会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

月別アーカイブ: 2017年5月

古墳(7)天皇家と波動世界

古墳から受けた気はとても温かいものでした。遷宮のときの板片も全く同じ波動でした。

天皇の日本国民の象徴としての姿はそのやさしさに現れていると思っています。それは宇宙の源の持つ愛です。その源からの波動は太陽神である天照大神に現れています。このことに関して面白い記述があるので紹介します。

昔、天皇家から「幣帛」をいただく神社がありました。恩智神社もそうでした。いまは神社本庁から幣帛料ということで金銭が贈られています。この弊帛はお祀りに使われます。日本最古といわれる神社に弊立神宮というのがありますがこの「弊」というのは何でしょう。

「弊立の『弊』というのは、『ヌサ』という字で、そのヌサが麻のことなのです。麻を立てて神を呼ぶわけです。(中略)

雷を表現したギザギザの神垂(しで)も麻だし、祝詞の紙も麻だし、それから神主の衣服も麻でできているということがある。なぜこれらのものに麻が使われたかというと、ぼくが思うには、やはり宇宙エネルギーというものに対して、日本の人たちは、これが神なんだという認識があったと思います。(中略)

媒体として麻が使われたということですが、もう一つ使われていたものがあります。それは神主の言霊(ことだま)です。

たとえば、『この子が受験に受かりますように』とか、氏子がお願いをしに行きます。そうすると、神主さんがそれをきちんと麻の紙に字で書いて浪々と読み上げます。どこの神主さんもきれいな声で読み上げるわけです。言葉というのはすべて神がつくったから、言葉の振動をきちんと発音すれば、宇宙にいくわけです。それが言霊というものです。

そして、麻を使う本当の理由は、麻が高周波植物だからというのがぼくの推理なのです。つまり、麻はアンテナ役を果たします。たとえば100ヘルツから10万ヘルツのところには一挙にはなかなか行きにくい。今の携帯電話でも、あちこちにアンテナ塔があるのと同じような役割を麻がしていたのではないかと思います。」(『さあ5次元の波動へ宇宙の仕組みがこう変わります』デーヴィッド・アイク+江本勝著)

天皇家というのはすごいですね。このようなこと、麻の周波数、言霊のエネルギーを感じて宇宙の源にアクセスしていたのですね。いま、2000年余りを経て、多かれ少なかれ、日本人はこの血を受け継いでいます。波動に注目がよせられるこの今の時代にわれわれ日本人が活躍する役目があるのではないでしょうか。

弊立神宮には「五色祭」というのがあって五色人、すなわち世界のすべての人々のためにお祈りするのだそうです。15000年の歴史があるらしいのですが、その真偽は別として、いま世界のために日本が中心となるというのは大いにありうることです。

 

 

古墳(6)天皇家に伝わる呪の気

私のブログ(河内の翁)2016年4月19日投稿『伊勢神宮・天皇家に伝わる秘中の呪術』より紹介します。

「天皇と人の違いは、天皇は「魂の容れ物」であること、天皇には唯一「天皇霊」がつくのであって、その霊は、皇祖神・天照大神から引き継がれたものとする。

さらに「魂の入れ物」に入るのは、「天皇霊」だけではないという。天皇には日本の国を治めるのに根本的な力の泉があって、それが、群臣から天皇に差し出されたものであり、群臣の中でも重要なのは、物部氏であったとする。

天皇は大和の国の君主であるから、大和の国の魂のついた方が、天皇となった。」『神武東征の謎』(関裕二著)

御陵の前で私はこのような天皇家の霊の独特の強い「気」を感じたのですね。他の御陵でも同じ「気」を感じることができるのでしょうか。これからの天皇家の古墳参拝が楽しみです。

古墳(5)応神天皇凌・安閑天皇凌・羽曳野市

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第15代応神天皇陵と第7代安閑天皇陵(古市高屋丘陵)

亡父の遺志を引き継いだ格好で従弟と誉田の地を訪れました。明治の少し前に誉田の米谷家から輿に載って恩智の畑中家に長男が養子にきたというのです。米谷家は蔵が7つもある家だったそうで、当時、恩智の地元ではちょっとした事件であったようです。長男を養子に出すなど、誉田の米谷家に何があったというのでしょう。

父は、謄本まで入手することができましたが、米谷家はすでになく、わからずのままで他界してしまいました。父と一緒に探した従弟の松岡さんと再び誉田を訪れました。今回は飛び地の山に行きました。人家はなく、広域農道を歩く老人をみかけたので聞いてみました。

「ここは、「あすかむら」で誉田ではないが、むかし、古市の小学校まで通っていた時、今田に米谷(よねたに)さんは数軒あったよ。」という話です。謄本の米谷の読み方を教わりました。不思議な出会いです。

そのときに近くの2つの御陵に参拝させていただきました。

お参りさせていただいたときに、どちらの御陵でも温かい気を感じました。これは天皇家のものだと、伊勢神宮の遷宮のときのことを思い出しました。

以前のブログで私は次にように書いています。

「これを読んだときに、私は以前体験した2つの事柄を思い出しました。まず、ひとつは、遷宮の時の御柱の板です。ある人から触ってみてくれと言われて、「そんなものを人に触れさせるべきではない。」と断ったのですが、むりやり触らされて驚きました。その板から、温かい強いエネルギーが出ているのです。人の手からはそのようなものを感じますが、木からでているのは驚きでした。どうしてそんなことができるのでしょう。」(続く)

 

恩智城(恩智左近)・富田林の熱い楠正成信奉者

先日、 富田林の熱い楠正成信奉者のグループから2人の方が恩智神社に来られて、恩智研究会のメンバーから3人が応対しました。恩智左近の大畑君の研究結果を知って、地元ではおおさわぎが起き、話を聞きにこられたのです。天誅組と恩智左近の末裔との関係で、地元の天誅組信奉者も参加してこの話の結果に注目しておられるとのこと。

大畑君の口からでる明治天皇との親族関係ができた恩智左近の末裔・恩地とみ、満州国のラストエンペラーの弟に嫁いだその曾孫の嵯峨浩、新しい真実話を聞いて何度も驚き、感動しておられました。地元の恩智ではそれほどの盛り上がりを見せなかったのに。

(恩智の人々は初代の神武天皇が孔舎衛坂(くさえのさか)の戦いで長髄彦の追手から、当時海の中の島だった天王の森に丸木舟をつないで逃がして救ったという歴史があり、いまでもその講(舟戸講)が続いていて、またそのあと屯宅(みやけ)ともなっていた時期もあり、天皇家とのつながりは強く感じてきたからとくに驚かなかったのかもしれませんね。)

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その時に見せていただいた恩地左近が3年かけてつくった恩智城の図面です。恩智城址はいま、桜公園と呼ばれて地元では毎年2日間、「春ごと」というお祭りがあります。図面の一の丸の周りの濠は、私の小さいころは池で、ボートが浮かんでいましたが、現在では埋め立てられています。

このころの濠を持つ城郭は恩智城だけで、150年先んじたつくりだということで恩智左近を高く評価し、

「楠正成にこの恩智左近があったからあれだけの活躍ができたので、私はいまや、恩地左近の信奉者です。」

とおっしゃって、。新海宮司に恩地左近にいくつかのグループでやる奉納太鼓をやらせてほしいと頼んでおられました。

そのうえ、新海宮司が天誅組の吉村虎太郎と親戚関係にあるという話を聞いてさらにびっくりぎょうてん。富田林の天誅組信奉者が恩地左近との関係で楠正成と恩智左近とのつながりでひとつになって動き始めた時に、恩智神社の新海宮司が天誅組の中山忠光と行動をともにした吉村寅太郎と親戚関係だなんて。これは目に見えない世界の動きを感じずにはおれなかったでしょう。

 

 

古墳(4)仁徳天皇陵

引き続き、『やまとごころとは何か』(田中英道著)から紹介します。

「日本最大の16代の仁徳天皇陵(大仙古墳)の底辺部は、エジプトでも最大のクフ王のピラミッドや秦の始皇帝の墳墓の底辺部よりも大きいものである。全長486メートルもあり、二重に濠がめぐらされている。一日2000人の人が働いて、16年もかかる仕事と言われ、人びとが協力して古墳を造ったことがわかる。(中略)

仁徳天皇は《私が高台にのぼって遠くを望み見ると、煙が国のなかにあがっていない。思ってみると、百姓が非常に貧しくて、家で飯を炊く者がいないのではないか》と言われた。《いまより以降、三年のあいだ、すべての課役をやめ、百姓の苦しみを除け》と命じた。《この日より、天皇の御衣服やお履き物が、敗れて駄目になってしまうまでは新調をせず、ごはんやお吸い物が酸味を生じて食べられなくなるまではとりかえないことにされた》のである。

その後3年を経てから高台にお立ちになり、はるか遠くをご覧になって、《百姓が豊かになった。天皇をほめ讃える声が満ちて、飯を炊く煙がさかんにたちのぼるようになった》と述べられた。しかし、すぐに中止していた宮殿の修理の労働を課すのではなく、さらに十年待って、課せられたという。

そのときは百姓はみずから進んで働き、期日よりも早く完成した。そもそも天が君(天皇)を立てるのは、まったく百姓の為なのである》

とのべられて、天皇という地位は、すでにこの時代から人民に奉仕するものだ、という考え方ができていたことを示している。」

その天皇が死んで神となられ、天皇家だけでなく、民をも守られるという考えは極めて自然です。天皇家というのは、おそらく統治者として特別な存在だったのですね。先祖ぐるみで民を守るという特別な役割をもった人類だったと思われます。仁徳天皇陵は感謝と崇拝の気持ちで作業にあたったから、この墳墓の波動は素晴らしいに違いありません。一度訪問したいです。

江戸時代のように「百姓は生かして殺さずといって、搾取するためのものというような武士政権の考え方とは全く違っていたのですね。徳川が、同じ天皇家の血筋、源氏の末裔だといっても、やはり直系とは違って、少し違いが出るようです。

 

古墳(3)垂仁天皇・埴輪・藤井寺市土師ノ里

「垂仁天皇の皇后、日葉酢姫(ひばすひめ)がお崩れになったので、今までの例にならって、側近の下臣がお墓のの側に生埋めとなり、永久にお墓をまもらなければならなかった。ところが天皇は誠に慈悲深いお方であったから、人間を生埋めにするような残酷な事は好まれず、何か人間に代わって墓を守らすようにしたいものだと思召して、臣の野見宿祢(のみのすくね)を召されて相談された。

そこで野見宿祢は色々と考えた末、土を以って人間の形を造り、これをお墓の周囲に埋めては如何かと思い、その旨をお答えした。すると天皇も膝をハタと打たれ、これは良い趣向です。、このようにすればムザムザ有為の忠臣を犬死さす事もなくて済む。と非常なおよろこびで早速宿祢に土人形を作る様命ぜられた。仰せに従って宿祢は早速土をこねて沢山の人間の形や馬の形の土偶(でぐ)を作って、これを窯で焼くとそれをお墓の周囲に埋めて、ここに全く悲惨な殉死の弊を改めた。」『伝説の河内』(松本壮吉著、一部現代風の文字に変更しました。)

それまでは、下臣が生埋めにされたのですね。数日、苦しさにうめく声が聞こえたといいます。それに堪えられなかった垂仁天皇が臣の野見宿祢に命じて埴輪に代えて、このときから古墳に埴輪が添えられることとなったのですね。

野見宿祢はこのことで土地と土師の姓とを与えられ、土師姓を名乗り、賜った土地に住んだそうです。藤井寺市道明寺にある近鉄線の駅名はここからきているのだとわかりました。

古墳(2)祖霊信仰

『やまとごころとは何か』(田中英道著)から紹介します。

「死者のために立派な墓を造り、その霊を祀り続ける、という『神道』の基本は、まさにこの古墳によって形をなしているのである。(中略)

祖先の死に直面して日本人は祖霊信仰を生み出し、それに従って墓をつくった。死をめぐる人間の思惟は逆に生を活気づけ、日本列島各地で前方後円墳を中心に、墳墓を築造していった。まさに古墳時代は、生あるものが、死者に対し最大の敬意を持っていた時代であった。それは、『神道』がまず祖霊信仰であることと密接に関係している。」

「まずこの墳墓文化には、偉大なる死者の霊を祀るという基本的な態度があり、それは明らかに、死者の御霊への信仰であり、『神道』が基本となっていると認識しなければならない。死者は神になるという思想である。それは仏教が日本に輸入されたとき、死後の『輪廻転生』よりも、『ほとけになる』という言葉を生み出した日本人の『神道』的な心のありかたを表している。現在、天皇陵と言われる古墳にすべて鳥居が建てられ、神社と考えられているのもそれを示している。」

巨大古墳というのが突然現れて突然消えていったというような認識で終わっている人は過去の私を含めて以外と多いのではないでしょうか。しかし、実は地域の民を守る神道的な考えで造られ、行き過ぎたために大きくなった民の負担を軽くするために禁止されて消えていった。まさに統治された地域の民のための祀りごとを反映したものであったようです。

天皇家は今も国民のために神社をまもり、祈祷を続けられています。統治者としての意識の強い天皇家の血筋(DNA)は長い歴史の中で一般の日本人に広く及んで、いまの日本人は、世界に誇る品のよさが世界から褒められています。

 

古墳(1)日本神道・波動

世界に類のない巨大古墳群、これらがなぜ世界遺産にならないのか、さまざまな事情があるに違いないと考えています。

神武東征の折、大阪湾に入った一行の船の梶が生駒下ろしのせいでことごとく壊れてしまいました。かろうじて草香邑(くさかむら・東大阪市日下)の白肩の津に漂着したとき、一向は先祖のご加護だと感謝してそこに祠を建てました。それがいまの東大坂市六万寺町にある梶無神社です。

その後孔舎衛坂(くさかざか、またはくさえのさか)(東大阪市日下)で応戦した長髓彦(ながすねひこ)に負けた時、自分たちの祖先は天照なのに、太陽に向かっていったから負けたのだと反省して反対側から長髓彦を打ち取る作戦に変更しました。

私はこれを知った時、天皇家の先祖を意識する習慣はこれほど強かったのかと感心しました。自分たちを守ってくれている祖先神に対して、この時代の一般の民との意識の差はかなりあったと思われます。

その後神社はいまの墓のように個人の先祖を祀るだけでなく、その地域の人びとを守る氏神として祀られていきます。力の強かった先祖は氏族を守る神となってその地域の民・氏子を守ってくれます。

古墳はその規模の大きいものではないでしょうか。さらに地域が大きくなって、その地域を治める氏族とその配下の氏族を含む民の共通の神として祀られたのではないでしょうか。それは一般の墓地のように隠れたひっそりとした場所に祀られるのではなく、みんながよく見る場所に、大きな規模で祀られたのです。

古墳は学者の関心の高い副葬品に目を奪われがちですが、一般のものにとっては、副葬品や壁画は埋葬者たちの死者を弔う心の表れです。

私は、霊や神という見えない存在を意識してきた日本人のルーツに関心が行きました。山を始め自然などの中に神や霊を感じ取る日本人の祖先は、その点では他民族より優れた能力、波動を感じる能力に恵まれていたのではないでしょうか。

このことは重要だと考えています。いま、時代が波動の力を意識するように変わってきたからです。これからは波動の時代だといえると思います。宗教が波動の世界ですが、言われたことを理性的に信じ込む危険性があります。自分の感性で総合的に感じ取らなければ騙されます。波動の時代に先駆けて、オーム真理教事件はそれを教えてくれました。

その波動の時代を迎えて、日本神道のルーツを再考してみるのもいいのではないでしょうか。

 

 

 

 

河内の翁ブログ2周年(2)波動を感じる日本民族

2年間、歴史を学んできましたが、日本という国と、西洋諸国の環境の違いが見えてきました。

キリスト教に代表される西洋諸国や、中国、韓国などの知性や物質主体の民族に対して、日本民族は自然のあらゆるものの中に目に見えない波動を感じることができる感性豊かな民族という位置づけができるのではないでしょうか。

また、そういう文化に乏しい他の諸国の民族は、日本民族のこの部分の理解が難しいのではなかったかと想像できます。

西洋文化による教育を受けてきた若者たちには、神社という祖霊信仰など理解しがたい存在になりつつあるとも考えられます。神社離れの現象が起きています。

しかし、これからの時代は魂のエネルギーが上昇し、波動世界のエネルギーも上昇していきます。日本民族は他民族と比べてその移行が容易だと思われます。

日本人はその波動を感じてきた民族性を失わないように、いや、さらに磨きをかけて世界をリードしていくでしょう。経済大国の時代から精神大国の時代へとかわっていくのでしょう。

これからは目で見えない波動世界に力をいれて、歴史を紹介していきたいと思います。

河内の翁ブログ2周年(1)

「河内の翁」という名前で歴史のことを書き始めて2年になります。

先日、いま学校で教えている「歴史」のことを聞いてびっくりしました。歴史の授業で感想や意見を言ってはいけないのだそうです。学校教育で偏った思想を作り上げることを回避するためだそうです。

「おもしろくなさそうな授業。」と感じると同時に、昭和初期の学校教育についてその時代の人にお話しを伺ったときの話を思い出しました。

尋常小学校のときの試験問題で、「日本の三大悪党を書け」という問題がありました。正解は、「石川五右衛門、楠正成、平清盛」です。

「え、なぜ、楠正成?」

恩地城主・神職・兵法家、恩地左近は楠正成と共に南朝側についた人物です。南朝側について楠正成と共に戦うだけでなく、正成の子、正行(まさつら)の教育にたずさわりましたが、その教育レベルの高さは感動ものです。このブログでもその一端を紹介しました。

それなのに、負けた北朝がわについていたために悪党にされてしまったのです。そういう点では今の教育方針は進歩したといえますが…。

私は、歴史のことを紹介しているうちに、いまの生活の中に歴史を見て、納得したり、感動したり、自分や地域を築いてきたものを書き始めていることに気づきました。

これからも、いまの教育では教えられない、しかし、知っておく必要があることを書いていきたいと心を新たにしました。