだらじゃ。インド綿がはいってきて、競争が激しい最中(さなか)に、えろう悪い染めを拵(こしら)えくさって、案の定、河内木綿の名ァ落しよってん』

これは確かに本当だった。機屋が丈夫な手紡糸を使うと工賃が高くつくので、若江村あたりでできる手紡糸の代わりに、近頃は舶来機械糸を経糸(たていと)に使い出したのである。そのために雲斎とか、厚司とか、足袋地などという手堅く丈夫なものも品質が落ちたところへ、粗悪な染料を使ったので、おかんの時代のように製品が景気よくさばけていかなくなったのである。」

河内木綿の家庭的な手工業に対して機械工業化した先週の攻撃に太刀打ちできなくなった。河内からも泉州の機屋に奉公に行く人も多くなった。(中略)

泉州では綿作が不可いとなると、綿畑を玉葱畑にしてしまった。これは成功した。この海辺の人々は一方では紡績を起こし、タオルやメリヤスを製造しながら、他方では玉葱をアメリカへ輸出して外貨を稼いだ。河内人は生きるために刷子製造を家内工業として家庭へ持ち込んだ。お留は、あれほど愛着の深かった機織り器や紡車を天井裏へしまいこんで、慣れない刷子造りを習った。」

しかし、この刷子の景気も悪くなる。

「刷子の景気が悪くなったのは、もちろん、敗戦の結果、中国や朝鮮や東南アジアの市場を失ったことに原因はあったが、特にアメリカが中共を承認しない国策から、その皺寄せが日中貿易に影響を与えた。(中略)ともかく世界的不景気は「刷子業にも及んだ。」

1951年9月、天台宗総本山延暦寺座主の勅命により大阪府八尾市中野村(いまの近鉄大阪線河内山本駅東側)の天台院の特命住職となった今東光は、檀家信徒と接する衆生教化の日々の中に、河内人の気質、風土、歴史の理解を深くした。そのおかげで、その小説を通して、大正、昭和期のこの河内の生活がまるでそこに暮らしているかのようにわかるのです。

 

 

八尾市山本・今東光・人の果て

『小説河内風土記』(今東光著)からふたたび紹介します。「一之巻 人の果て」からです。

「河内の人々は、棺桶をにない、檀那寺の和尚を先登に立てた長い行列をつくって、野っ原を吹く風にさらされながら、この焼き場の道を辿る。それが人間の最後だ。雑草を踏みしめながら、焼き場までくると、棺桶を焼き場に設置し、焼き場の前には小さな屋根で蔽った石の向い仏があり、それに位牌を置いて、嘆仏偈(たんぶつげ)を誦している間に焼香した。

(中略)

これらの会葬者は、銘仙の着流しに羽二重の紋付羽織をひっかけているかと思うと、米と交換した体につかないだぶだぶのモーニングを着ている者もあれば、まったく普段着の姿も見られた。」

これを読んで、昭和の中頃の葬式の姿を思い出しました。全くこの姿でした。焼き場には隠亡(おんぼう)という、人を焼く仕事の人がいた。焼き場の煙突からの煙が黒い色から白い色に変わっていきます。いまと違って焼きあがるまで長い時間がかかっていました。あたりには、髪の毛を燃やしたような臭気が覆い、野犬が啼いていました。

最近は、豪華な葬儀会館に車で乗り付けて広い駐車場に止めます。黒装束の人ばかりで、会場では生前のビデオなど芸能人ばりに上演されます。

昨夜、お通夜に行った人の家の西側に昔、大きな椋の木があったそうです。その木は、大きな石を抱き込んでいて、めずらしいものだから、印刷物にその写真が紹介されたそうです。当時の駒沢先生が生徒を引き連れてその木を見学したと話してくださいました。いまはその木も伐り倒されてもう見ることはできません。まわりの街並みもほとんど変わりました。

わずかの間に、葬儀の形もかわり、人の装束や、経済的な環境もかわり、石を抱いた椋の大木が消えてしまったように、人も消えていきます。いまないものの話をして何になるのだ。そういう気持ちで親のいうことを聞き流してきた激動の昭和時代を生きた私たちが、親から聞いたこと、地元に語りつがれてきたことをいま書き残すことを望まれています。

 

河内・闘鶏・やくざ・今東光

私は今東光の小説のことは何度も聞いていたが、いま初めて読むことになった。読み始めて感動を覚えた。そこには、私が幼いころ育った頃のことばがそのままあった。いまはもう年よりから一部しか聞くことがないことばである。

『小説河内風土記』(今東光著)から紹介ます。

「『そら、そうと。われ。中学校へいけへんのか。よォ』

と質ねた。

『新制中学か。あんなもん』

仁吉は鼻であしらった。

『あんなもんで。われ。なんちゅうことぬかすんじゃ。新制いうたら、われ、義務教育やないけ。あんまり、おとななぶりせんこっちゃ。夜(よさり)、小便たれんどォ。学校へも行きさらさんと軍鶏ばからりなぶっていたら』」

身の回りで聴いたふつうの言葉だが、いま聞くことはほとんどない。この言葉の意味がわからない人ばかりかもしれない。

私が高校生くらいの頃までは、このあたりはやくざだらけであった。小さな組の親分がいくつもいた。その子分たちは、近鉄大阪線の沿線の食堂(そういえば飲食できるお店をこんな言葉で呼んでいました)でつけで飲み食いしては、借金額が増えていくばかりであった。おかげでこのあたりの食堂はどこも儲からない。私が30歳くらいの時に、ちんぴらやくざに、たまった借金を取り立てにいったことがある。払えないものだから、のらりくらりと逃げ口上を繰り返す。私のきびしいことばに、武器をもたない私に日本刀を抜いてきた。このときは、なんとかおさまったが、翌日私はこのちんぴらの親分にこのことを話し、借金の請求をした。おおぜいの子分の借金を払っていくゆとりはない。これから行かないようにさせるから辛抱してくれといわれた。このときのいきさつからか、その後、その親分と一緒に町会の役をしたとき、この親分は私には特別な態度で接した。その後、事情はしらないがヒロポンという麻薬を常習していたためか、自殺してしまった。いま、思うとこの人はその先祖が事業で大成功した人の子孫だったのです。

また、ちゃぶ台をひっくりかえすような夫婦喧嘩は当たり前だが、その頃高価なテレビをたたきこわすという夫婦喧嘩をしたチンピラやくざのことも聞いている。

土地を買っては公園にし、そこに人を埋めているという噂を流した韓国系のやくざもいた。私の店で、飲んだビールの本数が違うといちゃもんをつけたが、私はほかの人のように恐れないものだから、2度とくることがなくなった。きりがないほど、こんな話がある。昭和時代のことだ。いまはもう全くない。住みやすい街になってすっかりそんなことも忘れていた。

闘鶏についても話は聞いていたが、私の時代にはもう見ることはありませんでした。

融通念仏河内御回在・小冊子「仏の智慧」

今年も融通念仏の融通念仏河内御回在が3月2日に始まり、5月29日まで続きます。南から順番に回ってきて恩智は、4月19~21日です。「心のしるべ」(融通念佛宗布教師会 No.73)

という小冊子をおいていかれました。一部を紹介します。

「「知恵」と「智慧」は、同じ読みですが、この二つには、人生を歩むうえで大切な教えが秘められています。

(中略)

「知恵」とは、本来の意味と違って、自分にとって都合よく働かせるもの、自分の思い通りにさせるものが「知恵」の働きのように思われます。徒然草第74段に「人々は、ただひたすら長生きを望み、利を求めて止むことがない。」とあるように、果てしなく続く、「知恵」の働きは、人間にとって便利でよいものになっても、それは人間を中心とした見方であります。人間の都合で、自然界に重大な影響を与えたように、人間にとっての良い悪いの尺度が、仏教では苦を生み出すものと教えています。「山川草木悉有仏性」(さんせんそうもくしつうぶっしょう)(全てのものに仏性が宿る)。

この世界のものは無駄なものはなく、自分も含めてすべてのものがつながっていることに気づかされ、今生きていることの「有り難さ」を感じることが、「智慧」の働きであります。」

昨夜、医大生の相談に夜中までのっていました。お兄さんは京都大学医学部を卒業し、いま開業されています。自分はそのように生きることができないというのです。宗教の考え方の違いで両親は別居生活中です。弟さんは、利に敏く生きるより、生かされていることを喜びあう友達と共感をもって生きることのほうが力が湧くというのです。当然です。親の期待に背くようなこんな考え方は許されないことでしょうかというのです。

人の考えというのは、わずかな情報をもとにしているので、結果は思うようにいかない。すべてのものに偏在する存在に意識を合わせて生きるというのは、新しい時代の進んだ生き方です。それを体験すると、宇宙の元の存在から、智慧をもらって、思いもよらなかった助けが次々と現れ、自分の知恵に頼った生き方と雲泥の違いが出るというような話で、すっかり自信を持って帰られました。宇宙がつながっているという体験はその意識になってしてみないとわからないものです。

今日、息子さんから、話をしていない父がこの共通意識を受け取っているという報告がありました。もともと、似た素質をもった父子なので、この共通意識を受け取ってしまったのですね。

 

恩智神社・橘・時じくの香の木の実

恩智神社の拝殿にむかって左側に橘の木が植えてあります(右近の橘)。右側には左近の桜があります。春日大社で受講している人たちが春日大社ゆかりの恩智神社を訪ねてこられて宮司のご子息にこれは橘ですねとたずねておられました。橘の実はまずくて食べられないとおっしゃっていました。その時、手元にあった古事記に「時じくの香の木の実」という橘の木の話があって、これを紹介しようと思っていましたが、毎日が多忙で、そのままになって古事記の本は図書館に返してしまいました。

いま手元に、日本書紀の現代語訳本があります。「田道間守(たじまもり)」の話が同じ話なのでそこから紹介させていただきます。

DSC_0027『日本の名著 日本書紀』(井上光貞責任編集)

垂仁天皇は90歳のときに、田道間守に命じて、常世の国(海外・おそらく朝鮮半島)に遣わして不老不死の「非時の香菓(ときじくのかくのみ」)を求めさせた。

ところが10年たって持ち帰ったときには天皇は99歳で纏向の宮でお亡くなりになっていました。田道間守は、お墓(菅原伏見御陵)のまえで泣き崩れて自殺してしまいました。

「ご命令を天皇からうけたまわって、遠方の絶域にまいりました。万里の波頭を超えて、はるかに弱(遠くはるかな河川)水を渡りました。その常世国といいますのは、神仙が隠れたところでありまして、ふつうの人がまいれるところではありません。したがいまして、往復する間に、自然に十年が経過してしまいました。どうして、ひとり、高い波をこえて、また本国にもどってこられると思うことができるでしょうか。けれども聖帝の神霊によって、やっと帰ってくることができました。いますでに天皇がお崩れになり、復命することができません。私が生きておりましても、また何の利益がありましょうか。」

いまなら、不老不死の薬などないとわかっていますが、このときにもし、間に合っていたら、それを食べても死んでしまったといことで処罰されたかもしれません。青々とし橘(時じくの香の木の実のこと)からは、不老不死のエネルギーを感じるかもしれませんね。また、仙人はその実を食べていたのでしょうね。

 

伊勢神宮・天皇家に伝わる秘中の呪術(2)

引き続き、『神武東征の謎』(関裕二著)より紹介します。

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「伊勢神宮の20年に一度執り行われる遷宮で、真っ先に切り出される木材は、伊勢神宮正殿の柱ではなく、正殿の床の下ににょきっと生えたような「心の御柱(しんのみはしら)」である。この「心の御柱」の祭祀は「秘中の秘」とされているが、この柱の祭祀に「大物忌(おおものいみ)という童女が大きな役割を負っている。

心の御柱を祀るとき、必ず大物忌(おおものいみ)が儀式を執り行い、また、どのような位の高い神官でも心の御柱を祀ることはできず、大物忌が心の御柱のまわりに800枚の平瓦を積み上げ、御饌を神(心の御柱)に捧げ自らも食する、という儀式を執り行う。

(中略)

大嘗祭の大役を担う造酒童女(さかつこ)の次に大切な役目を負っているのが、物部氏だった。大嘗祭の中で、一般の豪族はまったく手をつけられないのに、なぜ物部氏だけが「秘中の秘」の深部に潜り込むことが許されているのだろう。

ここで伊勢神宮の心の御柱の祭祀を思い出してみよう。童女・大物忌は、心の御柱に800枚の平瓦を積み重ね、神に神饌を捧げ、自らも食していた。この儀式とそっくりな光景が、神武東征のなかでくり広げられていた。

それは、天香具山(あめのかぐやま)の土を密かに取り寄せ、平瓦80枚と厳瓦(いつへ)をつくり、厳瓦の食べ物(神饌)を神にささげ、自らも食すと、敵を圧倒する神通力を獲得することができたわけである。この祭祀は、まさに大物忌が行う心の御柱の祭祀と共通する。」

これを読んだときに、私は以前体験した2つの事柄を思い出しました。まず、ひとつは、遷宮の時の御柱の板です。ある人から触ってみてくれと言われて、「そんなものを人に触れさせるべきではない。」と断ったのですが、むりやり触らされて驚きました。その板から、温かい強いエネルギーが出ているのです。人の手からはそのようなものを感じますが、木からでているのは驚きでした。どうしてそんなことができるのでしょう。

もう一つは天香具山(あめのかぐやま)の土です。これは、虫の糞だということがわかっています。これで、杯をつくってその酒を飲んで、戦いに勝利したという話を聞いています。また、信濃県の行者でこれと同じ虫の糞の土を食べて、神通力をもった話を読んだことがあります。私も無理やりからこの土を口に入れられましたが、とくに変わった味もしませんでした。わずかでしたからか、もちろん神通力もついていません。たくさん食べておくべきでした?

(私がわずかしか食べなかったのは食品衛生上土中菌の問題があるからです。絶対におすすめはできません。)

 

伊勢神宮・天皇家に伝わる秘中の呪術(1)

『神武東征の謎』(関裕二著)より紹介します。

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「宇摩志麻治尊(うましまじのみこと)は、まず天しるし瑞宝(あまのしるしみつのたから)を納め、天皇のために鎮祭(しずめまつり)(鎮魂祭)を執り行い、饒速日命(にぎはやひのみこと)と共にヤマトに舞い降りたという天鈿女命(あめのうずめのみこと)の末裔・猿女君(さるめのきみ)が鎮魂祭の日に神楽(かぐら)を行い、そのときに、「一二三四五六七八九十(ひとふたみよいむななやここのつとたり)」と唱えたとしている。

この記述のなにが重要かというと、まず第一に、神武天皇の即位が、物部の神宝によって「保障された」というニュアンスのあることである。

そして第二に、猿女君が唱えたという鎮魂祭の呪文が、物部氏の呪文であったことなのである。

現在でも、物部系の神社・石上神宮では、「一二三四五六七八九十」と数え、さらに「ふるべゆらゆらとふるべ」と唱えた巫女(みこ)が、鈴を振り鳴らし、舞っている。鎮魂祭では、鈴ではなく、霊的な力を持つと信じられていた「木綿(ゆう)」の糸を箱に入れて一から十まで唱え、揺すって天皇の霊を力づける呪術が執り行われていたのである。

(中略)

折口信夫は、物部氏の新党における重要性を、次のように指摘している。

「外からやってくる魂が毎年冬になると人につき、魂の入れ替えをするという古代日本の信仰形態があって、新嘗祭(新嘗祭は毎年行われるが、天皇の即位の年に行われる新嘗祭が大嘗祭となる)も、魂の蘇生を目的とした行事だ、とする。そして、天皇と人の違いは、天皇は「魂の容れ物」であること、天皇には唯一「天皇霊」がつくのであって、その霊は、皇祖神・天照大神から引き継がれたものとする。

さらに「魂の入れ物」に入るのは、「天皇霊」だけではないという。天皇には日本の国を治めるのに根本的な力の泉があって、それが、群臣から天皇に差し出されたものであり、群臣の中でも重要なのは、物部氏であったとする。

天皇は大和の国の君主であるから、大和の国の魂の著いた方が、天皇となった。大和の魂は物部氏のもので、魂を扱う方法を、物部の石上(いそのかみ)の鎮魂術といふ(『折口信夫全集 第3巻』中公文庫)」

この話は、神武天皇がヤマトに来た時にすでにヤマトを治めていた天神の子、饒速日命(物部氏の祖)がヤマトの真の統一のために同じ天神の子神武天皇に呪術によって協力したことを示しています。日本書記の記述が示すようにけっして天神の子どうしの戦いによって勝ち取ったものではないと思われます。武力では神武天皇の武力はあまりにも小さすぎたといわざるを得ません。

(続く)

恩智神社・春の卯辰祭

今日、恩智神社のはじめての試みとして、春の卯辰祭が行われました。雨という予報にもかかわらず、晴れた日の心地よい風を受けながら琴、三味線、踊り、抹茶などを楽しませていただきました。大御食津彦や大御食津姫の神様はどうしておられるのかと、思いましたら、光となり、風となり、木となって、楽しんでおられました。先日紹介させていただいた話のことを思い出しました。

大御食津彦(おおみけつ)命は食物のことを司る神様です。毎日雨の日といはず風の日といはず、春も夏も秋も冬も野山に稔るいろいろの食べ物のことを心配して、野山を見廻りながら手入れをしているこの神とともに喜び合う機会を与えられたのだなあと喜びの心で満たされました。

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拝殿前で聴く、三味線や、琴の音が体の奥に響いて、心身ともに至福のひとときを味わうことができました。神とともに楽しむというのは別格のものがありますね。当日の朝に急に92歳の母が行きたいというので、妹たちが参加の途中で母を乗せて行ってくれました。私は仕事の都合で母や妹たちが帰ったあとから行きましたが、お元気なお母様ですねと皆様から声をかけられました。

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このような楽しい催しは、またしていただきたいと口々に言いながらお別れしました。

美家古の料理弁当をとっていただきましたが、おいしかったですとお礼の言葉をいただきました。ありがとうございます。お世話をいただいた神社方、奉仕の皆様方、素晴らしいひとときをありがとうございました。私はみることができなかった雅楽の写真を妹が送ってくれましたので紹介します。

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妹に教えられて、youtubeで神社庁の「朝日舞」や、伊勢神宮の「蘭陵王」を見ました。

蘭陵王についてインターネットから紹介させていただきます。

「蘭陵王は、中国古代の英雄で、軍略家として有名な軍人でしたが、その才能をねたまれ、紀元573年、毒殺されてしまいます。蘭陵王はその容姿があまりに優美でしたので、戦場で敵を驚かすために、わざと恐ろしげな面をかぶり、自ら作曲した『蘭陵王入陣曲』 を演奏しながら出陣したといわれています。敵はその曲を聴くだけで逃げ出しました。それがこの面だといわれています。 唐代、遣唐使によって、舞楽『蘭陵王入陣曲』は、わが国へ伝えられ、伝承されてきました。伊勢神宮、春日大社、熱田神宮などに 国指定・重要文化財として現在も保存、演奏されています。日本の獅子舞の源といわれています。」

河内八尾の寺内町(2)

久宝寺寺内町と戦国社会』(八尾市立歴史民俗資料館編)より、紹介します。

「15世紀中頃の日本は、各地で守護大名の家の内部で対立が起こり、地域を巻き込んで戦争が起こりました。河内では応仁の乱(1467~77)の前から官領家畠山氏の家督をめぐって畠山義就・政長兄弟が争いを起し、深刻な戦争へと発展しました。特に長禄4年(1460)大和国龍田合戦からはじまった戦争は畠山義就が南河内の獄山城を囲みました。ちょうどこの頃、寛正の大飢饉が起こり、河内の多くの民衆が餓死したといいます。]

国全体を統治する幕府の支配力が弱まり、中間支配者の争いが起こる中で、知識や知恵に恵まれない民衆ほ不安はいかばかりであったのでしょう。大きな軍事力の前に抵抗する力や自らを護る力など無いに等しい状態だったようです。ましてや、飢饉などという事態には、厳しい年貢のとりたてで貯えのない農民たちにとっては、国の助けがなければ飢え死にしかしかたがなかったのですね。

「本願寺8世蓮如(1415~97)が、活躍を始めるのはこの頃のことです。蓮如も比叡山延暦寺から度々弾圧を受けましたが、多くの支持者を獲得し、社会的な基盤を確立しようとしていました。近畿圏のなかで、最も激しい戦争が続いた河内国でも、蓮如を支持し、自分たちの生活を守るために生きた人々がいました。その中で河内のリーダー的な存在のひとりに慈願寺法円がいます。」

一方、荘園という税の軽い環境で財を貯えることができた寺院集団でも、武力をもたないと自分たちが守れない社会情勢になっていました。仏教という教えとは矛盾するものがありますが、仏教を護るためには,自衛しなければならなかったのです。しかし、その武力は、仏教界の中でも使われて、考えの違う宗派を潰す手段にも利用されたのです。

そのために、蓮如が比叡山延暦寺によって寺を追われて河内にやってきたおかげで、河内の住民にとっては、まさに神仏の助けをいただくことになったのです。蓮如に集る人々で「市をなす」(それほど大勢の人々が蓮如の話を聞きに来たという意味)というほどだったようです。地獄のような日々を過ごしてきた河内の民衆にとって、どれほどの救いであったことか思い図ることができます。(続く)

八尾市久宝寺寺内町・麟角堂

『伝説の河内』(松本壮吉著)に久宝寺寺内町・麟角堂(りんかくどう)の話もありました。

「学問好の殿様 …久宝寺麟角堂(りんかくどう)の話…

室町幕府の時代に、河内久宝寺の城主に渋川左馬允満貞という殿様があった。武勇に傑れた人であったが、また一面学問を深く愛して、その研究にも余念がなかった。そして人間は武術だけではいかぬ、文学の力もなければ立派な人間にはなれぬ、文武両道に達してこそ、真の武士であると常々家来たちにも言っていた。しかし、如何に学問を勧めたところで、これを教える機関がなくてはなるまいといふので、或る年、遂に意を決して、文教の振興を図る為家来に命じて城下に立派な学舎を建築した。(中略)

こうした学問の殿堂が出来ると、若侍は元より、町屋の子弟まで大変喜んで続々とこの殿堂に集ってきて、熱心に講義を聴くようになった。そしてこの学問の殿堂の名が普(ひろ)まると、伊藤仁斎とか、荻生徂徠などと言う当時の天下の学者までが、この学問所へ続々と出てきてこれらの学徒たちに蘊畜(うんちく)を傾けて学問を講じたから、麟角堂の名は益々高まり、笈(きゅう)を負うて遠国から遥々来る者が沢山になったといふ。」

八尾は室町の時代から、町民まで学問の機会があたえられた実にめぐまれた地域だったのですね。渋川満貞様ありがとうございます。