会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

月別アーカイブ: 2017年8月

法華経12(智・慈・行)

私は法華経の真髄は「知」・「慈」・「行」の教えだと思いますが、これらは、「仏」と深くつながってこそ価値あるものです。

だから、「智」は、単なる知識や、悪智慧などではありません。強くつながった「仏」からいただくものです。それらは人のスケールをはるかに超えた深遠広大なものです。

「慈」については、私は若いころ、聖書の「愛」に惹かれましたが、「仏」の「愛」は、男女の「愛」のように、憎しみに変わる可能性のあるような「愛」ではなく、おもいやりの「愛」です。宇宙を創造した「大生命」である「仏」が、その被造物(宇宙のあらゆる存在)である私たちに持つ感情です。

「行」については、すぐ修行を思ってしまいますが、自分を鍛えたり、いじめたりすることではありません。「仏」と深くつながって行う「行」というのは、いいかえれば「仏」に対する「奉仕」です。苦しみながら行うものではなく、喜びの中で行なうものです。人は、会社に奉仕したり、社会に奉仕したり、家族に奉仕して喜びを味わうのは、奉仕する存在としてつくられたからです。

本来は「仏」に対する「奉仕」のためにつくられたのですが、その能力が会社に向けられ、社会の向けられ、家族にむけられてもそれらは全て「仏」の被造物だから喜びが感じられるのです。

しかし、最高の歓びはやはり、「仏」に対する直接のつながりの奉仕で、それが社会であったり、個人であったりすることが最高の喜びに感じられます。自分の役割がしっかり確信できるから、おせっかいにはなりません。

 

法華経11(量子世界と法華経・心2)

(前回から続く)

原子までの物理法則に親しんできた私たちもいま、宇宙全体に関心を寄せ、宇宙に関した名前を生まれてきた赤ちゃんにつける人たちが増えてきました。全体を意識する時代に変わろうとしているのですね。一方、量子世界に関心を持つというのも、目に見える限られた物質世界から、物質になる元の世界まで意識が拡がり出したということですね。

量子には物質がなく、状態だけがあります。心もそうです。心は量子と同じく、他に影響を与えるのに物質と違って、距離は関係ありません。心で念じたことは遠近に関係なく届くのです。心は量子だと考えてもいいのではないでしょうか。

大乗仏教の教えは知識としてではなく、「状態」として衆生の心(「状態」)に働きかけるので、総合的(「状態」として)に衆生に伝わります。いいかえれば、「仏」という宇宙の元の意識(私は「全意識」と呼んでいます)につながることができるのです。

ごめんなさい。いきなりこんな話は難しかったかもしれません。いずれ、「心」の話、わかりやすく説明させていただきます。

なにもかも繋がっている・量子力学

法華経10(量子世界と法華経・心1)

「そのときの大衆の目には、その菩薩たちのいます無数の国土が虚空にいっぱいになっているのが見えましたが、中でもいちばんすぐれた4人の大導師がおられました。上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩がそれです。」『法華経の新しい解釈』(庭野日敬著)

上行菩薩は、一切の衆生を救うという誓願の概念。無辺行菩薩は全ての煩悩を断ち切るとい誓願の概念。浄行菩薩は全ての仏の教えを学ぶという誓願の概念。安立行菩薩は必ず仏に到達するという誓願の概念です。

「心」というもののの働きを、分子や、原子をつくり出す元(前)の「状態」、「量子」世界の働きだと私は理解しています。ここに集った仏教の修行者たちが、「その菩薩たちのいます無数の国土が虚空にいっぱいになっているのが見えました」というのは、量子世界が物質世界と同じように目に映っていたのですね。目に見えないものの話うをしなければならないために、釈迦が作り出した場でした。人神の柱がくっきりと見える体験を2度した私には、それは理解できます。

釈迦は次のように話されました。

「もろもろの善男子よ、私は安楽で、すこしの苦しみも心配もありません。もろもろの衆生もかならず教化されます。(中略)

始めに、小乗の教えを学んで、それで十分であると思い込んでいる人びとは、なかなかその根性が治りにくいのですが、そのような人びとをも、この『法華経』を聞いて仏の悟りに入るように導いてあげましょう。」

物質の目に見える一面的な世界しか理解できなかった衆生にも、量子世界の「状態」としての世界が理解できるよう、釈迦はこのような「場」を準備されたのですね。

 量子力学入門:量子と概念の世界

(次回に続く)

 

 

法華経9(仏と行と因縁)

『法華経の新しい解釈』(庭野日敬著)では、「如来寿量品第16」で次のようにいっています。

「何十億年も前には、地球が溶岩の火の塊であり、空には水蒸気やガスがたちこめて、生物というものはひとつも存在していなかったのです。約20億年前頃、地球がだんだん冷えはじめたとき、顕微鏡で見なければわからぬほど微細な単細胞の生命体が生じてきた。これをバチビウスというのだそうですが、とにかく生命というものがはじめて生まれた。

これはもちろん、「法」によって生じたものです。溶岩とか、ガスとか、水蒸気とか、そういったもののみが存在していた地球上に生命の源となる原因(因)がそれにふさわしいある条件(縁)にあって、この生命体が生じたのです。その条件を与えたのは「法」なのですから、「法というものは、われわれ人間の目からみれば、たんなる法則というような冷たいものではなく、やはりものを「存在させる力」「生かす力」という生々溌剌(せいせいはつらつ)たるものとして感ぜざるを得ません。」

「法」と「仏」が同じものということですから、これらはエネルギーに命を与え、「因」と「縁」によって創造していくということです。そして、全ての物や空間に存在するこの「法」すなわち「仏」を自分の心の中に感じる。そしてそこから、知恵をもらい、愛をもらい、自分に必要な行をもらう。そしてこの行(行為)が与えられた「因」と「縁」によって形を生み、次の行に進んでいく姿を見る。これが人の生き方であるということなのですね。

いいかえれば、宇宙のすべての奥底、自分の心の奥底に存在する「仏」を感じ、そこに意識を合わせて、行動を重ねていく。因縁が次の行動、さらに次の行動へと結び付けてくれる。そういう生き方をしなさい。それが宇宙の中で調和がとれた生き方であり、宇宙の喜びの中の生き方だということなのですね。

ちょうど、体の細胞のひとつひとつが脳の指示に忠実に従うことで、細胞がそれぞれの役割を果たし、互いに助け合って体全体を健康に維持できる姿と同じですね。

ただ、末法の世だから、「法」や「仏」が弱まるので、感じ取るのは難しいよということなのか。それなら、強く結びつき、感じ取れるような工夫が必要ですね。

「仏」「法」につながるために 偉人たちが準備してくれたのがマントラを唱える方法、「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」などです。いまは、さらに一工夫必要なようです。

因縁

行(仏教)

法華経8(如来寿量品第16「仏」を絶えず意識し続ける)

昨日アメリカから日本に一時帰国された日本人にお会いしました。私と同様、常に根源を意識しようとする方ですが、日本はあらゆるところに広告があり、気が分散するそうです。

法華経如来寿量品第16に、

「私はいつでもどこにでも誰のそばにも存在して、衆生を救うのですが、衆生が真剣に私を求めなければ、その効果がないので、いなくなってしまったかのように見せているのだ。私が居なくなってしまったと思えば人は私を恋慕し私に強い気持ちを抱く。」というような意味のことを書いています。

チャイタンニャは、根源紳クリシュナに絶えず強い意識を持つために別れのときの気持ちを持ち続ける工夫をされました。私はつらくてとてもそんな方法をとることはできません。

私はこの初めて出会った同志の方に、「私は、生活そのものを『全意識』で行うという、別名『生活瞑想』を以て生活するようにしています。そのようにすれば、広告をみても『全意識』で、法華経の表現でいうなら、『仏』とともに見ているわけですから、チャイタンニャほど強くはありませんが、根源紳への意識から離れないで居れます。」というような話をさせていただきました。

法華経ではこの遍在する根源の存在のことを「仏」と呼んでいるのですね。

法華経如来寿量品第16

法華経7(末法)

久々に「末法」という言葉に触れて、ハタと気がついたことがあります。「末法」とは「法」が力の弱まる時代です。

それでは「法」とはなんでしょうか。『法華経の新しい解釈』(庭野日敬著)を参照しますと、

「『ものごと』(この宇宙間に存在する一切のものや、世の中に起こるすべてのことがら)」という意味があります。次にそのものごとをつらぬいている一つの『真理』という意味があります。第三に、その『真理』によって正しくしかもその時にふさわしく説かれた『教え』という意味があります。広く『仏教の教え』といえましょう。第四に、倫理や道徳にかなった『善いことの実践』という意味があります。その四つの意味の大元である『真理』が『仏』なのですから、その心理や法則の上に立って、『人間はどのように生きねばならぬか』を説かれた教えも『仏』なのです。

つまり『法』と『仏』は同じものであり、いいかえれば、『仏』と『仏のはたらき』すべてが『法』ということばで表されるのです。」

すなわち、「末法の時代」とは『仏の働き』すべてが弱まる時代ということですね。「人間はどのように生きねばならぬか」という教えも弱まる時代ということでしょうか。

しかし、「正法・像法の時代」のあと、長い「末法」や「法滅」の時代が準備されているということは、「正法」によって基本的な生き方を根本的に身に着けた人類が、こんどは、法に縛り付けられないで個々がそれぞれの役割に応じて、仏の悦びに満ちた姿を表現することを創造主が期待しているのではないでしょうか。

末法が世の中が悪くなることを意味しているという考え方は、創造主を考える時、不自然です。

やはり、「末法の時代」とは、「仏・法」を超越して、根源神、創造神と直接固く結ばれ、根源神、創造神に奉仕する喜びに満ちた時代ではないでしょうか。

 末法・終末

法華経6(日蓮)

日蓮は、法華経こそが仏教のすべての経典の中でもっとも優れた経典であると確認して、この経典のもとに、民衆を救おうとされた方です。

日蓮が鎌倉で民衆の救済を始めた時代は、毎年のように、異常気象や大地震などの天変地異が相次ぎ、大飢饉、火災、伝染病がありました。この時代は以前に紹介したように、小氷河期といわれ、地球規模でこのような人類にとっての苦難の時代でした。

日蓮は『立正安国論』の中で、相次ぐ災害の原因は仏教の邪法である諸宗にあるとして、浄土宗の信者を殺すことも辞さないというようなことまで書きました。万人の救済を願う法華経の意図に反するのではないかとも思われます。しかし、このままだと三災七難のうちまだ起こってない内乱と他国からの侵略も起こるだろうと警告し、結局、元寇や北条時輔(ときすけ)の乱など北条一門の内乱でその予言は的中しました。

このような他を攻撃する反動を受けて日蓮は北条時頼や、他宗の迫害を受ける一生を送られました。

前回には乃木将軍・源義経・楠正成など私心を離れて世のために命を投じた人たちを紹介しましたが、この末法の世には優れた宗教者といえども、その役割を果たすに当たって、法華経に完全に従い切れないのですね。この末法の世においてどう生きるか、法華経に根ざしてその時代の役割を演じたのでしょう。

 日蓮

日蓮の教え

 

法華経5(乃木将軍・源義経・楠正成)

恩地研究会の浅井さんが持ってきてくれた本を読んでいると、気になる箇所がありました。『嗚呼乃木将軍』(杉謙二編)です。

「時勢(じせい)という関係もあろうが、兎も角(ともかく)も、予(よ)の少年時代には、生命を左程(さほど)重く置かぬことが、一般に於(お)ける當時(とうじ)の家庭教育の方針とでも謂(い)える。さればその反面に於(お)いては、死と云(い)うことは、一種の名誉のように心得て居(い)た。」乃木将軍の少年時代、明治維新の頃のことです。

乃木将軍夫妻は明治天のが崩御されると、夫婦で殉死されました。表現を変えれば自殺です。わずか100年あまり前でも武士の末裔はこのような考え方だったのですね。乃木将軍の名前はよく親から聞かされていました。日露戦争で活躍された方ですが、一般兵士の戦死と息子の戦死を差別しなかったそうです。全体を見る目ができていたのですね。

私は、これを読んで、源義経を思い出しました。鞍馬山で仏教の教育を受けながら、「自分は地獄に落ちてもいいから平氏を倒す」といっています。

楠木正成も弟と共に、、「何度生まれ変わっても天皇をお守りしよう。」といって地獄行を厭わずに自殺(このような表現を使ってごめんなさい)しました。

仏教の教育を受けた人達なのに。まだ日本人のどこかに、残っているこのような姿勢、考え方は法華経の教えに反するのでしょうか。いいえ、一見、自分を大切にしなければいけないのにと思われますが、彼らの天皇に対する奉仕の心がそれほど強いものであったことを評価する人も少なくありません。

野木将軍の殉死

 

法華経4(全体意識)

法華経や聖書はすべての人や霊が救われる道を説いていますが、それから2000年経たいま、その時代から人々の意識は大きく変わりました。当時はごく一部の人たちが個人的な修行をして悟りを開きました。いまはそのような修行をする人はほとんどいません。

しかし、法華経や、聖書に書かれた全体のことを考える考え方が一般的になり、宇宙のこと、アジアのこと、人類のことなど、喜びに満ちた平和で楽しい世界を望んでいます。それに反する争いを止めさせる努力を続けています。地震や、台風、洪水による広い地域の災害を日常に体験して、個人から集団、全体への意識に変わりつつあります。、法華経や、聖書の成果ですね。

こうした、自然の災害など、自分たちの力の及ばないことを、祈祷など、祖先たちは目に見えない霊に働きかけてきましたが、成果は上がった様子はありませんでした。自然災害はそうした人霊たちの力の及ばない世界であったようです。

やはり、これからは、まず宇宙創造主とともに存在する宇宙全体を意識し、そこから部分的なことを、全体のつながりとともに配慮する時代になったのでしょう。

法華経3(お盆のお迎えと霊)

前回にお盆の起こりの話を紹介しましたが、今のお盆は今日の夕方、先祖の霊や亡き家族の霊を墓に迎えにいって家に連れて帰ります。16日の朝また墓へ送るまで、家で2日間、ゆっくりしていただこうというものです。

霊を意識して、霊とともに行動することに意義があるのでしょうか。しかも家族の霊が中心ですから、つながりが強いものです。すべての霊とのつながる第一歩としては理想的な体験ですね。これらの体験から、諸仏、諸天善神の霊へとつながっていきます。

イグナチオロヨラの霊操は、イエスの霊とともに行動しますので、イエスの霊とのつながりが第一歩になります。聖書とともに生活しているクリスチャンにとってはイエスの霊を身近に感じているのでしょうね。

こうした霊の意識が強まることで、法華経が説くように全ての人や霊の救済が実現するのでしょうか。キリスト教の一派で、将来、亡くなった人もすべてこの世でともに暮らせる時が近いうちにくると教えていましたが、霊とのつながりがそこまで強固になっていくということでしょうか。

そんなことを考えながら、先祖や、亡き家族とともに、墓でつけた長い線香を持って帰宅しました。

お盆の起源