会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

月別アーカイブ: 2016年10月

宇宙と人類

『宇宙1・天に満ちる生命』(NHK「宇宙」プロジェクト編)を読んでいくと、

ハッブル宇宙望遠鏡がもっとも遠い宇宙を撮影した写真があり、

「そこには120億年前にさかのぼる無数の銀河が写っていました。1000億個以上といわれる銀河の数。私たちは本当に孤独なのでしょうか。はたして地球外生命との交信は可能なのでしょうか。」

とコメントされています。そして元宇宙飛行士のジェラルド・カーさんの談話を紹介しています。

「なにしろ、星の輝き一つをとっても、地上から見るのとまったく違うのです。星の一つひとつが太陽と同じ恒星であるということが理屈抜きに実感できるのです。しかも、そうした輝きがあらゆる方向に満ちていて、私たちをつつみこんでいるのです。宇宙では、無数の太陽が無数の生命の世界をつくっているに違いない。そうして、原始的な生物から、高度な知性を持つ生物にいたるまで、ありとあらゆる生物が誕生と進化、衰退と死をくりかえしているに違いない。そういう、啓示のような直観が私におとずれ、私の宇宙観は大きく変わったのです。(中略)

人間は自分を特別な存在であるかのように思っています。しかし、それは人間の思い込みにすぎません。宇宙から見れば、人間の営みはあまりにも小さいのです。文明というものも、とるに足らないものなのかもしれません。」

私はこれを読んで、思いました。確かに物質としての人間は広大な宇宙のなかでは取るに足らない小さな存在かもしれません。しかし、この広大な宇宙の端まで意識できる統合的な精神を持った極めて優れた存在であると感じました。何層もの波動をもった宇宙と、同じく何層もの波動をもった人間が関わった世界。人が宇宙の全てと繋がっている。このように捉えるなら、人は宇宙とともに想像もつかない進化を繰り返していくに違いないとも思えるのです。

 

宇宙

歴史の本を読んでいると、いつから人は存在したのか、いや、地球は?宇宙は?と元が知りたくなりました。そこには、天体衝突という一瞬にして多くの生命が奪われる、恐ろしい宇宙の一面と、それがあるからこそ起きる、何者かに意図されたと感じられる進化という一面がありました。

『宇宙1・天に満ちる生命』(NHK「宇宙」プロジェクト編)より紹介します。

「キャロライン・シューメーカー博士は、夫とともに天体衝突について調査を続け、コメットシャワーについて知るにつれ、宇宙への考え方が大きく変化してきたという。『宇宙は、私たちがふつう思うように静かで平和な場所でなく、とてもダイナミックでさまざまなことが起きています。この宇宙の姿を知ったとき、私は大きな矛盾を感じました。私は仕事で夜空を撮影した写真を見て、小惑星や彗星を探してきました。夜空を見始めたきっかけは、私たちの生きている実世界ではクレージーなことが次々と起きていることと比べると、星の写真はとても平和で穏やかな気持ちにさせてくれると思ったからです。ところが実際の宇宙は、私が見ているつもりのものと正反対の場所でした。宇宙は暴力的な場所であり、カオスであり、絶えず天体同士の衝突が起きています。宇宙から地球に天体がふってきて、生命の運命を大きく変えてしまうことはどれくらいの頻度で起こるかわかりませんが、必ず起こることです。いま、私がここに存在しているのは、この上なく幸運なことだと考えるようになりました。』」(中略)

「天体衝突がふえているこの4億年、地球はどのような時代であったのであろうか。マラー教授は、生物の進化にとってとても重要な時代であると考えている。

『宇宙論では、過去4億年はとても短い時間と考えがちです。たしかに太陽系の歴史としては、最近の過去と言えます。しかし、尺度を変えて生命や、進化について考えるとすると、4億年は短いと言えません。初期の生物は(誕生してから)25億年間をかけて、原始的な生物形態にまで進歩したにすぎません。この4億年間に進化のほとんどが生じています。衝突はそれ以前の3~4倍に増加しました。衝突の増加は、地球上の生命の進化にたしかに貢献したと考えられます。正確にどのような役割であったかは、まだ完全には解明されていません。(現在地球上にいる)生物体の進化のほとんどは、この地球への衝突がふえた時期に起きています。これが意味するところをを、われわれはじっくり考えているところです。』(中略)

『天体衝突のような大変動を生きのびるには、新たな環境に適応する柔軟性が必要となります。そのためには知性を持つことが優位に働きます。天体衝突は、生物の環境に対する柔軟性、ひいては知性を高める方向へと進めていったのかもしれません。現在地球上でもっとも環境に対して柔軟な生物は人間です。人間は地球上のほぼどこでも生存できます。われわれは必要なときには服を着て、必要なときには別の食糧源を見つけます。天体衝突が地球に引き起こした大変動は、われわれの進化への道筋に重要な役割を果たしたと思います。わずか20年前には、このようなことは理解されませんでした。』

恐竜が絶滅したことによって私たち哺乳類が繁栄しているように、天体衝突による環境の激変が、現在の多様な生命の出現をうながしたとマラー教授は考えているのである。」

つまり、激しい天体衝突が起きて大量の生物が死んでいくのですが、その一方で、生物は多様化したというのです。宇宙の裏の見えない意思を強く感じますね。

 

八尾市本町・慈願寺・仏教

『八尾から見た日本の歴史』(八尾市教育委員会教育相談所)に寺内町にある慈願寺(1223年建立)が紹介されています。寺のおこりを述べた由緒書に

「河内の八尾寺内町にある慈願寺を開いたのは信願房である。親鸞聖人が関東で教えを広めている二十数年の間に弟子となり、信願房法心という名前をいただいた。

信願房は親鸞上人がなくなられた後、その遺言を守って河内の久宝寺村に寺を建てて名前を慈願寺とした」(慈願寺文書・由緒書写)とあります。(中略)

これまでの仏教信仰では、ともすれば寺を建てたり、仏の尊像を描くことが、仏への信仰と考えられていました。しかし、親鸞は、このようなゆとりのある人々だけにできる信仰を批判し、誰もができる庶民の信仰として「南無阿弥陀仏」を唱えることで極楽往生をとげることができると主張しました。念佛を唱えて阿弥陀仏にすがる信仰は、これまで仏教から遠ざけられていた商人や漁民や農民にも可能な信仰でした。」

最初、貴族のために取り入れられた仏教が庶民の仏教になっていくのですね。江戸時代に戸籍代わりに利用される時代を経て、いま、仏教が当たり前と感じて、一般に宗教という意識を超えてしまっています。私たち庶民の中に定着している常識規範というような立場にまで変身しました。庶民は仏典というものにはあまり縁がなく、仏典を勉強した僧侶から話を聞くことで、仏教の真髄を体得してきました。

日本人の優れた性質はこうした歴史の中から育ったのですね。

いま、多くの宗教団体があり、仏教がふたたび宗教という意識に戻りつつあるときに、仏教は他の宗教とともにどのように変身していくのでしょう。多くの仏教宗派が有る中で、その違いにこだわる人がどれほど現れるのでしょうか。仏教離れも増えていく中で僧侶たちはどのように庶民を指導できるのでしょう。庶民は仏教の本当の教えに到達できるのでしょうか。

歴史の中で仏教はどんどん変わっていっていますが、さらに、大きな変化が予想されます。

 

人類にとってもっとも重大な日

『間脳思考』(桐山靖雄著)で、桐山氏は次のように述べておられる。

「『有史、先史を通じ、人類にとって最も重大な日はいつかと問われれば、わたしは躊躇なく1945年8月6日と答える。理由は簡単だ。意識の夜明けからその日まで、人間は「個としての死」を予感しながら生きてきた。しかし、人類史上初の原子爆弾が広島上空で太陽をしのぐ閃光を放って以来、人類は「種としての絶滅」を予感しながら生きていかねばならなくなった。』

確かにその危険性は身近にまで存在するようになった。知性だけで判断するなら、もう何もかも手につかないところまできている。しかし、見て見ぬふりをしながら、毎日を平穏であるかのように過ごしている。

前回天皇家が恩地の住民の「愛」によって救われたことから、恩地(恩智)がいま歴史の表舞台に立つ予感を述べましたが、隣国が原子爆弾を製造して、我が国を脅している現実に対して、日本人は再び、「愛」によって、これを防ぐしか方法はない。「知性」は何の役にも立たない。

桐山さんは、この時期に人類が霊性を無くしかけていることを危惧し、間脳を開発して霊性を開顕することを勧めておられます。

恩地の住民がいなければいまの天皇家は無かった! 大阪府八尾市恩智

今日、『河内どんこう10月号NO110』が発売されました。そこに大畑君が調べた恩地の名の由来が書かれています。以前にこのブログで紹介したものです。

東征のために大阪湾から上陸した神武天皇(当時の名はいわれひこのみこと)は、ながすね彦との戦いに負けて恩地の地まで逃げてきました。兄(いつせのみこと)は、そのときの矢の傷のためにその後亡くなります。神武天皇は、恩地の住民が住民の丸木舟を持ち寄って、つなぎ合わせて、そのころ、島であった「天皇の森」(いま縄文遺跡に指定)に逃がします。その島に生えていた楠の大木の穴に隠れて追手の目をくらまし、命拾いされました。恩になった地ということで恩地という名を賜り、この楠は母のような木ということでこのあたりが「母の木の里」と呼ばれました。渡来系の民族が多く住んでいたので、韓国語読みで母のことをオムニといいますが、母の木を「おものき」と読んだようです。この話を聞いた聖徳太子がその木を探し、朽ちてしまっていたその木の根っこから十一面観世音菩薩を彫らせて、いまも恩智神社の階段横の感応院に祀られています。

まさに、恩智の住民が助けなければ、いまの天皇家はなかったのですね。天皇家がなければ、世界に誇る国民を持つ日本という国もなかったでしょう。これは重大な史実です。大畑君と2人でその時の住民の末裔であるY家に話を伺いに行ってY家に伝わる話として、初めて知りました。いまこのような話が明るみに出ると言う事は、恩地の地が表舞台に立つときが来たのかなという気もします。

この史実をいまの世まで伝えた舟戸講の人たちは、毎年恩智神社の宮司に祝詞をあげていただいています。河内の皆様、どうか今回の『河内どんこう10月号』(¥1200税込)を買われて、大畑君の記事を読んで下さい。しっかりと後世にも伝えてください。日本の歴史の原点が「人の愛」に支えられて始まったということを、かみしめ味わおうではありませんか。

カタカムナ文書の宇宙感(数万年前?)

『闇の日本史・古史古伝書』(佐治芳彦著)によると、

楢崎皐月(ならざき・さつき)氏という天才科学者が、

「戦争中、満州にあって資源開発を指導していたころ、蘆有三(ろうさん)という道士から現地の道士たちの間に、孔子の言葉として、『古代日本にはアシア族と呼ばれた人々がおり、八鏡(はっきょう)文字を使用し、特殊な鉄をつくり、高度な文明を持っていた。それが神農氏などによって中国に伝えられ、中国の古代文明の基礎となった。』という伝承があるということを聞いていた。」

「ある夜、彼のキャンプにカタカムナ神社の宮司の子で、平十字(ひらとうじ)と名乗る老人の猟師が訪れた。その老人は、先祖代々つたえられてきたという『カタカムナの御神体』と称する巻物を彼に見せた。」と、そのいきさつを書いています。

カタカムナと呼ばれる古文書を発見した楢崎皐月氏は、20年余りの歳月をかけて、解読されました。

『カタカムナの謎』(工学博士・負荷の一幸著)によると、その内容はとてもそのような昔に書かれたと思えない、いや、むしろ今の宇宙感よりもすすんでいると思われる驚愕の内容です。

「私たちが生活している場である現象世界の背後には、目に見えない無限のエネルギーの拡がる潜象世界があり、その世界には「カムナ」というヌシが存在する。

一方、現象世界には、カムナからつくられた「アマナ」と呼ばれるヌシが存在している。宇宙の万物万象は、カムナとアマナの共振重合反応によって発生する。

宇宙はすべて渦の回転粒子である「アマ始元量」と呼ぶ超微粒子で構成されており、万物万象はすべてアマ始元量が変化変遷したものである。」

「宇宙は無限世界のヌシであるカムナと現象世界のヌシであるアマナの二つのチカラの統合(共振重合)反応によって作られている。

宇宙を構成する素量である「アマ始元量」はくりかえし重ね合わされ統合されることによって濃密になり、さらにアマナとカムナの二つのチカラの反応によって現象の粒子として現象世界に定着され、それが物質や生命質になるのである。」

まだ、波動という概念がなかったからか、渦の回転粒子という表現を使っていますが、どうしてこんな微細な世界を知ることができたのでしょう。その時代は霊的な交流ができたに違いありません。それにしても、縄文時代の前に日本にそんな高い文明が存在したなんて驚きですが、それが跡形もなく消えてしまったとするといったい何があったのでしょう。

第2の都・西の京・由義宮

いま、外環の都塚あたりが医真会病院等が来るというので開発されていて、西の方では大した発掘品はでなかったのですが、その東の方で、先日、都の建設に使われた大量の瓦が発掘されました。現地の大林組事務所で説明会がありましたが、私は仕事が忙しくて抜けられず、聞くことができませんでした。都の場所が特定されたのでしょうか。

『八尾からみた日本の歴史』(八尾市教育委員会教育相談所編)に、その頃のことが書かれていたので紹介します。

「聖武天皇時代からの実力者は、藤原不比等の孫である藤原仲麻呂でした。しかし、孝謙上皇と、淳仁天皇の仲たがいにより殺されてしまいました。

そして、孝謙上皇は淳仁天皇を追放し、再び即位し称徳天皇となりました。

道鏡は天皇の信頼を一身に集め 、765年に太政大臣禅師に、翌年には法王と進み、最高位にのぼりつめました。

765年、称徳天皇が大和・河内・和泉に第二の都を造るにあたって、信任の厚い道鏡はその郷里に第二の都の造営を願いでて、許しを得たのでしょう。彼は八尾の弓削の地に由義宮をつくりはじめ、これを西の京としました。二俣付近を南限とし、東は都塚・刑部の線、西は南本町六丁目、北は中田の線をもってする地域と考えられ、大県・若江・高安の3郡にわたる広大なものであったと推定されていますが、正確な宮跡は確認されていません。

しかし、華やかな日々はこれが絶頂であって、また最後でもありました。770年四月になって、天皇の健康がすぐれず、平城京に帰り、とうとう八月になくなられました。

こうなると今まで道鏡の出世をねたんでいた左大臣藤原永手や右大臣吉備真備らは、急いで白壁王を皇太子に立て、道鏡を下野国薬師寺別当に移る命令を出して朝廷から追放してしまいました。由義宮の建設も中止になり、一時のにぎわいもなくなり、さびれてしまいました。」

仏教勢力が政治に進出するようになったことを嫌った桓武天皇は奈良と決別して、京都に都を移しました。これによって、河内のにぎわいは、大和川流域の八尾周辺から、淀川流域の枚方・交野周辺へと移ったようです。

 

 

 

ヤマト政権の一等地・八尾の豪族

『八尾からみた日本の歴史』(八尾市教育委員会教育相談所編)に古墳時代の八尾の豪族が紹介されています。

4世紀、凡河内国造(おおこうしかわちのくにのみやつこ)・5世紀、三野県主(みのあがたぬし)・6世紀、物部大連(もののべのおおむらじ)です。渡来人の最先端の技術が入って、八尾は豊かな穀倉地帯になっていったようです。

豪族が14名紹介されています。( )内は根拠地です。

①凡河内国造(根拠地不明)、②三野県主(三野郷)、③秦氏(教興寺)、④狛氏(巨麻)⑤物部氏の一族、⑥阿都物部(跡部)、⑦弓削部(弓削)、⑧田井連(田井中)、⑨矢作部(矢作神社)、⑩渋川宿祢(渋川)、⑪刑部(刑部)、⑫高安氏(高安)⑬坂上氏(教興寺)⑭錦部(にしごりむらじ)(西郡)

田井さん、高安さん、坂上さんなどは、まだ身近におられますね。この頃の豪族の末裔なのですね。

竹内文書(たけうちもんじょ)(5)五色人

(つづき)『闇の日本史 古史古伝書』(佐治芳彦著)より

「初代第1世天皇は、多くの皇子や皇女を世界の各地に派遣したが、彼ら、彼女らは、その派遣地域の人類の始祖になったという。これは地球の原住民に対する遺伝子操作による進化の促進と、改良された原住民との混血の増加を意味するものと思われる。

そして派遣皇子や皇女の子孫は、それぞれの地域(住民)共同体の「民王(ミットソン)」として君臨。またそれぞれの地域共同体は、連合して「太古代地球連邦」を構成していたようである。

第二代1世天皇造化気万身光天皇(つくりのしきよろずみひかりのすめらみこと)は、創世期地球の文化的英雄であり、ユダヤ・キリスト教の神であるエホバは、天神五代神と同七代神とこの上古二代神との神格を統合した神とされている。

だが、その間にも大異変は幾度となく起こり、その影響で人類の肌の色にも違いが生じた。」(中略)

「また、旧約聖書でいう人類の祖である『アダムとイブ』は、赤人の民王だったアダム皇子とその妹のイブ皇女だったともいわれている。これは記紀神話の伊弉那岐と伊弉那美の兄弟説に対応している。また、ノアの洪水の伝承は、第二天皇(エホバ)の人類の悪性遺伝子一掃の荒技だった可能性もある。すなわち、前代以来行われた地球原住民の進化促進の遺伝子操作の家庭で生じたエラーが、無視できなくなった段階での強制淘汰である。」

旧約聖書にでてくるノアの洪水以前のメトセラとその一族は平和な暮らしをして、数百歳の長寿だったそうです。

この頃の寿命は数百歳とインドに伝わる話とも似ています。日本でも初期の天皇の頃の寿命は同様に長寿であったようです。年代調節のための作り事かと思っていましたが、本当だったようです。

竹内文書(たけうちもんじょ)の以上のような記述は、私たちの日常体験からは想像し難い内容なので簡単に信じることはできませんが、全て嘘とはいいきれないものを感じます。

 

恩地左近祭

毎年、この頃に南高安連合町会の主催で恩地左近祭が行われます。今日10月2日1時半からお坊さん8人ほど招いて念佛が唱えられました。恩智区長、神宮寺区長ほか、30ほどの町会から大勢の町会長が出席し、私たちの恩地研究会のメンバーも背広着用という指定の下、招待されました。恩地左近のお墓は、恩智御廟と呼ばれていますが、大正8年11月に従4位をいただいて、この御廟という呼び名がついたそうです。従4位以上でないと、御廟とは呼ばないそうです。恩地研究会のメンバーからききました。

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