会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

日別アーカイブ: 2015年7月30日

大阪府八尾市神立・十三峠・経ケ塚

前回は仏教が日本に入ってきたときの話でしたが、今回紹介するのは、仏教が成熟しきって、一部、欲まみれになっているところもでてきている頃の話です。

織田信長が寺の焼き討ちをします。そんなバチあたりのようなことをする信長はまともな人間ではなかったのでしょうか。いいえ、そうではないと思います。当時、キリスト教が日本に入ってきていましたが、信長はその教えを気に入っていたようです。一夫一婦制でなければ、私も洗礼を受けたいといっていたということを本で読んだことがあります。

信仰心がなかったのではなく、本来の姿から逸脱した仏教を真の宗教と認めていなかったのかもしれません。単に敵対する相手としかみていなかったのでしょう。仏教は、「阿都の村人」で紹介したように、日本に入るときにその教えの神髄から離れた形で始まり、成熟してその教えから逸脱し、このあと江戸時代には、キリシタン排除のために戸籍管理に利用されて、ずっと政治に利用されてきたのですね。おかげで大きな寺院や、数えきれないほどのお寺が建立され、その中で偉大なる僧侶が出現し、その書物はとても読み切れないほどの量になっています。物事は多面性を持つもので、一面だけで判断できないことがわかります。

十三峠にある経ケ塚紹介者の坂上ひろ子さんは、経ケ塚についてつぎのように紹介しています。

「今から420年ぐらい前(注:1577年のこと。この書籍は1998年に刊行されている)、後世、松永弾正として知られる松永秀久は、信貴山に城を構えていましたが、織田信長の軍勢に攻められ滅びました。この合戦のとき、平群から河内高安にかけての一帯も焼き討ちされたそうです。

経ケ塚の東方、平群白石には「白石千坊」と言われるほど、たくさんのお寺がかたまって建っていました。これら白石の寺々も例外ではなく、焼き討ちに遭いました。兵火が迫って来た時、寺々のお坊さんたちは、ちょっとでも多くの経典を残したいと、持てるだけの経典を背負い、西方の山に逃げました。」

そこに穴を掘って経典を埋めたので、その後、この峰を経ケ塚と呼ぶようになったそうです。いまは白石千坊と呼ばれていた場所に多くのお寺はありません。そのあたりに杵築神社がありますが、塔頭の一院だったようです。。平群郡福貴畑地区です。

十三峠の南に「おと越え」があります。平群では「大塔越え」といいますが、河内から大和に超えるとき、人々は白石千坊の大きな塔がそびえていたのを目印にしたという説もあると書いておられます。いま残っていれば観光名所になっていたでしょうね。