会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

カテゴリー別アーカイブ: 河内歴史

戦時中の恩智の農業

松岡さんにお話しをお伺いしました。88歳という高齢ですが、お元気です。小さい時は、隣に私の家があって、親戚の選挙応援に両親が留守をしている間に私と弟が弟の懐炉をつくってこぼした火から全焼してしまいました。そのときに、松岡さんの弟さんが雨縁を蹴り破って、前に立っていた私を救い出していただきいただきました。同時に火が噴きだして、奥にいた弟は焼死しました。火や水で建物に被害をもたらして大変な迷惑をかけました。

戦時中は、元気な働き手は戦争に取られて残っているのは、若者か年寄だけでした。新田を利用した恩智いちごがつくられていました。いちごジャムもつくられていましたが、戦時中で砂糖が手にはいりません。それでサトウキビもつくっていました。

現在の南高安小学校の北側に組合の建物があり、そこで売り物にならない小さないちごなどをサトウキビから作った砂糖を利用してジャムにしていました。

私はまだヨチヨチ歩きのときに、すすきをさとうきびとまちがえて口に入れて倒れてのどをつき、大量の出血をしたと聞かされています。この事故で、たくましい脚に比べて、貧弱な腕という姿になったようです。

コメの裏作に麦を作っていましたが、わらと混ぜて牛に食べさせていたようです。メークインも作っていて、小さいのは、牛のエサにしていました。子供の頃、お腹がすいたら、牛のかいばおけ(えさを入れる容器のこと)から、ときどき、そのメークインを食べていたのを覚えています。

戦後もしばらくイチゴはつくられていましたが、1年かかる苺より、短期間で出荷できる軟弱野菜の方が収益が良いのでやがて苺はなくなりました。

西南戦争と八尾市恩智にある官軍戦没者のお墓

西南戦争墓地

1877年(明治10年)、西郷隆盛が武力反乱を起こしました。帯刀、俸禄の支給という武士の特権を奪われた士族の反乱です。これが2015年現在最後の内戦となります。官軍は7万人の規模でした。

戦争は政府の財政危機を招き、農民を没落させ、プロレタリアトを増加させました。その一方で、一部の大地主や財閥が資本を蓄積し、初期資本家が現れ、民間の大規模投資が可能になり日本の近代化を進めることになりました。貧富の格差は拡大しました。

私達の地域でも西南戦争でこのような犠牲者があったのですね。つねに時代は変わっていき、そのたびに戦争がおこり、社会の混乱のなかで財を得るもの、無くすもの、あるいは命そのものを無くすものができるのですね。

そのお墓が東高野街道の少し上、恩智左近の墓の南に隣接してあります。

 

大阪府八尾市恩智の古絵図

板倉さんが恩智の古絵図をお持ちだと聞いたので見せてもらうようにお願いすると、畳2枚くらいの大きさだということです。もっと小さくしたものはないのかというと、民族資料館の小谷館長がその古絵図をもとにA3の大きさで色分けしてつくられたものがあるというのでそのコピーを依頼しました。

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赤い部分が住宅地で、中央の横のラインが東高野街道、縦が恩智道で中央やや上の赤いところが恩智神社、青いところが山林、山林の頂上右上あたりで関電道路(大県信貴山線)に接しています。関電道路をはさんで、柏原市斎場の北になります。右上、ちょうど東南の角、この図では端が切れていますが、そこに番所があったということです。そこに大きなため池(立原池)があるのですが、これほど多くの池があるのに、この重要な池が書かれていないのは、この池はこの絵のあとにつくられた?やはり総池と共に乾亀松翁(恩智神社の駐車場にその業績を称える大きな碑があります)の仕事?

ここには乾亀松翁が創られた信貴山に向かう広い道、恩智道が書かれていないので地図はその時代以前のものでしょう。

この絵をもとに、「古絵図を歩く会」(今は名前が変わっていますが、50名ほどになっているとのこと)が旧の細い信貴越えの道を歩かれたとのこと。

 

天誅組と奈良県高取町・高取城

高取城址を見てきました。天誅組が大敗したのに対して高取城側は一人も負傷していません。城跡を見て十分納得しました。立て看板に日本三大山城のひとつだと書かれていました。それは立派な城だと人から聞いていましたが、正直なところ、登りはじめは、道は険しいし、後から夫婦連れの年配者がやってきていましたが、途中で引き返すだろうと予測していました。しかし、頂上から降りてきたところで出会いました。神戸からわざわざやってきたので、引き返す気にはならなかったのでしょう。頂上に登ると、大きな木が視界をじゃましていましたが、四方を見渡せる抜群の立地でした。

建物は残っていませんでしたが、残された石垣を見ると、そのしっかりとした山城が想像できます。ここに、500人や1000人攻めてきても高取城は200人でも十分に勝てる、そう感じました。高取城攻めは天誅組のあまりにも無謀な戦いだったとしかいえません。

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?天誅組の変

富田林市水郡(にごり)神社と八尾市恩智神社・天誅組・楠正成

先日恩智神社の由緒書きにある下水分神社のことでつながりを感じたという富田林市在住のヨガの先生の話をききました。柏原市大県の鐸比古・鐸比売(ぬでひこ・ぬでひめ)神社の神体・高尾山から関電道路を上って柏原市斎場のあたりから生駒山の尾根を歩いて恩智神社に降りてこられたそうです。恩智との縁を感じられたそうです。

このコースを恩智の地元の人でも歩いた人は少ないと思います。私も恩智研究会の大畑氏が準備してくれた地図に柏原市斎場の関電道路の北側が大字恩智となっていることに驚いたぐらいです。

楠正成の氏神である建水分(たけみくまり)神社は上水分神社といわれています。恩智左近の恩智神社はこの関係で下水分神社と呼ばれたのでしょうね。恩智神社はいまでも水が出ています。水が心の波動を映しやすいものであることが分かってきている今のこの時に、宇宙のエネルギーを受ける助けをしてくださる大御食津姫(豊受大神)と共に、宇宙波動レベルの祭神が活動を始めたのでしょうか。それによって縁ある人々が動かされている気がします。

恩智研究会ノメンバー、大畑、浅井両氏が早速、富田林の水郡神社に参拝してきたという報告を受けています。しばらく時間をかけて、恩智と富田林を結ぶ南北朝の戦い、天誅組の歴史を学んでいきたいと思います。また、八尾市と富田林市には寺内町があり、教育レベルの高い人がいたのではないかという期待もあり、楽しみにしています。

古墳(7)天皇家と波動世界

古墳から受けた気はとても温かいものでした。遷宮のときの板片も全く同じ波動でした。

天皇の日本国民の象徴としての姿はそのやさしさに現れていると思っています。それは宇宙の源の持つ愛です。その源からの波動は太陽神である天照大神に現れています。このことに関して面白い記述があるので紹介します。

昔、天皇家から「幣帛」をいただく神社がありました。恩智神社もそうでした。いまは神社本庁から幣帛料ということで金銭が贈られています。この弊帛はお祀りに使われます。日本最古といわれる神社に弊立神宮というのがありますがこの「弊」というのは何でしょう。

「弊立の『弊』というのは、『ヌサ』という字で、そのヌサが麻のことなのです。麻を立てて神を呼ぶわけです。(中略)

雷を表現したギザギザの神垂(しで)も麻だし、祝詞の紙も麻だし、それから神主の衣服も麻でできているということがある。なぜこれらのものに麻が使われたかというと、ぼくが思うには、やはり宇宙エネルギーというものに対して、日本の人たちは、これが神なんだという認識があったと思います。(中略)

媒体として麻が使われたということですが、もう一つ使われていたものがあります。それは神主の言霊(ことだま)です。

たとえば、『この子が受験に受かりますように』とか、氏子がお願いをしに行きます。そうすると、神主さんがそれをきちんと麻の紙に字で書いて浪々と読み上げます。どこの神主さんもきれいな声で読み上げるわけです。言葉というのはすべて神がつくったから、言葉の振動をきちんと発音すれば、宇宙にいくわけです。それが言霊というものです。

そして、麻を使う本当の理由は、麻が高周波植物だからというのがぼくの推理なのです。つまり、麻はアンテナ役を果たします。たとえば100ヘルツから10万ヘルツのところには一挙にはなかなか行きにくい。今の携帯電話でも、あちこちにアンテナ塔があるのと同じような役割を麻がしていたのではないかと思います。」(『さあ5次元の波動へ宇宙の仕組みがこう変わります』デーヴィッド・アイク+江本勝著)

天皇家というのはすごいですね。このようなこと、麻の周波数、言霊のエネルギーを感じて宇宙の源にアクセスしていたのですね。いま、2000年余りを経て、多かれ少なかれ、日本人はこの血を受け継いでいます。波動に注目がよせられるこの今の時代にわれわれ日本人が活躍する役目があるのではないでしょうか。

弊立神宮には「五色祭」というのがあって五色人、すなわち世界のすべての人々のためにお祈りするのだそうです。15000年の歴史があるらしいのですが、その真偽は別として、いま世界のために日本が中心となるというのは大いにありうることです。

 

 

古墳(6)天皇家に伝わる呪の気

私のブログ(河内の翁)2016年4月19日投稿『伊勢神宮・天皇家に伝わる秘中の呪術』より紹介します。

「天皇と人の違いは、天皇は「魂の容れ物」であること、天皇には唯一「天皇霊」がつくのであって、その霊は、皇祖神・天照大神から引き継がれたものとする。

さらに「魂の入れ物」に入るのは、「天皇霊」だけではないという。天皇には日本の国を治めるのに根本的な力の泉があって、それが、群臣から天皇に差し出されたものであり、群臣の中でも重要なのは、物部氏であったとする。

天皇は大和の国の君主であるから、大和の国の魂のついた方が、天皇となった。」『神武東征の謎』(関裕二著)

御陵の前で私はこのような天皇家の霊の独特の強い「気」を感じたのですね。他の御陵でも同じ「気」を感じることができるのでしょうか。これからの天皇家の古墳参拝が楽しみです。

古墳(5)応神天皇凌・安閑天皇凌・羽曳野市

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第15代応神天皇陵と第7代安閑天皇陵(古市高屋丘陵)

亡父の遺志を引き継いだ格好で従弟と誉田の地を訪れました。明治の少し前に誉田の米谷家から輿に載って恩智の畑中家に長男が養子にきたというのです。米谷家は蔵が7つもある家だったそうで、当時、恩智の地元ではちょっとした事件であったようです。長男を養子に出すなど、誉田の米谷家に何があったというのでしょう。

父は、謄本まで入手することができましたが、米谷家はすでになく、わからずのままで他界してしまいました。父と一緒に探した従弟の松岡さんと再び誉田を訪れました。今回は飛び地の山に行きました。人家はなく、広域農道を歩く老人をみかけたので聞いてみました。

「ここは、「あすかむら」で誉田ではないが、むかし、古市の小学校まで通っていた時、今田に米谷(よねたに)さんは数軒あったよ。」という話です。謄本の米谷の読み方を教わりました。不思議な出会いです。

そのときに近くの2つの御陵に参拝させていただきました。

お参りさせていただいたときに、どちらの御陵でも温かい気を感じました。これは天皇家のものだと、伊勢神宮の遷宮のときのことを思い出しました。

以前のブログで私は次にように書いています。

「これを読んだときに、私は以前体験した2つの事柄を思い出しました。まず、ひとつは、遷宮の時の御柱の板です。ある人から触ってみてくれと言われて、「そんなものを人に触れさせるべきではない。」と断ったのですが、むりやり触らされて驚きました。その板から、温かい強いエネルギーが出ているのです。人の手からはそのようなものを感じますが、木からでているのは驚きでした。どうしてそんなことができるのでしょう。」(続く)

 

恩智城(恩智左近)・天皇家とのつながり・富田林の熱い楠正成信奉者

先日、?富田林の熱い楠正成信奉者のグループから2人の方が恩智神社に来られて、恩智研究会のメンバーから3人が応対しました。恩智左近の大畑君の研究結果を知って、地元ではおおさわぎが起き、話を聞きにこられたのです。天誅組と恩智左近の末裔との関係で、地元の天誅組信奉者も参加してこの話の結果に注目しておられるとのこと。

大畑君の口からでる明治天皇との親族関係ができた恩智左近の末裔・恩地とみ、満州国のラストエンペラーの弟に嫁いだその曾孫の嵯峨浩、新しい真実話を聞いて何度も驚き、感動しておられました。地元の恩智ではそれほどの盛り上がりを見せなかったのに。

(恩智の人々は初代の神武天皇が孔舎衛坂(くさえのさか)の戦いで長髄彦の追手から、当時海の中の島だった天王の森に丸木舟をつないで逃がして救ったという歴史があり、いまでもその講(舟戸講)が続いていて、またそのあと屯宅(みやけ)ともなっていた時期もあり、天皇家とのつながりは強く感じてきたからとくに驚かなかったのかもしれませんね。)

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その時に見せていただいた恩地左近が3年かけてつくった恩智城の図面です。恩智城址はいま、桜公園と呼ばれて地元では毎年2日間、「春ごと」というお祭りがあります。図面の一の丸の周りの濠は、私の小さいころは池で、ボートが浮かんでいましたが、現在では埋め立てられています。

このころの濠を持つ城郭は恩智城だけで、150年先んじたつくりだということで恩智左近を高く評価し、

「楠正成にこの恩智左近があったからあれだけの活躍ができたので、私はいまや、恩地左近の信奉者です。」

とおっしゃって、。新海宮司に恩地左近にいくつかのグループでやる奉納太鼓をやらせてほしいと頼んでおられました。

そのうえ、新海宮司が天誅組の吉村虎太郎と親戚関係にあるという話を聞いてさらにびっくりぎょうてん。富田林の天誅組信奉者が恩地左近との関係で楠正成と恩智左近とのつながりでひとつになって動き始めた時に、恩智神社の新海宮司が天誅組の中山忠光と行動をともにした吉村寅太郎と親戚関係だなんて。これは目に見えない世界の動きを感じずにはおれなかったでしょう。

 

 

古墳(4)仁徳天皇陵

引き続き、『やまとごころとは何か』(田中英道著)から紹介します。

「日本最大の16代の仁徳天皇陵(大仙古墳)の底辺部は、エジプトでも最大のクフ王のピラミッドや秦の始皇帝の墳墓の底辺部よりも大きいものである。全長486メートルもあり、二重に濠がめぐらされている。一日2000人の人が働いて、16年もかかる仕事と言われ、人びとが協力して古墳を造ったことがわかる。(中略)

仁徳天皇は《私が高台にのぼって遠くを望み見ると、煙が国のなかにあがっていない。思ってみると、百姓が非常に貧しくて、家で飯を炊く者がいないのではないか》と言われた。《いまより以降、三年のあいだ、すべての課役をやめ、百姓の苦しみを除け》と命じた。《この日より、天皇の御衣服やお履き物が、敗れて駄目になってしまうまでは新調をせず、ごはんやお吸い物が酸味を生じて食べられなくなるまではとりかえないことにされた》のである。

その後3年を経てから高台にお立ちになり、はるか遠くをご覧になって、《百姓が豊かになった。天皇をほめ讃える声が満ちて、飯を炊く煙がさかんにたちのぼるようになった》と述べられた。しかし、すぐに中止していた宮殿の修理の労働を課すのではなく、さらに十年待って、課せられたという。

そのときは百姓はみずから進んで働き、期日よりも早く完成した。そもそも天が君(天皇)を立てるのは、まったく百姓の為なのである》

とのべられて、天皇という地位は、すでにこの時代から人民に奉仕するものだ、という考え方ができていたことを示している。」

その天皇が死んで神となられ、天皇家だけでなく、民をも守られるという考えは極めて自然です。天皇家というのは、おそらく統治者として特別な存在だったのですね。先祖ぐるみで民を守るという特別な役割をもった人類だったと思われます。仁徳天皇陵は感謝と崇拝の気持ちで作業にあたったから、この墳墓の波動は素晴らしいに違いありません。一度訪問したいです。

江戸時代のように「百姓は生かして殺さずといって、搾取するためのものというような武士政権の考え方とは全く違っていたのですね。徳川が、同じ天皇家の血筋、源氏の末裔だといっても、やはり直系とは違って、少し違いが出るようです。