会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

河内にあった宿場町・東大阪市松原・松原宿

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東海道・中仙道などでなじみの宿場町、それが河内にもあったのですね。いまは跡形も残っていないようです。

奈良街道というのは、東海道などのような参勤交代の大名が行き交うような幹線道路ではなかったのですが、大和郡山・大和小泉の藩主や、巡見役人の行き来や、伊勢参りの人々の利用もあったと『東大阪の歴史』(藤井直正著)に書いています。江戸時代にはずいぶん栄えたようです。

奈良街道は、暗がり峠の少し手前に弘法の清水があるので、弘法大師の時代、平安時代にはすでにあったようです。

「奈良街道は、暗峠から急な坂を一気に下り、豊浦村を過ぎ、箱殿で東高野街道と交叉し、さらに恩智川にかかる石橋を渡って町水走を通り抜けると松原である。ここが奈良街道唯一の宿場であった。」(中略)

「幕府は宿場に常置する人馬を補充するために、宿場に近い村々から農民を動員し、人馬継立の役目を負担させた。これを助郷といったが、松原宿の助郷として、豊浦、額田、水走、菱江の各村が定められ、場合によってはその他の村々にも及んだ。これらの村々では、自村として負わなければならない諸役のほか、奈良街道に公儀の通行あるときは助郷としての義務が加わるのであり、大きな負担となった。」『東大阪の歴史』(藤井直正著)

宿場町とは需要に応じて自然にできたものと思っていましたが、幕府がつくったのですね。参勤交代の制度は宿場町がなければ成立しませんから付随してつくられたのでしょうね。

「助郷とは近世において街道宿駅に常備している伝馬・人足が不足する場合、役所より指定されて応援の人馬を負担する近隣の郷村またはその課役のこと。課役には常任のものを常助郷、臨時に補うものを代助郷とか増助郷または加助郷といわれた。(中略)

将軍の移動については物量が多く、各街道宿場において、人馬の調達もかなりのものであったことが想像される。」

 

 

河内の翁 の紹介

飲食店の仕事を現役で行いながら、ご理解いただける仲間とともに、「かむながら」という生き方を実践しています。宗教、宗派を超越したものです。 「かむながら」とは、「常に根源神を意識しながら行動する」という意味です。 根源神とは、宇宙を創った存在のことです。宇宙の全て(私達を含む)は、創った存在(根源神)とは常につながっていますので、宇宙そのものとも表現できます。