会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

月別アーカイブ: 2015年10月

八幡宮・比叡山延暦寺・高野山金剛峰寺

『神々の冒険』(梅原猛著)で八幡宮のことが書かれています。ざっと紹介します。

奈良時代の末期になると、また新しい神が登場する。それは八幡神である。宇佐八幡宮はあの三韓出兵に関係する応神天皇を祀るとされてきた。しかし、地方の神にすぎず、中央では全く無名であったが、それが突然に東大寺建設のときに登場するのである。国下第一の大きい寺は藤原氏の興福寺である。それより大きい天皇家の氏寺・東大寺を建てるのは藤原氏には願わしくなかった。

おそらくこのような大寺を立てるには、神々の承認を得ることが必要であろうが、藤原氏の祖先神である春日大社と仲の良い伊勢の大神は賛成しようとしなかったであろう。この時、藤原氏が藤原広嗣の乱という不祥事を起こす。このとき宇佐八幡宮は功名を立て、一品の神階を授けられた。これで、八幡宮は伊勢神宮と同じ国下第一の神の扱いを受けた。このとき、法隆寺の夢殿を作ったとされる僧行信(行基の弟子)が暗躍する。この結果東大寺の東、法華堂の南に手向山八幡宮があって、宇佐の八幡宮が祀られて、神仏の合体が行われた。

この八幡宮と東大寺の関係によって寺の中に公然と神社がつくられ、神仏はたいへん親しい関係になる。最澄のつくった比叡山延暦寺を根拠地とする天台宗、空海の作った高野山金剛峰寺を根拠地とする真言宗は、このような八幡神によってレールが敷かれた神仏の新しい関係のうえに立つ仏教なのである。

物部氏と蘇我氏の宗教戦争を起こした神仏がどうして、一緒に祀られているのか、これでなぞが解けました。小さな規模の社会では自然との関係が重要ですが、国家のように大きな社会には、キリスト教や、仏教のように人々に倫理を教える経典が必要になります。祈祷だけの神社と経典のある仏教が習合することで、律令国家としての日本が確立するのですね。明治に神仏分離が行われるまで、見えない存在に対する神道の祈りと、仏教による倫理で世界に羨望される国民つくりをすることができたのですね。

その後、八幡宮は弓矢八幡として、清和源氏をはじめ全国の武士に氏神として祀られました。こうして、その後の武家社会を支えるのですね。

河内源氏・羽曳野市壺井

私が小さいころは五条大橋で弁慶と牛若丸(源義経)が戦う話を絵本で読んだ記憶があります。大きくなって壇ノ浦で平氏を滅ぼします。いまはそのような絵本は見かけません。いずれにしても京都の話だと思っていました。

牛若丸は源頼朝の弟です。頼朝は河内源氏源義朝の三男です。

私の定休日は水曜日なのですが、会社に定休日がなく、いつものように午前中は仕事をして、夕方までの時間をブログ取材にとっていましたが、先方の都合がつかず、空き時間となりました。

前から同級生で歴史に詳しい大畑君に近くの史跡につれていってくれるようにお願いしていたので、2時間で行って帰ってこれるところということで案内してもらいました。それが河内源氏で羽曳野市壺井にありました。近鉄国分駅の西側を通り、駒ヶ谷の駅を超えて石川で左折して石川沿いを太子の交差点に向かって走りました。大師方面の仕出し料理の配達で美家古が絶えず走る道です。その途中の左に壺井八幡宮がありました。

鎌倉幕府の創始者源頼朝は、八幡太郎源義家の4代の孫です。室町将軍足利氏、さらに徳川将軍家も義家の流れだそうです。この義家公の祖父頼信公が壺井に館を構えたのが1020年で、河内源氏の祖となったそうです。この流れが鎌倉時代から江戸時代の武家政治を支えてきたのですね。

楠木壺井八幡宮壺井八幡宮

境内には樹齢1000年と書かれた楠木がありました。社に手を合わせたら、熱いものが答えてくれました。

 

 

 

司馬遼太郎『菜の花の沖』願望実現の法則

『菜の花の沖』(司馬遼太郎著)。この本は、萩原さんに勧められて読みました。

「河内木綿が全国にどのようにして運ばれたのでしょうか。」という質問に対して、この本を紹介していただきました。当時の海運事情がよくわかりましたが同時に肥料のことも分かりました。司馬遼太郎は次のように書いています。

「国産木綿は江戸初期からひろまる。これを畑物としてつくるには大量の動物性肥料が要った。最初は鰯のほしかであったが、江戸中期以降、蝦夷地の鰊が登場してこれを肥料にするようになって、綿の採れる量が増えた。これによって全国の士庶が、いままでの繊維とは全くちがった保温性と耐用力を持った衣料を身に着けることができるようになり、強い言い方をすれば「木綿以前」とくらべて日本文化が大きく変わったといっていい。」

しかし、予期しなかったことですが、この本には、人の運命というものが描かれています。まだ、3冊目を読んでいるところですが、2冊目で主人公の嘉兵衛は、松右衛門に出会います。

松右衛門は、沖船頭をしていたが、松右衛門帆という帆の大発明をしてたくさん売ったので、自分の船を持つ「持船」になりました。千石という船1艘の建造費には2千両という大金が必要でした。2千両という金額はそれだけの現金を持っているだけで富商と呼ばれるくらいの額です。

松右衛門は嘉兵衛に、沖船頭をやめて持船になれとすすめます。木綿と鰊、それを運ぶのが北前舟である以上、舟はいくらあっても足るということはなく、荷はどれほど多くても売れぬということはない。男なら松前舟を動かすべきだとけしかけます。

「わしには、資金がありません。」という嘉兵衛のことばを無視して、持船の身になればぜひ松前・蝦夷地へゆけといいます。

「男であれば北前船を動かすべきだ。」と松右衛門はくりかえしていいます。「しかし、私には船をつくる資金がございませぬ。」

松右衛門は、「ないないというのがお前の念佛か。さきに一度聞いた。一度ならず2度もいうのはお前は馬鹿かと笑いながら毒づいた。

嘉兵衛は、最初は鰹で儲けようとして、弟たちに話すが、弟は、年20両儲けても100年かかるといいます。これに対して、嘉兵衛は、

「志あるものは事ついに成る。ひっこみ事案になることはあるまい、潮の勢いというものがあるのだ」と答えている。

弟たちは、これに対して

「兄やんが何をやろうとついていきます。」と答えます。

そのうち、松右衛門に新宮から江戸へ500年ものの檜を運ぶ仕事を紹介し、これを筏方式でやり遂げて一躍有名になる。そのとき、悪運続きの薬師丸が破船して、持ち主がその呪われた船に嫌気がさして、処分しようとするのを、北風荘右衛門が10両で買い取って船頭の嘉兵衛に与えた。さらに北風荘右衛門の手紙を受け取った那珂湊の浜屋清右衛門の若旦那千七は嘉兵衛を見込んで150両の大金をかけて修理して引き渡した。そのうちのいくらかは薬師丸を使ってした仕事で返した。

このあと、薬師丸で、出雲で大しけに合い、何とか船と命だけは助かる。弟たちがやはり呪われた船かというと、嘉兵衛は

「いや、幸運の船だ。この中で、舵も何も壊れることなく無事に港に戻れたのは、幸運の船だということだ。」という。ここで、大きく動き出す運命が感じられます。

この小さな船でもかなりの稼ぎが得られて、さまざまな追い風が吹き、すぐに1500石船をつくることができました。願望というのは、頭で計算するような成就ではないのですね。縁が縁を生み、人の助けを得て成就するものなのですね。思いもかけない勉強をさせていただきました。萩原さん、いい本を紹介していただきまして、。ありがとうございます。

 

恩智のいちご・ぶどう・いも

河内木綿が外国からの安い木綿に圧されて衰退していったあと、新田にはいちごと芋が植えられました。あたり一面が苺畑で、「いちごえん」という地名で呼ばれていた地域がありました。

いちごは兵庫県鳴尾(?私はこの地域がよく分かりません)か恩智のみという時代だったそうです。恩智まで近鉄線がくるようになって、恩智は大阪からのイチゴ狩りのお客さんでにぎわっていたそうです。木綿の栽培から引き継いだ鰊の肥料が甘いイチゴを提供できるようになったのでしょう。

小学校の北にジャム工場があったそうです。そこでは商品にならない小粒のイチゴがジャムにつくられたそうです。私より10歳くらい上の人が子供の頃、小学校の横にあったのでよく、そのイチゴをもらって食べたと話してくださいました。

戦時中に砂糖が入手できなかったときにサトウキビをつくって、ジャムの砂糖にしたそうです。私が小学生のころ、まだ畑にはさとうきびがありました。幼いころに私はそのさとうきびと間違えてすすきを口にくわえて倒れて喉をつくという事故に見舞われたそうです。

40日芋という芋の生産地でもありました。この話をすると、山野さんは、おじいさんが旅行にいっては新しい品種を持ち帰り、地元の人に教えてひろめたそうです。大和川の跡地につくった新田は、砂地であったために他の農村のように米をつくることができなかった。そのために、農村でありながら、商売に結び付いて豊かになったのですね。

また山の畑では、となり駒ヶ岳や、柏原のブドウ畑が北の端として恩智までブドウ畑が出来ていました。ブドウ狩りもさかんで、ナイターのブドウ狩りもあったそうです。やはり、鰊の肥料が使われていたのでしょうか、私の記憶にあるのは、甘いデラぶどうでした。本ぶどうと呼ばれていたのはあまりおいしくなかったと、柏原市平野のご親戚の源氏のぶどう畑で食べた玉祖神社の清水宮司さんがおっしゃっていました。

このぶどうをお酒にして販売していたのが、神田屋さんや、坂野さんだったのですね。

 

日本の古代・稲作社会・古墳

萩原さんが紹介してくださった司馬遼太郎の『菜の花の沖』は、歴史にうとい私に歴史をわかりやすく説明してくれるという意味で、ぴったりの本でした。いま第3巻を読み始めています。稲作社会が出来ていくのと、鉄器の利用の様子を説明してくれています。

「紀元前300年か、もしくはそれより古く、海のかなたから稲とその作り方がつたわって、稲作を中心とする小社会が各地にできた。3~4世紀に鉄器がつたわり、まだ短冊形の鉄の薄板を輸入にたよる段階ではあったとはいえ、この金属が、田作りのための灌漑や水はけの土木をすることに大いに役立った。むろん耕作用の農具としても役立ったが、当時、重い木鍬(くわ)をつかって地に打ち込み、土をひっくり返すというのがふつうで、鉄鍬(くわ)がゆきわたるまでにはいたらない。

やがて5世紀前後、鉄が日本の中でつくられるようになって、土木用、耕作用の鉄器がふえ、土を掘ることが容易になった。これによって古墳が爆発的に築造されるようになる。当然、この築山の増加は鉄器の普及、稲作面積のひろがりとかさなっている。

この時期まで、鉄器の独占者は、大古墳の被葬者でもある小地域の首長であった。稲作面積がふえるにつれて、小地域の社会が大地域の社会としてひろがってゆく。

それがブロック的な大地域になり、その権力の核が、九州、近畿、日本海岸、あるいはアズマ(現在の岐阜県以東)というふうにわかれ、さらに統一されてヤマト政権が成立する。統一は早く見て4~5世紀かと思われる。

6世紀後半には仏教を入れ、それをもって統一がための1原理とし、あわせて広域行政をおこなうための漢字文化を朝鮮経由で入れ始め、7世紀に中国式の律令国家をつくり、「日本国」が成立する。」

南北にのびる生駒山脈の西斜面はいたるところに古墳があります。大きく分けると、八尾市の高安千塚と柏原市の平尾山千塚です。1000ほどあるから千塚というのですが、八尾市では地名として、千塚が残っています。柏原市の平尾山千塚は雁多尾畑古墳群を含めると1500基にもなるそうです。

いずれもこの時代の河内の渡来系集団の残した古墳群です。高安千塚が物部氏支配の、平尾山千塚が蘇我氏が支配した渡来系集団のものだったようです。東漢氏をはじめ多くの渡来系集団を配下に従えて蘇我氏が急速に台頭できたのです。『国史跡指定記念シンポジウム資料集やおの歴史資産高安千塚を語る』参照。

古墳はいたるところにあって、恩智でもぶどう畑にあったのは浮浪者が昔住んでいてそれが残っていると判断して、中の骨は無縁墓地に持っていき、古墳はこわしてしまったそうです。私も山道の横でみたのは、防空壕の後だと判断していました。いまはもう見かけませんので壊されたのでしょう。千塚で多く残っているのは、植木畑として利用されていて、とくに邪魔にならなかったからでしょう。それと、明治初期に外国人が調査を行って、それが古墳という貴重な遺跡であると認識されたことも大きいと思われます。

 

 

 

 

 

江戸時代から大正時代の恩智の産業

昭和の中ごろまであった恩智の産業は河内木綿関連でした。萩原工場は100人以上の人が働いていたといいます。萩原さんの番頭さんが独立したという中村工場もありました。早川工場は柔道着で、ここも多くの人が働いていました。戦時中は軍隊から大量の注文がはいり、大臣とも打ち合わせするほどの盛況ぶりだったといいます。

馬車屋という屋号で呼ばれている畑中さんに会って話を聞かせていただきました。明治・大正時代の話でしょうか。恩智では「東の大東、西の馬車屋」といわれた馬車屋全盛時代があったそうです。大東さんは土地で大きくなり、馬車屋さんは事業で大きくなったといいます。

国鉄八尾停車場ができて、恩智の衆議院議員、乾亀松さんの働きで国鉄八尾停車場まで恩智道が整備されたとき、畑中さんは、八尾駅、恩智、瓢箪山を結ぶ乗合馬車を運営されたので、馬車屋と呼ばれたようです。

馬車屋さんはその前に布団の綿を取り扱う仕事をされていたようです。一時巨富を築かれたのは、このおかげだったと思われます。

江戸時代に大和川の付け替え工事が行われて、その跡地が新田になった。新田は砂地で稲作には向かず、当時、需要が急に高まった木綿のための綿の栽培に新しいぼう大な土地を利用することができた。

江戸幕府は江戸という新しい土地に幕府を開いたものだから、周辺に生活必需品を供給する地域を持たなかった。したがって、それは上方から運ぶしかなかったが、当初は陸の運送だったが、少量しか運べない。そこに、大阪湾を利用した大量の運送が可能な船便が生まれた。上方から生活必需品がどんどん船によって運ばれた。河内から大坂湾へは、長瀬川などの川が利用された。

そのひとつが木綿であった。やがて、船が蝦夷地までいけるようになって、蝦夷地からは鰊という良質な肥料が大坂に持ち込まれ、綿の栽培に用いられるようになると、河川あとの広大な新田をさらに3倍の生産力に変えた。こうして、急激に木綿産業は河内を潤した。河内木綿は高品質で全国で大きな需要を生んだ。司馬遼太郎は、『菜の花の沖』で、

それまで麻などの植物の繊維でようやく寒さをふせいできた日本人が、木綿の普及により、命をまもる上でどれほどたすけられたか計り知れない。」

と書いています。

こうした時代背景が工場制手工業を生み、明治時代になるまで河内を潤しました。恩智もこうして豊かな村になり、事業家も生んだようです。長瀬川の周辺にはほかにもこうした事業家があったと思われます。

 

河内・日本民族の原点・混血民族

『神々の冒険』(梅原猛著)から紹介させていただきます。

「国つ神が支配している葦原の中つ国の天つ神が侵入する。そのときに当然、戦いが起こる。しかしながら、それが最後に仲良くやっていけるというのは、男女のセックスの力なんです。(中略)

まあ、そういうことで土地の女を娶らなければならない。河内での戦いを終えて、神武天皇が大和にきて娶ったのは、ホトタタライススキヒメ。ホトというのは、女陰。「タタラ」というのはよく踏んでいるというので、露骨にセックスをあらわす名前です。

河内に残る弥生、縄文の歴史。国つ神というのは、縄文人のことです。そこに渡来系の弥生人・天つ神が入ってきて、縄文人と戦って勝利し、支配する。これが弥生時代、縄文時代の日本の歴史です。記紀の神話はこれを示しているものと思われます。

猿田彦と天の鈿女という男女のセックスをあらわす神がいます。猿田彦というのは、八ちまた、すなわち分岐点の神です。性的な結びつきが新しい縁(分岐点での選択)をつくり、戦いを円満に終息する役割も果たしたのですね。

もっとも、蘇我氏が物部氏をほろぼしたときのように、蘇我氏が天皇家と強い血縁関係(性的むすびつき)をもったために、戦争を起こして物部氏を滅ぼすという縁、動きになることもあります。いずれにしても、性はつよい縁をつくるという法則がわかります。「身内」というつながりもそういうことなのですね。

 

恩智神社拝殿改修工事・玉祖神社薪能・地元の歴史・親

恩智神社歩み

いとこから、「恩智神社大造営までの歩み」という拝殿改修工事落成記念誌を借りました。

須磨の妹が持っていて、近所の人も持っていて、私の手元にない不思議な現象ですが、ブログ「河内の翁」のためにいとこが貸してくれました。

お父さんから引き継ぎ宮司さんになられて、15年ほど前に恩智神社の拝殿改修工事が行われてから、恩智神社は年々多くの参拝客でにぎわうようになっています。

玉祖神社も清水宮司に変わられて、3年ほど前から神社が整備され、東大阪市の横小路から、神社の境内の掃除奉仕をする人が現れるなど、大きく変わってきています。昨年から八尾市の3年のプロジェクト「薪能」も境内にあふれるほどの人が集まっていました。

薪能

恩智からの人たちもいました。

2年ほど前から、恩智のこの地から新しい時代が始まるといって恩智在住の小薗さんのところに集まってきた人たちの中に淡路島の人までいたのには驚きました。

この河内の山手から、近い将来、何かが起きる気はします。

畑中由男DSC_0211

平成6年に創設が決まった恩智神社運営委員会の第1回目のメンバーに父、畑中由雄が企画部長として出ているのを見て、新海宮司が父の神式葬式のあと、相談があるときもないときも、たびたび父に会いにきていたとおっしゃった話が理解できました。親子であっても親のことをほとんど知らなかったのですね。いとこの奥さんも、亡きお母さんのことを村の役を引き継いだ後で、親が行ってきた尊い行いを知ったと感動していました。

同居していた親のことですら、そのような状態なのです。ました、地元の村で起こったことを知らないままで終わってしまうことなど当たり前です。

私も河内の歴史を紹介してはじめて地元の歴史を少し知り、父母の足跡を知り、自分の行く道を確認することができました。

恩智神社の歴史(『恩智神社大造営までのあゆみ』より)

『恩智神社大造営までのあゆみ』を読んで、恩智神社の歴史の概略を紹介します。

恩智神社の創建は、大和時代と伝えられている。主祭神、大御食津彦命、大御食津姫命は、天児屋根命の5世の孫で、中臣氏、藤原氏の遠祖にあたる。

大和時代、神功皇后の三韓征伐の際、恩智神社と住吉大社の神が現れて、大功があったとして、七郷(高安・南高安の全域)を賜っています。しかし、先に紹介した蘇我氏と物部氏の戦いで、587年大豪族物部氏が滅びたことで、庇護を失った恩智神社は、壊滅状態になったが、大化の改新で実権を握った中臣氏(後の藤原氏)の庇護を受けて復興される。

しかし、強い庇護がないまま、先に紹介したにわとりの話のように、御野県主が周防国から招致した神立の玉祖神社に7郷の内6郷までとられてしまって、氏子は恩智郷のみとなる。

757年、藤原氏により恩智神社が再興される。常陸の国(茨城県)から、春日部大明神が遷座したときに、お供としてきた大東家の先祖が神職を務めることになって、恩智神社は再興される。

10世紀の中ごろ、村上天皇の発願により、「翁の舞楽」が奉納されて、以降、毎年11月、卯の日、亥の刻に行われるようになった。

鎌倉時代、1331年元弘の変が起き、恩智左近は恩智河原での合戦を予測し、城から神社を見下ろすということは恐れ多いということもあり、神社を天王の森から恩智城より上の現在の青谷原に移した。

南北朝の合一のとき(1392年)、「猿楽能(能楽)が流行した。春日大社の猿楽の舞は恩智神社より出向いていって、明治維新まで続いた。

戦国時代に織田信長が河内を平定したときに、恩智神社は焼失してしまう。

江戸時代に村人によって再建され、明治元年(1868年)、天川山の奥宮(天川大明神)、春日辺大明神を末社として祭祀した。

現在、氏子は恩智・神宮寺だけであるのに、15年前の不況の真っただ中で、2億円の改修費用を集め、その夏祭りは天皇の森、神社の階段の両脇にぎっしりと見物客を集めるほど盛大になり、元旦は参拝客が、夜中に階段の下のほうまで列をなすほど、恩智神社は今大盛況を迎えています。

発生の頃は、8つの指に入るほどの主たる神社として、天皇の行幸もたびたびというほどの華々しい姿をしながら、その後、何度も壊滅の危機を乗り越え、今日の姿があります。消えてしまった神社も多数ある中でその苦しい時代をなんとか乗り越えた恩智の人々の存在に心打つものを感じます。

 

 

八尾市恩智・弘法大師の井戸と井戸ろ

文能さん(78歳)に昔の話を聞かせてもらいました。以前に紹介した大きなへびの住む池の土手にあった井戸の話です。

巽とか乾という小路の呼び名は、恩智城を中心としてみた各小路の方角による呼び名であるということが分かっています。私の家は昔乾小路にありましたが、親戚の松倉を呼ぶのに、「たつみ」と呼んでいたのは、巽小路にあったからです。しかし、親戚の磯山を「いどろ」と呼ぶ意味が誰に聞いても分かりませんでした。

今日、文能さんに聞くと次のように教えてくださいました。

そのあたりは井戸を掘っても金気の水しか出ないので、砂や小石などでできた(恩智山でとれる麦飯石が使われていたのでしょう。)、ろ過装置を通して使っていたそうです。

それを聞いた弘法大師が西の端(はな)にある池の東南の岸に井戸を掘らせます。そこからはきれいな水が豊富に湧き出たそうです。弘法大師の水が恩智にもあったなんて初耳です。

文能さんも300メートルくらいある自宅から、担い棒の前後にタンゴをかけててそのきれいな水を運んだそうです。文能さんは力持ちだったから、1日2回ほど前後にタンゴを2つずつかけて運んだとおっしゃっています。自動車がない時代は大変だったのですね。

それは一般的には西の端(はな)の井戸と呼ばれていたそうです。恩智城の西の端になるからでしょうか。そこから、その西のあたりを井戸ろ(路でしょうか?それなら井戸に行く道という意味になりますね)と呼んだようです。私はその井戸を見た記憶がありません。もちろんその井戸は今はありません。池も住宅に変わっています。