会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

月別アーカイブ: 2016年5月

八尾市恩智・安養寺・弘法大師

安養寺の本堂には阿弥陀仏が安置されていますが、本堂の前には、弘法大師の大きな像があります。毎月21日はお大師さんの日で、大勢の参拝があります。弘法大師が活躍された頃から1200年ほども経つのに大変な人気です。

お大師さん(空海)が悟られた密教の教えとはいったいどのようなものなのでしょうか。それまでの正統派奈良仏教は、教学が中心で膨大な仏教典を読み、覚えるのに追われて、人の現実の生活に大きな影響を及ぼす、病気や、天候に影響を与える力に欠けていたといえます。雑密(空海が取り入れるまでに部分的にはいってきた密教のこと)の孔雀明王経を用いて、孝謙上皇の病気を治したり、飢饉を改善したりして弓削の道鏡は一躍注目を浴び天皇に次ぐ最高位まで得ることができました。世の中は実効性のある宗教を求めていたといってよいでしょう。

空海は修験道を通じて雑密に触れる間に、その頃インドから中国に伝わっていた「大日経」に関心を持ち、遣唐使に加わって、密教を理解し、日本に持ち帰りました。「大日如来とは宇宙そのものであり、その被造物にあまねく存在する根源の神です。人間が大日如来の応身としての諸仏、諸菩薩と交感するとき、かれらのもつ力を借用できると説きます。しかも、欲望の束縛から脱することで成仏するという教えではなく、欲望を持った人間という存在そのものも菩薩であり、本来の輝きをもって現実世界を生きる姿を尊びます。諸仏、諸菩薩との交感により、その力を借用できると説きます。身口意の三業をきわめて、宇宙とのかかわりを強めます。大日如来を思う強い心と、真言と印を結ぶという所作が求められます。

宇宙の元である大日如来に通じるが故に、霊験あらたかです。つらい現実をあきらめ、来世に望をかけるしかなかった人々は、この世を楽しく生きるすべを得ることになります。

ただ、この行は体験するしかなく、言葉で教え受け取れるというものではない。空海なきあと、同じレベルの人は現れませんでした。しかし、空海を慕って空海に守られながらこの行を行おう(同行二人)とする人々は1200年という年月を超えて続いています。安養寺に集る人々もそういう人でしょうね。

 

八尾市恩智・安養寺・修験者

安養寺は、八尾市恩智の向谷(今の地名は恩智中町4丁目)にあります。境内は近隣の他の寺院に比べればかなり広く、本堂以外に、広い裏の山腹に、不動明王堂、大師堂、毘沙門堂など多数の施設があります。

『生駒の神々』(宗教社会学の会編)によると、

「この寺院の運営は、僧職ではなく世話人の合議制に基づく。そして世話人の中には、当寺院の属する宗派とはかかわりのない、つまり多宗派の檀家役員がいたりする。このような、宗派にしばられないあり方、利点を生かし、信者の多くも、この種の気さくさ、おおらかさを求めてここを訪れている様子がうかがえる。」

と紹介しています。

お大師さんに惹かれてお参りする人が中心のように見受けられました。修験の行者たちが護摩をたくなど、生駒甘南備山の霊地であらたかな霊験を求めたり、霊感を求めて密教の教える宇宙と自分の世界を悟ろうとする人々が訪れるようです。

赤飯の昼食をいただいたときに同席した3人のご婦人とお話しさせていただいたら、八尾や、久宝寺、法善寺から来られたかたで、浄土真宗東本願寺派、西本願寺派、真言宗などさまざまでした。

世話役のかたは、地元の人や親戚の人が中心で、顔見知りの方が多く、護摩木の世話をしたり、赤飯のかかりをしたり、案内したりされていました。

なんといっても、安養寺大祭運営の主役は修験道の行者さんでしょう。本山修験集聖護院門跡神変講社近畿連合会会長山本武次さんに、後日、修験道の詳しい説明を聞かせていただくことになりました。顔みしりの方ですが、このような人が恩智に住んでいるとは。70代後半だというのに、10歳近い年下の私より元気です。安養寺の住職のお父さんも毎日大峰山にのぼる行者であったと親から聞いています。恩智というのは不思議な土地ですね。

八尾市恩智 安養寺5月大祭 紫燈大護摩供(火渡り)

安養寺の取材をしたいと思っていましたら、5月大祭の案内が来ていましたので行ってきました。 11時から、ご詠歌のあと、大きな数珠を使った「念珠くり」がありました。40人ほどで念仏を唱えながら、数珠をくります。人数が多かったので、2回に分けられました。1回の人数が少ないときは、数珠が重くなるそうです。

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そのあとは、本堂に隣接する講堂で赤飯の昼食をいただきました。

「大護摩供」までの間、寺の奥の山の中の各施設の前で行者さんがお経をあげるというので、ついていきました。不動明王堂から出発して、頂上は、この山から出た弥生時代の銅鐸の記念碑の前でした。

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この後、整列をして下の駐車場の紫燈大護摩祭の会場に向かいます。

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点火されると、真っ白い煙が立ち、空に昇って雲になりました。

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隣の人が教えてくださったのですが、枯れた木より青い木のほうがよく燃えるそうです。水分が多いせいだとおっしゃっていました。それで水をかけているのですね。火の勢いを抑えるためだと思っていましたら、違うようです。

この後、加持祈祷と祈念の火渡りが行われました。加持祈祷は一人ずつ行われるので長時間になります。並んで順番におこなわれましsた。

火渡りは行者さんのパフォーマンスかと思っていたら、一般参拝者のためのものでした。安全のために火はほぼ沈火してあり、靴下を脱いで裸足になり、まず塩を踏んでから炭の上を歩きます。年配者には行者さんが介添えしてくださいます。はじめは熱いと思いましたが、一瞬です。頭がすっきりしました。足の裏の刺激がいいのですね。

 

源頼朝の不思議な運命(4)

この勝利のあと、一気に京都を攻めると誰もが考えたに違いありません。しかし、頼朝は動こうとしません。俄かに集まった者たちにしっかりとした頼朝とのつながりを確立させ、東国を強い絆で地固めしてから京攻めをしようと考えたのです。奥州の藤原秀衡と義経の関係も気になります。また飢饉の京都に入った木曽義仲の軍は、食料がないため、軍兵が町民から食料を略奪するなどの狼藉を働き、せっかく勝利したのに町民や法皇からきらわれました。

頼朝は義仲が京都に入ったという情報を得たときにショックを受けましたが、ひとこと、「義仲は京で飢えるだろう。」といったそうです。

僧もできないような読経の習慣によって、見えない大きな力とつながる力を身に着けていたからできたことだと感じました。頼朝の姿と同時に、行に明け暮れた役小角や、空海が浮かんできましたが、何も難しいお経と唱えるだけではなく、念佛でもマントラでもいい。見えない大きな存在を意識しながら唱え生きることが人本来の生き方なのでしょう。そういう生き方をすれば、人知をはるかに超えた動きができるのでしょう。

 

 

源頼朝の不思議な運命(3)

伊豆の頼朝には、謀叛を起こすための兵力がない。私なら兵力がなければどうすることもできないとあきらめたに違いありません。しかし、頼朝は、豪族の娘の子を産ませて、親を引き込むという方法を考えたのです。それで伊東祐親の娘に子を産ませた。ところが祐親は、頼朝の期待とは違って、平家の嫌疑を恐れ、その子を殺し、頼朝も殺そうとした。

北条家に逃げ込んだ頼朝はこんどは、北条家の長女の政子と結ばれた。政子の妹が手に橘をもった男が夢に現れたという話をすると、それは凶だという夢判断(実は吉夢なのだが)で妹をだまして、その夢を妹から買うという取引をする。政子は、これまで、相手が頼りない者ばかりなので誰とも結婚しないできたが、この頼朝に異常な執念を持って結ばれた。このおかげで、頼朝は北条家の命運をかけた助けを得ることができたのです。頼朝も伊東祐親で失敗しているだけに慎重に事を運ぶことになったでしょう。頼朝にせよ、政子にせよ、その父北条時政も、大きな運命については自分ではどうすることもできないようです。

以仁王が敗死してから3か月、後白河法皇の密旨と、北条時政の後押しで、頼朝は富士川を挟んでの平家との会戦を迎えます。しかし、京都をはじめ西国の飢饉のためにろくな糧食も携帯せずに東征してきた平家軍は、空腹と疲労で餓死直前だった。夜のうちに平家軍の大部分は川を渡って敵地に逃げ込み、平家軍はわずか千数百騎になっていた。それに対して頼朝軍は平家に対する不満が頂点に達したものたちが集まり、数万騎。東国は実りに異常はなく、兵士の食料も十分でやる気にあふれている。

陣地近くの富士沼から一斉に飛び立った鳥の羽音を敵の攻撃と勘違いして、残った平家軍は敗走してしまった。戦うことなく頼朝軍は勝利します。蜂起してわずか60日後です。以前に自分には兵がないと思案していた頼朝です。

忽然と大軍の主になり、時の政府軍を数において圧倒するなどありえないことだと、『義経』(司馬遼太郎著)には書いています。西国の飢饉。なんというグッドタイミングだったのでしょう。大きな神の計らいを感じずにはいられません。それを思うと、頼朝の読経の姿が目に浮かんできます。

源頼朝の不思議な運命(2)

1179年、清盛の嫡男、重盛が死ぬと、法皇はなにを思ったのか、重盛の知行国を没収してしまった。清盛は激怒し、クーデターを起こし、法皇を幽閉した。これによって、清盛の知行国は、全国の半分を超えてしまった。もはや平家の前に敵なしという平家の力が極まったかのように誰の目にも映った。

しかし、これが反平家勢力を結集するエネルギーとなったのです。真実の動きは人の目にはみえないもののようです。伊豆の頼朝の身辺にも波が立ち始め、その準備が整いつつあります。

後白河法皇の第3皇子以仁王(もちひとおう)は、才覚も人格もよかったが、清盛の妻の妹である皇后に嫌われて、親王宣下さえももらえなかった。それで平家を憎んでいた。

一方、源頼政は、平治の乱で平家側について勝利したため公卿になっていたが、平家の傲りにがまんがならず、以仁王と手を組んだ。1180年、新宮に隠れて新宮十郎と称していた義朝の弟義盛に、以仁王が出した平家征伐の令旨を持たせ、行家と名前を改め東国の源氏を回らせた。しかし、以仁王と源頼政は敢え無く敗死。これで反平家の勢力は完全に途絶えたかのように見えた。ところが、この令旨が全国で耐え忍んでいた源氏を奮い立たせることになるのである。

宇宙の元の微細な情報しか持たない人個人の頭では、すべてが繋がった見えない世界を理解することはできません。終わってしまったこうした出来事を見てさえも理解できないのではないでしょうか。私たちは、日ごろ、いかに目先だけをみて右往左往しているかと気づきます。

 

源頼朝の不思議な運命(1)

<流された伊豆での不思議>

1160年平治の乱で、14歳のときに源頼朝は伊豆にながされたあと、亡父亡臣のために僧も及ばぬほどお経を唱え続けた。この情報を受け取って六波羅は安心していた。しかし、その一方で、中宮の属官をつとめていた三善康信が月3度、十数年の間、「平家情報」を送り続けた。この「平家情報」の送付は誰がみても通常ではない。亡き義朝がさせているとしか考えられない。

また、比企ノ尼という乳母(うば)は、この頼朝の境遇を憐れに思い、はるばる武蔵から米を送り届けて、頼朝の暮らしを20年間にわたって支え続けた。その娘夫婦はわざわざこの配所のそばに住み、頼朝のために濯ぎや炊ぎの世話をした。これらの世話がなければ、頼朝は、きわめて環境の悪い蛭(ひる)が小島という配所で、給付のない流人として一人で生き延びることができただろうか。宇宙はすべてつながっていて本来ひとつのものです。僧も真似ができない読経をする頼朝の生きざまが宇宙とのつながりの力を高めて頼朝はここまで護られたのだろうか。

あるいは、『鎌倉繚乱』(伊藤致雄著)に書かれているように、その後起きる元寇などから日本を護るための武家社会の育成をねらった、他の星から来た生命体の高大な働きだったのかもしれません。

源頼朝・義経の不思議な運命

平治の乱で河内源氏の主だったものはすべて殺されてしまいます。しかし、ここで当時としては考えられないことが起きます。

源義朝三男の頼朝は熱田大宮司藤原季範(すえのり)の娘との間でできた子であるが、12歳で平治の乱に従軍し、父とともに東国へ落ちる途中、疲労と吹雪のために父の一向からはぐれ、美濃で捕えられ六波羅に送られた。

「その頼朝を、思わぬ者がが命乞いした。清盛の継母の池ノ禅尼(いけのぜんに)である。平家的発想は、この尼にいたってもっとも極端であった。尼にとって、頼朝などは顔も知らぬ源氏の子である。ところが尼は、家盛という実子を若死させている。

『その家盛に似ていやる。家盛の供養とおもいあの子供を助けてあげてたもれ』

と、清盛に泣きついたのである。清盛が、

『武門の子は怖うござる』

と道理をさとして拒絶すると、この継母は狂乱せんばかりに掻き口説き、ついには『継母なるがゆえに私を軽んじやるのか。ああ、お父様(忠盛)が生きておわせばかようなあしらいは受けぬであろうに』とまでいったから、清盛も閉口して頼朝の一命を助けてしまった。罪は伊豆へ流罪、という寛刑であった。」『義経』(司馬遼太郎著)

あとで、尼は、よく見るとそれほど似ていないのに、なぜあのとき、狂ったようにあんな嘆願をしたのだろうと思ったに違いない。私たちも人生を振り返ってみると、恋愛などでそんな体験をしている。

一方、義経は常盤との間の子である。常盤は藤原の貴族により、都の千人の美女から選ばれたもっとも美しい女性だったが、身分が低いために貴族からは相手にされず、義朝が通って子を産ませた。その子のひとり、牛若が義経である。常盤は義朝なきあと、隠れていたが、清盛は厳重な捜索を命じ、常盤の母を捉えて厳しく尋問した。これを知った常盤は母の命を助けるために3人の子供とともに名乗り出た。

「『3人の公達の御命まで助け候えとは申しませぬ。しかしながらまず私を殺してのち、いかようにもなしてくだされ。このうえ命を長らえて夜昼の嘆きを繰り返すのにたえられませぬ』といった。

このためそばにいる明けて6つの乙若が、母の顔をのぞきこんで、

『泣かずによく話を申し給え』と心配そうにいった。そのいじらしさが、平家の検察官たちの涙をさそった。おどろくべきことに、途中、座に堪えられずに中座するものさえ数人出た。東国の源氏武者の強旱(きょうかん)で復讐心につよいのにひきくらべ、涙もろさは西国の平家侍の共通性であったろう。(中略)

清盛も例外ではない。つとめて仏頂面(ぶっちょうづら)ですわっていたが、やがて彼自身が自分に不快になるほで涙を流し、断獄者としての資格をうしなった。

ただその途中、

『常盤、面をあげやれい』

といったのは単なる人情ではない。多少の好色がはいっている。その瞬間に歴史が決定したといっていい。

尋問がおわったあと、『たすけてやれ』

と、執行官たちにいった。みな驚いた。義朝の長男悪源太義平は逢坂山で捕えられ、六条河原で切られているのだ。」『義経』(司馬遼太郎著)

同様に頼朝や、義経のことを書いた『鎌倉繚乱ー神の血筋』(伊藤致雄著)でその著者は、このような運命を宇宙の星からやってきた神の働きによるものとしているのですが、わたしたちも理性を超えて自分でも驚くような行動をするときがあります。人は自分の意志で行動しているように思っていますが、自分の行動をよく観察してみると、自分以外の働きに動かされていることがあります。

平家の栄華は、この時点からうなぎのぼりになりますが、同時に影ではこの火種がくすぼり続けて源氏によって滅ぼされる運命をたどることになるのです。さらに、この後、頼朝や、義経に起こる不思議な運命を書きたいと思います。

 

 

 

保元の乱・平治の乱・武家社会と源氏平氏

世の中は、天候不順で飢饉が続き、国司と荘園領主である寺社との間に、あるいは武士同士の間に頻繁に紛争が起きていた。呪術だけにたよってきた天皇家をはじめとする貴族にかわって、武力を使える武士の力が育まれていったのである。大陸では、すでに騎馬民族が武力を行使し、農耕民族をしたがえ、広大な地域を統治しはじめていた。実際に100余年後の1274年には世界最大規模になった元が日本まで攻めてくるのです。

崇徳天皇(75代)は、近衛天皇(76代)、後白河天皇(77代)のときも院政がとれず、上皇になってもいっこうに政治の実権がまわってこなかった。兄の藤原忠通から関白の座を奪おうとする藤原頼長と手を組みます。1156年、保元の乱です。当時、武士の棟梁は貴族よりは金持ちであったが、貴族から見たら番犬程度の扱いしかされていなかった。地位がほしくて、京の警護に奉仕していた武士の棟梁の源氏、平氏が天皇家と摂関家の権力争いに巻き込まれます。

保元の乱で勝利した平清盛と源義朝の恩恵には差がありました。清盛と深いつながりをつくっていた藤原信西(通憲)のせいだと思われていますが、清盛の父は長きにわたって実権を握っていた白河上皇であったことからその差がついたのだと思われます。

1159年、自分の出世を信西に邪魔されて信西に恨みをもつ藤原信頼と手を組み、信西を殺し、天皇、上皇を幽閉し、一時は勝利したかに見えたのですが、清盛に奪い返されます。清盛は、摂津源氏・源仲政の長男源頼政を寝返らせて、河内源氏の義朝は殺されます。平治の乱です。この後、平氏でなければ人でないといわれた平清盛全盛の時代が来ます。誰にもくつがえされないように見えたこの栄華と裏腹に、始めから平氏滅亡の火種が確実にくすぼっていたのです。

これからお話することは、実に不思議な出来事です。

神立の手塚・摂津源氏源頼光

八尾市神立に手塚という塚があります。『伝説の河内』(松本壮吉著)から紹介します。

「宇多大森の里に、夜な夜な妖しい鬼が現れて、妙齢の女とみれば捕えてくらひ、男や老人たちにも悪戯(いたずら)をすると言うので、里人たちは非常に恐れて、日が暮れると路行くものもなくなった。源頼光はこれを聞いて、此の儘捨て置いては里人の迷惑、武門の名折れにもなるというので、頼光の家来で四天王と謳われている豪傑の中の一人、渡邊綱(わたなべのつな)にこの妖鬼を退治するように命じた。結局は、取り逃がしてしまったのであるが、切り落とした鬼の毛だらけの片腕が残っていたので持ち帰った。(中略)

それから、7日目の夜、表の戸をトントンたたくものがあった。誰であるかと聞くと、

『高安の城から頼光の母が参りました。』」

と、母に化けた鬼が失った腕を取り戻しにきたのだ。頼光はじめ一同が鬼に切りかかると鬼は腕を置いたまま逃げ去ったそうである。この鬼というのは、生駒山に住む渡来系の修験者だったのでしょうか。

この話で、頼光の城が河内の高安郡にあり、頼光の母がそこに住んでいたことが伺われます。この鬼の手は、河内の神立にある樹影に埋められました。摂津源氏と呼んでも河内の北の半分くらいまでがその一族の居住範囲だったのですね。