会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

月別アーカイブ: 2016年12月

大和川の付替え・三郎兵衛の霊魂

大和川の付替えに関して、『伝説の河内』(松本壮吉著)の話を思い出しました。

今米村の庄屋・川中九兵衛の知友、乙川三郎兵衛は、川の付替えの調印を求めて歩いたが、反対するものがあった。あせった三郎兵衛は、反対するものの偽判をつくって江戸幕府に差し出した。このことはたちまち露見してしまった。

事成就しないうちに罪に問われることは残念だ、死んで思いを達成しようと狭山池へ身を投げて死んでしまった。三郎兵衛の霊魂は大蛇に化けて、ある大雨の日、狭山池から這い出して這い回ったあとが川のかたちになった。村人たちは、三郎兵衛の執念を恐れて、改めて大和川付け替えの嘆願をしたら、九兵衛の弟の甚兵衛に工事を許可された。その後、あれだけの大工事が1年もかからずに完成したとのこと。

こんな話、今の人が聞いたら、誰も信じないかもしれませんが、私は完成のうらに乙川三郎兵衛の強い働きを感じるのです。

 

中甚兵衛と大和川付け替え工事

私が河内の歴史のことをブログで紹介していると知った東大阪市の知人が、中甚兵衛の本を届けてくださいました。『郷土偉人伝シリーズ1中甚兵衛物語』(智多とも著)です。漫画本ですが、最後の方のページの言葉を紹介します。

「宝永元年(1704)新大和川が完成する。甚兵衛(じんべい)が付け替え運動をはじめて50年もの月日が流れていた。この光景を亡き友や兄と見られなかったことをどれだけ悔やんだであろう。

洪水に苦しめられてきた村の人々にとって新しい大和川の完成はこの上ない喜びの日であった。しかし、その一方で新しい川を掘るために川の底になってしまった土地の持ち主の悔しさ。新大和川でも大雨の際に幾度か洪水の被害があり、甚兵衛自身も手放しで喜べなかったのではないだろうか。ただ、それでも新大和川のために川底に沈んだ田畑はおよそ257ヘクタール。新しくできた田畑はおよそ5倍である1063ヘクタール。

田畑が増えた分作物の収穫量も増え、幕府に差し出す年貢も増えた。後に綿花も栽培され、河内木綿として特産品となり、大坂の経済を大いに活性化させることになる。

一方、甚平は新大和川完成後に出家し、仏門に入った。『乗久』と名乗って残りの人生を過ごし、92歳でこの世を去る。

『付替え以来どうしても考えてしまうんや…私のしたことは正しかったんやろか…と。』

『あほやなぁ甚兵衛。そんなん未来の人間に聞かなわからんやろ。』

『フッ。それもそやけど』」

このブログを書くことになって最初、大庄屋の家系の坂野さんに聞きにいったときに、

「河内の歴史を語るにはまず大和川の付替え工事を知らなければならない。」

といわれたことを思い出しました。「未来の人間」である私に聞かれてもその恩恵の深さを68歳まで知らなかったのです。

甚兵衛さんごめんなさい。そしてありがとうございました。ほんとうはあなたのために「河内神社」を建立しなければならないほどの河内地域の素晴らしい先祖様です。

1400年以上も続いた宮大工と八尾市恩智の宮大工

先日叔母と話をしたときに従弟もいました。従弟の家系は宮大工だったそうです。改築前の恩智神社に御祖父さんの名前があったそうです。このとき、私は聖徳太子が四天王寺を建立した時の話を思い出しました。初めての大規模な仏教寺院の建立で、日本にはその大工がいなかったため、西暦578年、聖徳太子の命で百済から3人の工匠を招聘しました。

その一人金剛重光が完成後も四天王寺に残り、寺院の建築を維持したそうです。それが今日まで1438年続いているのだそうです。宮大工はその3人の指導の下、全国に拡がりながら今日までその技術を維持してきたのですね。四天王寺に近い河内にはその時の宮大工の技術を引き継いだ宮大工たちがいてあたりまえですね。

明治時代の母

叔母から母の母親(明治生まれ)の話を聞く機会がありました。昭和の初期、大勢の兄弟姉妹の時代でしたが、子供も手仕事をさせられていました。その中でいつも一人は本を読まされて母親も含めてみんながその本の話で勉強したといいます。通常なら、全員手仕事をしてお金を稼ぐと考えますが、子供の将来を考えると、一人本を読む役割をつくって手仕事をしながらみんなの知識向上を図るほうがより優れているのは確かですが、私だったらできたでしょうか。

今ならラジオを聴きながらとか、テレビを見ながらとかするのでしょうが、それを教育番組とは考えられませんね。恵まれすぎた時代、真剣な生き方ができていないのかもしれません。

 

 

河内・仏教伝来と豪族・渡来系技術

六世紀前半から中葉にかけて百済王より仏像、経典が贈られた。それは倭国の百済への軍事援助に対する見返りであったが、欽明天皇は、革新性、新進性という体質を持った蘇我稲目に礼拝・祭祀を委任した。朝廷で祭祀を管掌していた物部氏や中臣氏が仏教の祭祀を委ねられなかったことで蘇我氏との対立が起きた。戦になり蘇我氏が勝利する。蘇我氏は葛城氏の血脈に連なることで葛城地方の渡来人を配下に編成していたが、仏法の管理に付随して外来の文化技術を取り込み、渡来人集団を組織編成して、強大な力を持つようになった。

欽明天皇は、強大な力をもった蘇我稲目を必要とし、その娘、堅潮姫(きたしひめ)や小姉君(おあねのきみ)との間にもうけた子が用明天皇、崇峻天皇、推古天皇となった。公的な建造物などを造営する事業を一手に引き受けて、その地位を不動のものにしたが、その曽我氏も王位継承をめぐる内部闘争によって滅びてしまう。(『古代豪族』(洋泉社編集部編)参照)

仏教伝来は、仏教という教えそのものの評価だけではなく、それに付随した進んだ渡来系の技術が付随したというところに重要な意味があったのですね。

それにしても、これほどの権力を掌握しながら、内部闘争であっけなく滅びてしまうのですね。

また、それまで朝廷の中心にあって、河内を支配していた物部氏が滅んだことで河内はどのように変わったのだろうか。