会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

月別アーカイブ: 2017年2月

見えない呪の世界5(馬頭観音)

引き続き『本当に怖い世界の呪文』(グループSKIT編著)より紹介します。

馬頭観音の真言: オン・アミリト・ドハンバ・ウン・ハッタ・ソワカ

「馬頭観音は観音菩薩が変化した姿のひとつであり、人びとの煩悩を払い、諸悪を滅する力を持っている。そんな馬頭観音の真言を唱えた者は天災や病気、争いごとなど、あらゆる障害を打ち破る力を得られるという。

この観音は名前の通り馬頭人身の姿で現されることもあるが、通常は、馬上に馬の頭を戴いた、3つの目を持つ3つの顔と8本の腕を持った姿で表されることが多い。その顔には激しい怒りの表情が浮かんでおり、火炎の光背を背負った姿は非常に恐ろしげだ。観音というと一般的には穏和な表情をしているものが多い中、これは珍しいことである。だがそれだけ敵を打ち破る強い力を持った観音であることを表しているといえよう。

サンスクリット語では馬頭観音をハヤグリーヴァといい、これはそのまま『馬の首』という意味だ。そしてこれは、ヒンズー教の最高神ヴィシュヌの異名でもある。古代世界においては、馬は戦争や農耕において必需品であり、またその大きさや力強さは人びとの畏敬の対象となってきた。そのような馬の姿を借りた馬頭観音は、必ずや信仰する者の力になると、今でも多くの人びとに信じられている。」

マントラというのは、波動です。その存在の世界に届くものです。知性では理解できなくても波動は確実にその見えない存在に届くので人はマントラという方法で見えない存在と関わり、自分の力ではどうしようもないことは、その偉大な力に依存してきました。その見えない世界の力がこの世を大きく動かすのです。

馬頭観音は他の観音と比べて大きな功徳を持つ、そして時に宇宙の最高神ヴィシュヌと同一視されるほどの存在と崇められるなどの力を出されます。マントラを唱えて、その世界にアプローチしてみましょう。

 

恩地左近の子孫、恩地登美は明治天皇と親戚だった

昨年の8月5日、恩地左近の末裔、恩地誠さんが、同級生の大畑逸造君の手配で恩地に先祖の初めての墓参りに来られました。歴史の得意な大畑君はその時の話から、さまざまな資料を調べて『かわちどんこうNO111』に「恩地左近の子孫、恩地登美は明治天皇と親戚だった」という記事を載せました。先日発売されたのでぜひ読んで下さい。

裏付けのある歴史の話は大畑君の記事を読んでいただくとして、私は想像だけの話を紹介します。恩地は以前に皇宅(みやけ)と呼ばれていた時期があります。これは天皇家の血の濃いものが住んでいた可能性を示しています。奈良県の多神社のあたりは春日と呼ばれ、大阪府八尾市恩智の山の上に祀られた春日部大明神は多神社から来たものと思われます。

そして、恩智に畑中という名前が多いのですが、ある畑中家が恩智からはかなり離れた多神社の近くの土地を相続しています。もともと先祖はその地に住んでいた可能性を感じます。先日大阪府枚方市の春日という地名に住む人と出会って、その地は畑中さんばかりだと教えてくださいました。私は子供のころから畑中さんや大畑君が昭和天皇に顔が似ているので、もちろん親戚というような濃いものではありませんが、天皇家と恩智の人たちの血のつながりを感じていました。枚方にも春日という地名があって、畑中姓が多いという話を聞いてから、なお、その可能性を感じました。

大畑君は恩地左近の末裔の恩地登美が、中山忠光を通して、明治天皇と親戚になったという史実を紹介しています。それははっきりとした証拠にもとづいたものです。それに比べて、私は感覚だけの話をしますが、恩地に住んでいた恩地左近も、初代神武天皇の長男以来、長い年月の間に、婚姻関係がくりかえし行われて、もともと天皇家の血を引くものであったのではないかと思っています。

神武天皇の長男が天皇家の先祖を見えない世界で祀り、神社を中心に全国展開をしながら日本の統一に貢献し、武力の制圧は次男がというスタートをした。権力のある天皇家と、技術のある渡来系豪族との間に血縁関係をつくり、天皇家は見えない世界と見える世界の両方から日本の統一に向かって進んだ。旧東高野街道から上の恩智のように、遠い血縁も含めればほとんどつながりがあるというような特殊な世界では、天皇家のこのような考え方は長い時代の変化を超えて貫かれてきたのでしょう。

そういう眼でみれば、恩智の古くからの家はほとんど全て天皇家との血縁をほんのわずかでも持つ筈です。恩智左近は恩智神社を護り、楠正成とともに武力でも南朝の天皇を護った、見える世界と見えない世界で両方の活躍をした人物だったのです。

確実な歴史を知りたい方はぜひ、『かわちどんこうNO111』を読んでください。

見えない呪の世界4(吉祥天女)

引き続き『本当に怖い世界の呪文』(グループSKIT編著)より紹介します。

ラクシュミーのマントラ: オーン・マハー・ラクシュマヤ・ヴィダヘ

「インドには様々な神の力を得るマントラの呪文が伝わっている。これは幸運の女神ラクシュミーの守護を得るマントラだ。

世界の神話や伝承では、幸運をもたらすといわれる女神は多い。中でもrクシュミーは、東洋ではもっとも広く信仰されている女神のひとりだろう。

ラクシュミーの名はインドの古語ではそのまま幸運を意味し、農作物の豊穣や、名誉、繁栄をもたらす女神と伝えられる。日本で幸運の女神として知られている吉祥天女は、彼女が大乗仏教に取り入れられた姿だ。」

ラクシュミーは同じとことろに留まらない移り気な女神として知られています。幸運というのは長くは続かないものなのでしょうか。それなら変化の時を感じたらおもいっきりラクシュミーのマントラを唱えて大きな幸運を体験するのがいいかもしれません。

ラクシュミーは移り気で同じところに長くとどまらないというのに、いつも宇宙の根源であるクリシュナの胸にいます。これはクリシュナから幸運のエネルギーを充電しているということなのでしょうか。それなら、不毛の土地に定着して苦しんでいる人たちに、一時的でもよい、クリシュナの幸運のエネルギーを与えて豊穣の土地に住むチャンスを与えてあげてください。そして、その体験をした人たちが豊穣の土地に住む習慣をとりもどすことができるかもしれません。

不毛の井戸に自分を閉じ込めてしまっているカエルたちにこのマントラを唱えて祈ってあげてください。その祈りは必ずカエルを救い出してくれるでしょう。このように、さまざまな不毛の土地に住む人びとにラクシュミーのマントラを唱え続ければ、自分から出たものは必ず自分にもどるという法則によって、あなたはいつも幸運のエネルギーに満たされるかもしれません。

これは超おすすめのマントラですね。

見えない呪の世界3(十一面観音)・八尾市恩智感応院

引き続き『本当に怖い世界の呪文』(グループSKIT編著)より紹介します。

聖徳太子は、神武天皇が身を隠した大木を探しに恩智の天王の森に来た。しかし、その木はすでに朽ちてしまっていた。そこで、その木の株で十一面観音を彫らせたのが八尾市恩智感応院の重要文化財の十一面観音です。このとき聖徳太子にどんな思いがあったのでしょうか。

十一面観音の真言: オン・ロケイ・ジンバラ・キリク 両手の10本の指を交差させる金剛合掌という印を結ぶ。これは十指を10の顔に見立て、それに自分の科をを加えて十一面観音と合一するため。

「11の顔のうちの10はあらゆる方角を見通すことで、人々の困窮を見逃さないためのものであり、残りのひとつが自分の顔であるとされている。真言を唱え、この観音の力を借りれば、どんな敵でも打ち破ることができるという。」

観音様は10の顔で人々の困窮を見逃さない。それなのに、あるものにとてっては敵とはいえ人々を打ち破るという行為は観音様らしくありませんね。

「敵を打ち破るほかにも、『病気にかからない(離諸疾病)』『財産や食物に困らない(任運獲得金銀』『王族が応急で慰労してくれる(国王王子在於王宮先言慰問)』『溺死しない(水不能溺)』『焼死しない(火不能焼)』『事故で死なない(不非命中妖』など、十一面観音は10の利益をあたえてくれるとされ、これを十種勝利という。この十種勝利はすべて現世利益だが、そのほかにも十一面観音は、『地獄界、餓鬼界、畜生界に生まれ変わらない(不生於悪趣)』『極楽浄土に生まれ変わる(従此世界得生極楽浄土)』など来世における4つの果報も与えてくれるとされている。これを四種功徳という。」

こちらの方は納得できます。このような存在があるからこそ、人間のようなか弱い存在が生きていけるのですね。

相手の幸せを願った上での勝利でありたいですね。

 

見えない呪の世界2(毘沙門天)・聖徳太子・四天王寺

引き続き『本当に怖い世界の呪文』(グループSKIT編著)より紹介します。

今回は毘沙門天です。河内の人々は信貴山の毘沙門天に子供の頃からたびたびお詣りしています。毘沙門天は他聞天とも呼ばれ、持国天(ドゥリターシュトラ)、増長天(ヴィルーダカ)、広目天(ヴィルーパークシャ)と共に四天王と呼ばれる神々(デーヴァ)の一人です。

聖徳太子は物部守屋との戦いの前に毘沙門天を含む四天王に先勝を祈願し、戦勝のお礼に四天王寺を建立されました。戦国武将の上杉謙信は自ら毘沙門天の生まれ変わりと信じて本陣の旗印に「毘」の字を使用しています。

毘沙門天は武神としては、怨敵や悪人をち調伏させる力があると信じられています。

毘沙門天の真言:『オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ』

毘沙門天(多聞天)印: 虚心合掌し、小指のみ内縛する。大指は並べて立て、頭指は立てて開き、第一関節を屈する。残った中指と無名指は、立てて合わせる。

「多聞天とも呼ばれる毘沙門天は仏教を守護する神で、強力な武神だ。持国天、増長天、広目天らとともに帝釈天配下の四天王の一員として仏の住む須弥山(しゅみせん)の北方を守っているとされており、十二天の一人とも称されている。

この毘沙門天も元々はバイシュラヴァナというインドの神様だったが、当初は武神ではなく、財宝の神として崇められていたという。それが仏教に取り入れられたのちに、戦闘の神となったのである。武神となってからの毘沙門天は、大抵の場合、中国風の皮製の甲冑を身につけ、邪鬼を踏みつけた勇猛な姿で表されることが多い。」

途中から武神に変えられてしまった毘沙門天、祈願する人々にどのような関わり方をしたのでしょう。相手をやっつけることで生じる反動はどのようにしたのでしょうか。財宝の神でいてほしいものですね。

見えない呪の世界1(大元帥明王)平の将門の乱・元寇

縄文時代から、昭和の時代まで日本でも世界でも見えない世界に祈りをささげていました。歴史ではあまり表だっては取り上げていませんが、生活の中にはかなりの比重で呪が行われていたと思われます。特にこの数十年はこの世界は無視されてきたようですが、違う形でふたたびこの世界が意識される時が来る予感があります。

『本当に怖い世界の呪文』(グループSKIT編著)よりいくつか抜粋して紹介します。ここに紹介するのは仏教の守護神で天と呼ばれる現世利益にかかわる神々です。

「大元帥明王(だいげんすいみょうおう)真言

『ノウボウ・タリツ・ボリツ・ハラボリツ・シャキンメイ・シャキンメイ・タラサンダン・オエンビ・ソワカ』

『平安時代の平の将門の乱』、『鎌倉時代の元寇』で使われて成果をあげていることがわかっています。「大元帥明王は、サンスクリット語ではアータヴァカと呼ばれており、その意味は『荒野の鬼神』、あるいは『林に住む者』である。もともとインドでは、凶悪な悪鬼である夜叉の一員とされていたが、のちに仏教に取り入れられ、仏法を守護する明王として祀られるようになった。

大元帥というのは一種の尊称で、明王の中で最高位に位置する不動明王と同格の強さを持つとされたことから、この名称がついたとされている。

もとは悪鬼であったことから、その姿も、青黒い体に髑髏(どくろ)の首飾りうをし、手足に蛇をまきつけているといった恐ろしい姿であらわされることが多い。だがその霊験はあらたかで、大元帥明王の力を得れば、どのような強敵にも打ち勝てるとされている。」

 

 

 

木村重成の時代のヨーロッパ・ガリレオ・ガリレイ

日本が戦国時代で戦いの多かった時代にヨーロッパはどうだったのでしょうか。30年戦争、80年戦争などやはり戦いに明け暮れた時代でした。キリスト教もカトリックとプロテスタントの対立があり、政治とからまりながらやはり戦いがありました。

まずしい家に生まれたガリレオでしたが、カトリックの司祭に引き立てられて豊かな身分になっていきます。しかし、実証という科学の手段をとって、天体観測をしたガリレオは、カトリックが示している天動説が間違いで、地球が太陽の周りを周っているという事実を知ってしまいます。

当時はカトリックとプロテスタントの間に、強い対立があったためにカトリックは神経をとがらせて異教徒の弾圧を行っています。カトリックから優遇されてきたガリレオも宗教裁判にかけられて有罪になります。真実を曲げても上に従わなければ生かされない時代。逆に、命を懸けて上に従う者が高く評価される時代でした。変動、発展のエネルギーが地上を制した時代だったのでしょうか。

国という大きな組織で、それまではできなかった大きなこと、さまざまなことができるようになった時代。この時代のヨーロッパは日本までやってきてキリスト教を伝えています。八尾城、若江城のキリシタン大名など河内でもキリシタンが生まれていました。

木村重成・大阪市中之島・東大阪市若江・八尾市幸町

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若江岩田に住んでおられる取引業者の馬場さんが木村重成のことを教えてくださいました。御親戚の馬場さんの家に木村重成の碑があるそうです。大坂夏の陣で討ち死にしたのが若江で、その墓が玉串川と寝屋川の交わるところにあるのは私も聞いていまして一度行きたいと思う内に、いつのまにか日が経ってしまっていました。

とりあえず、馬場さんが中之島にある碑のスマホの写真(中之島にある碑)を見せて下さったので、中之島に行ってみました。近くに住んでおられると思われるお爺さんがいましたので、聞いてみたら、御存じではなく、あるとすれば公会堂の近くだろうと教えてくださいました。次に公会堂の近くで着物を召したかなりの年配の何かの師匠というイメージの女性に聞いていましたがご存じありません。掃除をしているグループを見つけて聞いてみますと、連れて行ってくださいました。思ったよりはるかに大きな石でした。

私と同様、中之島に縁のある人でも、ほとんどの人は木村重成の碑のことは知らないのですね。インタ―ネットに歴人マガジンというのがありますが、そこで木村重成のことを「見た目も中身も超イケメン」と評価して紹介しています。

1) わずか22、3歳くらい、夏の陣で討死した重成の姿です。「首実検の場に運ばれてきた重成の首を見て、家康は目を見張り感嘆した。」この話が私が知っている木村重成の唯一の情報でした。重成の兜は固く結ばれ、はしが切り落としてありました。二度とこの兜を脱ぐまいと討死の覚悟です。重成の髪には香が炊きこめてあった。「これぞ武士の心構えだ」と家康は重成の覚悟と風雅を褒め称えました。

2) 重成は若く、実戦経験に乏しかったため、大阪城内で軽んじられていました。しかし、馬鹿にされることがあってもかれは受け流していました。あるとき、茶坊主までがひどく彼を侮辱しました。さすがの重成も刀を抜くかと周りは息を飲みました。しかし、「本来ならお前を切り捨てるところだが、それでは私も腹を切らなければならない。今は秀頼様のために死ぬ時で、お前ごときのためには死ねぬのだ」と静かに言い、微笑んだのでした。これ以降、だれもかれを軽く扱う人はいなくなったとのこと。

そのほかにも、戦場に戻らない部下を危険を冒して探しにいったことなどいろいろありますが、武勇にも優れ、心身ともにイケメンだったということで人気があったのですね。

ただ、一昔前の人々の心を打ったでしょうが、いまの若者たちにはその価値観はないでしょうね。命を懸けるもの、ましてそれが上司となれば?

非難の意味ではありません。なにか価値観の異なる新しい世の中がくる予感がするのです。

 

 

 

八尾の渡来人2

引き続き、『八尾の渡来文化』(八尾市立歴史民族資料館)より抜粋して紹介します。

「日本からの要請に応えてはるか海を越え、朝鮮半島(百済)から日本にやってきた渡来人たちはまず八尾に上陸したのです。跡部周辺は物部守屋の『阿都(あと)の別業(べつごう)』、『渋河(しぶかわ)の家(いえ)』があった地域で物部氏の河内での本拠地でした。この地に最初に渡来人を住まわせたことから、雄略天皇の今来手伎(いまきのてひと)たちの招来に物部氏が関係していたと考えられます。そのままいけば八尾市跡部周辺に大規模な渡来人たちのムラが築かれていたかもしれません。

しかし、その後倭国吾礪広津邑(やまとのくにあとのひろきつむら)に上陸した渡来人たち=今来手伎たちは病死する人たちが多く、大和の上桃原(かみつももはら)、下桃原(しもつももはら),真神原(まがみはら)に移住したと記されています。上桃原、下桃原、真神原は蘇我氏の本拠地です。今来手伎たちは物部氏から蘇我氏の支配下へと移らされたと考えられます。―中略―

八尾とその周辺部は古くから大陸と大和をつなぐ文化の入り口であり、また出発点でもありました。弥生時代後期(2世紀末)から韓式系土器の出土していることからもわかります。日本書紀の雄略天皇条に見られる今来手伎(いまきのてひと)たちのように数多くの渡来人が八尾へ上陸したと思われます。それらの渡来人のうち、ある集団は大和、近江、東国など他地域へ移動していきました。」

今来手伎(いまきのてひと)が八尾あたりで伝染病にかかったのか、病死する人が多かったというのは、やはり、移住というのはそのような危険性もともなうのですね。一方、渡来人がはしかや結核などの感染症を持ち込んだともいわれています。感染症に対する抵抗がなかった縄文人は次々死んでいったともいわれています。

また、渡来人が物部氏から蘇我氏の支配下に移ったことで、天皇は伝来した仏教の管理を蘇我氏にまかすことになりました。その結果、物部氏は天皇家の神事を一手に引き受けてきたのに、仏教だけ蘇我氏にまかせたので、両者の争いへと発展していくことになります。

そして、私だけではないと思いますが、日本人というのは、単一民族であったように思っていましたが、実はそうではなかったのですね。渡来人の末裔・母方(高安)の親戚は西洋系の美男美女が多いのに対し、父方(畑中)は天皇系に似ています。恩智が屯倉(みやけ)と呼ばれていた時期に初代天皇の長男がつくった多神社から恩智にそのオオ一族がやってきていたことを思わせます。多神社の注進状に恩智あたりに神社をつくったことが記されていますが、それが恩智の天川山の春日部大明神だと考えられます。恩智の親戚の人が遠く離れた大和の多神社の近くの土地をいまも相続している事実を見ると、その関連を強く感じます。

 

八尾の渡来人1

2回かに分けて八尾とその周辺の渡来人の話を紹介したいと思います。

私が渡来人に興味を持ったのは、この地域、生駒山脈の西側が高安郡と呼ばれ、全国ではめずらしい姓、「高安」が多く存在し、その上母の実家がその「高安」だからです。「高安」は渡来人なのです。

八尾とその周辺は、大陸と日本を結ぶ拠点でした。2500年前に朝鮮半島南部からの渡来人が稲作を伝えました。それで縄文時代が1万年続きました。私が住んでいる八尾市恩智の天王の森にもその遺跡があります。神武天皇の東征のときに離れ島だったこの天皇の森はその前の縄文時代には、陸続きの恩智の扇状地の裾野だったのでしょうね。陸が海になり、再び陸になる。長い時代を感じます。

弥生時代を経て、5世紀になると朝鮮半島がめまぐるしく変化して、その情勢下で朝鮮半島からの渡来人が新しい文化を携えてやってきました。七世紀になると、白村江の戦いで唐・新羅への日本の敗北によって百済や新羅の貴族や学者が数多く渡来し、多くの文化が伝えられました。

この時代は河内の三分の一が渡来人だったといわれています。従っていまでは、無数の婚姻関係の結果、河内のほとんどの人が多かれ少なかれ、その血筋を継いでいることでしょう。

「5~6世紀の八尾を含む河内は、現在とは大きく地形が違っていました。現在大阪城がある上町台地の西側は大阪湾に面し、北にむかって半島状に突き出していました。そして、現在の大阪平野の中心地には河内湖が広がっていました。

大和川をはじめとする大・中・小河川は八尾の中心部を北上し、河内湖へ注いでいました。大陸や朝鮮半島からやってきたひとびとは、瀬戸内海を通って河内湖沿岸に上陸し、河川を使って大和へと移動していきました。―中略―

大阪市長原遺跡、四条畷市奈良井遺跡、柏原市大県遺跡からも4種類以上の軟質土器が出土しており、渡来人が住んでいた集落と言えます。なかでも八尾市の西南部に近接する長原遺跡は、大規模な渡来人の集落でした。」(『八尾の渡来文化』八尾市立歴史民族資料館)