会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

月別アーカイブ: 2015年9月

大坂夏の陣・木村重成の無念塚

『河内どんこう100号・木村重成の無念塚・桝井幸雄』から紹介します。

八尾市の北端、第2寝屋川のすぐ南、幸町6丁目の公園内に木村重成の墓がある。『八尾の史跡(新訂版)』は次のように記している。

「元和元年(1615)5月6日早暁、大阪城から若江に進んだ木村重成は、激戦の後、井伊隊のいお原朝昌の槍につかれて戦死した。遺骸はここに祀られて塚がつくられた。宝暦14年(1764)重成の150回忌に当たって、重成の首を貰い受けた安藤長三郎の子孫の次輝が、その菩提を弔うためにここに墓碑をたてた。もと一三街道に面して、山口重信の碑と相対して建てられたが、いつの間にか山口重信の碑は折れ、木村重成の墓は後ろ向きになったという。俗に無念塚と呼ぶ。

墓石を削って飲むと、勇気が出、勝負ごとに強くなるとの俗信仰があり、そのため角がまるくなっている。また墓前の松の葉を布団の下に敷いて寝ると、子供の寝小便や、夫の浮気に功があると伝える。」

さらに『大坂冬の陣夏の陣』(岡本良一)から次の文章を紹介しています。

「木村重成が、かねてこの日の討死を期して、あらかじめ冑の中に名香をたきしめておいたので、首実検をした家康が重成の覚悟の潔さと、その心がけのゆかしさにいたく感嘆したというのは、よく知られた有名な話である。」

私は、木村重成の名前は覚えていますが、その内容は全く知りませんでした。まるで茶道のようですね。武士道と茶道は通ずるものがあるのですね。しかし、この話を知って木村重成のたしなみを褒める気持ちより、なぜか悲しくなりました。

神武天皇の東征以来、河内は、戦に明け暮れた土地だともいえます。この土地に残された怨念を浄化してくれたのでしょうか。それで河内の国から戦が消えていったのでしょうね。

玉祖神社・観月茶会

先日このブログのための取材協力をお願いしたときにご案内いただいた「観月茶会」に参加させていただきました。5時30分の祈祷の時間には一般参加者が少なかったので、私も拝殿に入れていただいて、役員さんたちと一緒に祈祷を受けました。お茶をお供えする名月の祈祷は初めての体験です。

祈祷のあとは、宮司さんの手が空き、急にお話しが聞けるようになり、紹介していただいてから40日ぶりに取材が実現しました。

宮司さんのおばあさんと坂戸源治が兄弟だったと聞いて驚きました。ついこの間、柏原市図書館で借りた『柏原市史』で坂戸源氏のことを知ったばかりだったからです。摂関家領河内国古志郡坂戸牧を本拠としていたことから坂戸源氏と呼ばれていたそうです。平安時代の文徳天皇から出ているので文徳源氏とも呼ばれています。実に由緒ある古い家系なのですね。

宮司さんも1200年前、山口県の玉祖神社から勧請されたときに一緒に来られた4軒のうちの一つで、途中300年ほどを除いて、ずーと玉祖神社の宮司を継いで来られたそうです。

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さて、私は30年ぶりくらいの御茶席です。作法もすっかり忘れていて、ご指導をお願いしながらいただきました。宮司さんの奥さんのお姉さんが池田から、わざわざお茶をたてにきていただいたそうです。作法もすっかり忘れてしまっていてそちらに気をとられていたので、お茶の味わいを楽しむ世界には十分入れませんでしたが、このすばらしいお茶の文化を思い出させていただきました。

そういえば美家古でも、最近は初釜をはじめ、お茶会の料理も作らなくなって、お客様には定番料理から選んでいただいています。

神立の村とは、父母が水呑地蔵園地に智慧地蔵尊を建立させていただいたとき以来のご縁ですが、もう30年もたって知った人とはお会いすることができませんでした。

美家古さんの料理はおいしいし、とっても美しいといっていただく方がおられました。料理の器の回収のときにはお礼のことばをいただきますが、へいぜいにこんな言葉を聞けるのもいい職業を与えていただいたと感謝です。

滝のマイナスイオンを浴びながら大きな楠木の元にいたおかげで、翌朝は体に気が漲っていました。ありがとうございました。

 

 

 

称徳天皇(孝謙上皇)・道鏡・飢餓救済

河内どんこう100

恩智から志紀に向かう玉串川沿いが整備されて、私の散歩コースになっています。このあたりは弓削の宮の一部です。称徳天皇は、768年に藤原仲麻呂の氾濫を鎮圧し、淳仁天皇を廃位し、天皇に復位しました。その後の弓削行幸です。その時物部氏の一族である弓削氏の出目の道鏡は、天皇の強い立場を利用しての政策を提案します。

以下、『かわちどんこう100号』に書かれた高井雅弘さんの「幻の八尾由義宮」より紹介します。

「陛下も既にお気づきのように、今、貴族や地方豪族と公民との貧富の差が大きくかけ離れております。この際、天平15年(742年)に詔がありました墾田永年私財法を思い切って廃止されてはいかがでしょう。

と申しますのはこのままでは貴族の私有地がどんどん増えるばかりでその富が益々ふくらむ一方でございます。

しかしその一方、公民の公地は疲弊しております。そして全国各地の国司の倉庫にある食糧は、このところの飢餓救済で減るばかりにございます。やがてこのままでは、底をつくことにもなりかねませぬ。」

「左様ですね。朕もそのことでこのところ頭を痛めております。そうかわかりましたよ。その廃止令で貴族たちの墾田からの作物を国司の倉庫へ収めさせるという手だてですね。」

「左様でございます。この際、各地の豪族や、貴族の富と権力を減らせしめ、天皇家にさらに富と権力を集中するわけにございます。」

以上のような会話を書かれています。同時に、地方豪族や国司が結託して兵器の隠匿や、軍団を強化しているところも出てきているのに対し、国分寺や、国分尼寺に、税の監視と情報網強化をさせます。

また、天候によって作物の取れ高が左右される件にに関して、僧侶や陰陽師でも成果があがらなかった。道鏡は宿曜秘法を用いて毎日祈祷して成果を感じています。

道鏡は陰でずいぶんと活躍していたのですね。法王まで上り詰めて仏教の理念に基づいた政策を推進しました。道鏡に関してはいろいろなみだらな説が飛び交っているようですが、根も葉もないことで、優れた僧というのが本当のことのようです。

 

 

八尾市教興寺の教興寺復興と蒙古降伏の祈願・神風

西大寺の思円上人叡尊は、高野山や東大寺で密教を学び、律学の復興を志し、西大寺を律寺として復興した。西大寺を真言律宗の本拠として各地に戒律を学ぶ僧衆が集まり、とみにその名をあげた。後嵯峨、後深草、亀山三上皇の帰依を得た。大和はもちろん、河内、泉まで布教した。

高安の教興寺に参拝したとき、行動本尊千手観音が雨露にぬれているのを悲しみ、復興の志願を立てた。1281年、蒙古の再度の来襲にあたって、叡尊は勅命を受けて教興寺に下向、248人に菩薩戒をさずけ、講堂千手観音の前で蒙古降伏の祈願をした。聖徳太子の命で、物部氏滅亡の祈願をして以来、相手滅亡の大祈願がまた、教興寺で行われた。

この年7月、男山八幡宮で、百人の僧衆をひきいて蒙古降伏の大祈願を執行したが、この時、神風が急に起こり、蒙古軍の船すべてが破損した。このときは、世界最大規模の軍隊で日本を攻めてきたのだが、到底勝ち目のない戦いに神風が相手を滅ぼしてしまうのです。

教興寺に込められた相手滅亡の強い念は、このように強烈な念として聖徳太子の時代から、その地に残っていたのですね。おかげで、日本は蒙古の属国となることから護られたのです。

八尾市恩智で山に向かって流れる川

恩智では谷は東山の生駒山脈から、流れてきた水が恩智川に注いでいます。川は高い東側から低い西側に流れています。その水を集めて恩智川は南から北に向かいます。

普通、生駒山脈の西にあたる河内では、東は山なので、川は東から西に流れます。先日恩智の研究をしておられる辻野和夫さんに、

「恩智で西から東に流れる川があるのをご存じですか。」

と聞かれて、そんな川があるはずがないと思いました。説明を受けたのですが、先日、玉串川のほとりを歩いていたら、玉串川にある水量調整弁を操作している浅井さんに出会って、

「何をしているのですか。」

と話かけたら、

「用水路に送っている水量調整弁が詰まったので掃除をしているのですよ。この用水路が東の恩智川の下をくぐって畑中さんの自宅の西の方にいっているのですよ。」

「ああ、辻野さんから聞いたのは、この用水路のことなんだ。でも、どのあたりに続いているのだろう。」

その疑問が残っていたので、今日歩いたときに、住宅の中をたどってみました。

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まずは、玉串川の取り出し口の水量調整弁です。

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住宅の間を東に向かって流れます。まさに西から東に向かって流れています。

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南に方向転換して、道の暗渠の中を流れます。

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当然この川も東から西にながれているものと思い込んでいましたが、良く観察してみると、確かに西から東に流れています。

用水路3

神宮寺からの広い道で再び東に向かってながれて、ここで恩智川を山に向かってくぐります。

用水路2

恩智川をくぐったあとは、花畑の間を流れていきます。周辺の花畑の農家が利用しています。

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ここで、柵のところの北に流れる無名の川に注いでいるのかと思ったら、この川の下をくぐりさらに東へと向かって北に曲がる農業用水路となります。

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ここで再び東からながれてくる小川の下をくぐります。

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下をくぐった用水路の出口です。この小さな用水路は、柵のむこうの左手山側から恩智川に向かう無名の川から引き出していると思っていました。ところが、この用水路はその向こうの用水路から流れてきていたのです。

用水路11

これが最終です。それまでは、高低差だけで水を流してきましたが、ここで初めて電気を使って水を汲み上げ、ここでは数件の農家が利用しています。この柵は数年前、転落事故死があってから市と利用農家のみなさんに集まってもらってつくってもらったものですが、当時はこの水は東山からのものだと思い込んでいました。

 

恩智川(柏原市・八尾市・東大阪市・大東市)

恩智川はどこから始まり、どこまで続くか知っていますか?私は知りませんでした。大和川から流れてきていると思っている人も多いのではないでしょうか。

いとこのお孫さんの研究発表のために、いとこの夫婦が恩智川の源流から、寝屋川に合流するところまでお孫さんを連れていきました。おじいちゃん、おばあちゃんはやさしいですね。

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ここから上は車が通れなかったのでここまでですが、この上が源流だそうです。ぶどう畑が続きます。源泉は柏原市雁多尾畑の山中でしょうか。

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大東市でヌートリアがいたそうです。お孫さんは知っておられたそうです。

「あっ、ヌートリアだ。」

と叫ばれたそうです。ウィキペディアによりますと、

「ヌートリアは丈夫で育てやすく、柔らかい上質な毛皮が安価に入手できるため第2次世界大戦の頃には、軍隊の防寒服用として世界各国で飼育された。日本では1939年にフランスから150頭が輸入され、飼育が奨励された。このころは軍隊の「勝利」にかけて「沼狸」(しょうり)と呼ばれ、1944年ごろには、日本全国で4万頭が飼育されていた。」

ということです。ヘェー、第2次世界大戦の頃にはそんなことがあったのですね。

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恩智あたりから下流には、シラサギがいます。以前には、合鴨の家族連れがいて、町会回覧板で写真紹介したこともあります。

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写真は八尾市の福万寺町と、東大阪市の玉串町で第2寝屋川に分流するあたりでしょうか。亀もそこらじゅうで見ることができます。鯉の写真はありませんでしたが、大きな鯉の群れを恩智あたりから下流のそこらじゅうで見ることができます。一時に比べて、市の活動や住民の協力で、恩智川の水もかなりきれいになっているのですね。

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恩智川は学研都市線の住道駅付近で、寝屋川に合流します。寝屋川はその先都島区の片町で、大川(旧淀川)に合流します。、大川は中之島で堂島川、土佐堀川にわかれ、中央卸売市場の手前で合流して、安治川へと続き、弁天町で大阪湾に入ります。

恩智のもう1本の川、玉串川も東大阪市玉串町で第2寝屋川に合流し、第2寝屋川は都島区の片町で、寝屋川とともに大川(旧淀川)に合流します。二俣で玉串川と分流した長瀬川は近鉄長瀬駅の近くで近鉄線を横切って、学研都市線放出駅あたりで第2寝屋川と合流します。

教興寺・四天王寺と、斉藤ひとりさんの本

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聖徳太子が建立された教興寺と四天王寺の話を息子にしました。物部氏を滅ぼすことを祈念して建てた教興寺は何度も壊され、戦勝のお礼に人民の幸せを祈念して建てた四天王寺はずーと栄えたのは、人の思い(念)のためで、念は自分の体から始まり、相手に届く。相手に影響を与えると同時に、自分や、自分の周り(土地・建物も含める)にも影響する。

悪い思い(念)は人も自分も滅ぼし、いい思いは人も自分も栄えさせる。人はいい思いを続けるよう気をつけなければならない。そのような話をしたところ、斉藤ひとりさんの本の内容を紹介してくれました。

その本の中で、

出会う人一人一人に、「あなたに幸せが雪崩の如く訪れますように。」

と心の中で祈ることを教えていたといいます。

息子とこんな話をしたと家内に話すと、家内が斉藤ひとりさんの別の本を見せてくれました。最近斉藤ひとりさんの本は読んでいませんが、この内容もいつものとおり、シンプルで分かり易いものです。

「継続して、1日100回、「私は愛。私は光。」と唱えなさい。そうすれば運命はよくなりますよ。」

宇宙を作った神は、愛と光だから、被創造物のひとつである自分も、それを仲間とともに引き継いでいる。私は愛、私は光と唱えて仲間と接しなさいと教えておられます。

そう唱えて実行した人の体験談が書いてあります。斉藤ひとりさんは、健康サプリメントを売って、納税額日本一を何年も達成してきた人です。

斉藤ひとりさんは、あいかわらず、素晴らしいことを教えていらっしゃいますね。私の今の行に、斉藤ひとりさんの教えを取り入れて、さっそく実行してみることにしました。

大阪湾・大和川の付け替え工事・河内木綿

司馬遼太郎著「菜の花の沖」から大阪湾に付いて書かれたところを紹介します。

菜の花の沖

「大阪湾という海面は、大きく腕をまげたようにいく条の山地でかこまれている。

西にむかって開口しているものの、淡路島が西方の扉のように海にふたをしている。北は六甲山地、東は生駒山地、南は和泉山地がそれぞれの空を劃し、その大きな囲みのなかに無伊豆がたたえられている。水の通廊ともいうべき瀬戸内海の終着点としては、天功ともいうべき自然条件をそなえているといっていい。

この日本列島は農業のみで社会を成立させ、海を見ずに内陸のみの社会をもちつづけてきた歴史が長くつづいた。

12世紀になって、わずかに海にめざめた。平清盛が海外貿易で立国しようとし、その末期、この湾に目をつけ、福原に遷都を強行したが、平氏の没落とともにその構想は消えた。

16世紀になって、織田信長が、世界的な潮流であったいわゆる大公開時代の刺激をうけ、首都を内陸から港湾に臨ませようとし、大坂に目をつけた。当時すでに蓮如以来の本願寺が上町大地の石山にあったので、本願寺門跡に立ち退きをせまり、これを肯んじない本願寺とのあいだにいわゆる石山合戦がおこった。

信長は石山合戦の終息直後に横死した。その後継者秀吉が石山に大城郭をつくり、城下の低湿地を町割りして伏見、平野、堺から商人を読んで、ここを商業地にした。

立国上の政治的構想のもとに大商業地が設けられたのは日本史上最初といってよく、近世社会はこのときに成立したといってよい。米をはじめ、あらゆる重要な商品は津々浦々からいったんここにあつめられ、市がたてられ、値がきまって諸国へもどされていく。このために金銀の通貨も新鋳された。流通の日本的中心をつくったというのが、秀吉の天下統一のもっとも重要な主題だったといっていい。

徳川氏になってふたたび農業政権の色彩が濃くなったが、天下の台所として大坂がもっていた機能は、そのままでみとめられた。

ただ大坂は海港としてはよくなかった。

淀川が押し流してくる土砂は安治川尻、木津川尻の河口港の水深を浅くした。

豊臣期から徳川中期までは堺が大坂の外港の役をはたしていたが、宝永元年(1704年)大和川の流れを堺へおとす工事が完成して以来、港が浅くなり、大船を入れる能力をうしなった。

この点、六甲山系の下に入り江をつくっている兵庫は、流れ込む河川が小さいために水深が深い。平の清盛が目をつけて以来、鎌倉、室町期に海外航路用の港としてしだいに能力を高め、徳川期、堺港がさびれる以前にすでに大阪湾における唯一の遠国通いの大船をあつかう港市として大いに繁盛してきた。」

なるほど、河内木綿が、付け替えられた大和川の跡地の新田利用で一気に作付面積を増やすことができたのですが、輸送については、新しくできた大和川を利用することなく、狭い川の長瀬川を利用したのは、そのような事情だったのですね。

兵庫と大坂の間は小舟に積み替えられて安治川、木津川をのぼり、それぞれの商家の河岸に横付けされました。陸路に比べて海路は大量の商品を運べたので、輸送はこちらが中心になっていくのですね。