会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

月別アーカイブ: 2016年2月

八尾の歴史

千塚にある八尾市立歴史民俗資料館に行ってきました。いただいたパンフに八尾の歴史が紹介されていました。そこには以下のような概略が書かれていました。

今から5500年ほど前の縄文時代、平野部はほとんどが海底であったので、人々は山麓部に住んでいました。その後、大和川の祖先である無数の河川から土砂が運ばれ、大阪湾が徐々に埋め立てられて、弥生時代にはいくつもの集落がつくられました。古墳時代になると、平野部や高安山で古墳がつくられました。4~5世紀の楽音寺・大竹古墳群、6~7世紀の高安古墳群は、その規模や数からも大阪府下を代表する古墳群です。(俊徳丸の話で古墳を紹介させていただきました。千塚や心合寺古墳はまだです。)

587年には、八尾付近を本拠とする物部氏と、聖徳太子・蘇我氏との戦いがあり、物部氏が滅ぼされました。(以前のブログで紹介させていただきました。)

765年には、八尾市弓削出身の僧道鏡が、称徳天皇の寵愛を受け、八尾に弓削行宮(西の京)を合叡しました。(先日のブログで紹介させていただきました。)

中世から近世にかけて復興された寺院がたくさんあります。(教興寺にある教興寺を紹介しました。)八尾には、寺内町があります。

また、八尾は河内木綿が全国的に有名です。大和川の付替え工事が新田をつくることになり、この綿つくりが一気に広まりました。(これも紹介させていただきました。)

近代の八尾の発展の基礎となったのは、鉄道敷設です。明治22年に大阪鉄道株式会社によって湊町ー柏原間の敷設工事が完成し、安中新田に八尾停車場がつくられました。(このとき、衆議院議員乾亀松が八尾駅と恩智を結ぶ恩智道をつけたことを紹介させていただきました。)この付近に近代工場が次々とつくられました。いまは、その工場が少なくなり、住宅地に変わっていっています。

こうしてみると、八尾の特徴的な歴史で、まだ全く紹介させていただいていないのは、寺内町の話ですね。

 

天変地変・仏教・天皇家・道鏡

金剛山の麓に葛城地方があり、ここでははるか縄文の時代からこの地に住まう葛城の山の神は、神託を下して人々を導き、天変地異の災厄をやわらげた。そんな神事を担ってきたのが賀茂一族でした。天皇家もこうした古神道の神事を政治に利用してきました。しかし、538年、仏教伝来とともに、その役目は仏教がとってかわろうとします。神道には教えがなく、経典に基ずく仏教の教えや仏教呪術のほうが統治には勝っていると感じられたのでしょう。

聖武天皇の頃、天変地異が相次いで起こり、天然痘、飢饉で大勢の人が死んでいきました。聖武天皇はそれを自分の責任と感じ、仏教に帰依することで民を守ろうとされました。聖徳太子のときには、一方的に仏教を導入することで、神道が弱まりましたが、この時代には聖武天皇が建てられた東大寺にも八幡宮が祀られるなど、神仏習合へという動きになっていきました。

聖武天皇から仏教を興隆するように託されて天皇の位についた孝謙天皇は、どのように仏教を興隆するのか、そして女帝ゆえに跡継ぎの子供がいないため次の天皇を誰にするのかという大きな課題をかかえていたのです。

昔から、天皇家は豪族の助けを得ながら、その豪族が天皇家を脅かさないよう配慮してきました。この時代は藤原家が天皇家を支えていました。

孝謙天皇が病気になられ、淳仁天皇に譲られたときに、道鏡が女帝の病気を治したことから、女帝の寵愛を受け、道鏡が藤原家の地位を脅かすことになります。これを危惧した藤原仲磨と淳仁天皇が兵を挙げようとしたために一掃されます。上皇は再び天皇(称徳)となります。

この結果、反対勢力がなくなった道鏡を法王という最高の位につけたとき、八幡宮神託事件が起きます。「道鏡を天皇にすれば、国は治まる。」というのです。聖武天皇からの2つの課題は一度に解決するように見えますが、天皇家の血統でないものが天皇になるなど許されることではありません。神託の真偽を明らかにするために、宇佐八幡宮に和気清麻呂をつかわしますが、こんどは「道鏡を排しなさい」という神託を持ち帰ります。これにも不審をもった称徳は清麻呂を問いただして嘘であることを確認します。

道鏡は次期天皇にしないと決めますが、仏教興隆のために、新年の拝謁式では道鏡を同格の席に並べて、河内の由義宮を西京として仏教の都をつくろうとします。769年10月30日、都をつくるための役所、河内職(しき)を置きます。しかし、翌年、8月4日天皇は亡くなられてうしろだてを失った道鏡は下野の国薬師寺別当として追放され、西京建設も中断してしまいます。

道鏡がこれほどの寵愛を受け、仏教の最高位を与えられたのは、俗世がうわさするような低次元の理由ではありません。当時、第一級の霊山、葛城山で賀茂一族の役小角(えんのおづぬ)系の修行を行って優れた呪力を身に着けていた。しかも、梵字も読むことができてあらゆる仏教典にも通じる稀なる僧侶であったからです。あまりにも偉大であったから、この人物を社会から消滅させるためには、ここまで落とす必要があったのでしょう。

以上、、『第13回恩智のむかし(称徳女帝と道鏡 その1)』『第14回恩智のむかし(称徳女帝と道鏡 その2)』(辻野和夫講師)、および、『密教の本』(増田秀光編集)など参考にして、わたしの偏見でまとめさせていただきました。

神社の知識(参拝の仕方)

一般に神社にお参りするときは、見よう見まねで手水で手を洗い、ひもを揺さぶって鈴をならし、お辞儀をして拍手をして、手を合わせ、御願い事をして、最後にまたお辞儀します。

では正式にはどうでしょうか。私が数人の宮司さんから教わった方法を紹介します。

まず、神社の結界である鳥居をくぐる前に1回おじぎをして鳥居をくぐります。

手水のところに行き、右手で杓をとり、水を入れて左手のたなごころにかけます。手を持ちかえて右手のたなごころにかけます。右手のたなごころに水を受けてその水で口をすすぎます。これは汚れた手を洗うためのものではなく、心身の穢れを清めるためのものです。

水の入った杓を杓を上にして立てて、そのしたたる水で柄を清めて次の人に穢れが行かないようにして元の位置に戻しておきます。手水が用意されていない神社では境内の砂を手にかけて穢れを清めます。

拝殿の前に行ったら、まず賽銭を入れて、綱を揺さぶって鈴を鳴らします。鈴の音でさらに穢れが除かれます。

2礼2拍手(出雲系では4拍手)します。このときは、胸を大きく開けて胸いっぱいに祭神を呼び込む気持ちで両手を左右共、大きく広げます。広げた手を合わせて拍手します。

祈願をします。「自分の役割が果たせますように精一杯頑張りますのでお守りください。」と、様々な祈願をします。日ごろのご加護のお礼だけでも構いません。(自分の身勝手な願い事は正当な神社では聞き届けてはもらえないと思われます。)

祈願が済んだら、1礼をします。

日常生活の中ではあまり意識しない、祭神と心を通わせる貴重な時間です。祭神はいまの恵まれた生活の基礎を作っていただいた、地域社会のご先祖です。常に感謝の心で接することが大切と思われます。

まず心が大切ですが、私達が人のお参りの姿を見て、真似してきたことを考えると、正式な参拝方法でお参りすることが必要なのかも知れませんね。

 

 

八尾市恩智・春日部大明神・奈良県田原本・多神社

同級生の大畑君が天川山・春日部大明神に関する資料を持ってきてくれました。

資料の中心は奈良県田原本の「多(オオ)神社(多坐弥志理都比古(オオニマスミシリツヒコ)神社)」でした。「多神社」は神武天皇の長子・八井耳命(ヤイミミノミコト)が弟に天皇の位(綏靖天皇)を譲って自分は「多神社」をつくって、天神地祇を祀ることにしたのです。弟に天皇の位を譲って自分は身を引いたことから「ミシリツヒコ」とも呼ばれる。、オホ(多)はイホであり、斎き祭るの意で、これは神八井耳命を指し、そのまま姓になった。その「多神社」に祀られている2神の神が河内国高安郡春日部に祀られている2神と同一であると、『多神宮注進状』に書かれてあるのです。

1つが八尾市恩智の天川山の春日部大明神と同じ神ではないかという推測があります。少なくとも、以前に紹介した天川山と数百メートル離れたところにある「天照大神高座神社」には、「多神社」の神と同じ神が祀られていることはウィキペディアの「多坐弥志理都比古神社」にあるリンクで分かっています。

2神とも同じ場所にあるとも考えられますし、「多神社」が「春日部神社」と称していたときもあることから、天川山春日部大明神がそれだともいえます。もちろん、1神がなんらかの事情で2箇所に祀られるケースも考えられ、両方とも正しいという可能性もあります。

明治元年に末社扱いとはいえ、恩智神社の中央に遷されて、恩智神社との関係で不思議な動きを感じます。

天川山も、高座神社もともに磐座を祀る古神道の古くから存在する神社だったとすれば、そこに「多神社」と同じ2神を祀ることにしたというのもうなずけます。神社というのは、時代がかわるとともに、まつりをした人が神になったり、その時代に勢力をもった豪族が自分の氏神を祀るようになるというようなことが行われるので、1神社では天皇の祖先神をまもりきれないという理由で、八井耳命(ヤイミミノミコト)が、河内の古社(磐座)に同じ祭神をもってきたのではないでしょうか。

八尾市恩智・天川山・春日部大明神

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過日、天川山(あまかわさん)・春日部大明神(かすかべだいみようじん)をめざして、山の中に入って場所がわからずに帰ってきて、あきらめていましたが、同級生の大畑君が何度も参拝している畑中さんと連絡を取って、昨日参拝が実現しました。

先日、立原池に行ったときに、上から見てあのあたりだろうと見当つけたところでした。その時、行くとしたらここからだろうが、斜面が急すぎると思ったまさにそこから降りたのです。帰りの登り道を歩数で数えたら200歩くらいでした。

一度下って、少しだけまた登りますと、そこに一番高くなっているところがあり、南側の断崖にむかって上が平らになった岩石があります。最初はこの岩石を拝む古神道だったのでしょうか。畑中さんが、修験者のお父さんとよく行かれた大峰山にも断崖のところにこんな岩石があって、その岩石の周りをまわらされるという話をされたので、私もこの石のまわりを回ってみました。

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気が付いたら、近くに木に黄色いテープがまいてあって、「天川山」と書かれていて、日付と名前の頭文字らしきものが書かれていました。1週間ほど前に来た人のもののようです。

 

恩智川の通い船・松原宿(馬子)・百姓

江戸時代、恩智川は、生駒山のいくつもの渓流と生活悪水を受けて、生駒山のネキ(すぐそば)を流れて深野池や新開池におちている。大和川の付替え工事のあと、両池とも埋め立てられて新田になった。恩智川は、現在は最終的には淀川に合流しているが、当時も大坂までつながっていたのだろうか。その水は農業に使われると同時に舟による運搬にも使われた。水の少ない時は年貢米をつくるための農業用水が、まず確保されて、舟による運搬は馬に変更させられた。

「一方、宿場は、「公用人馬の優先とその輸送に関しては、無賃あるいは一定の御定賃金でするのがきまりとされ、御定賃金は当初の額が固定された。江戸時代中期以降、物価の上昇に伴い一定の増銭をみたが、とうてい実情に合致するものではなかった。各宿場の疲弊は、時代が下がるにしたがい困窮の度を深めていった。」(中略)

「困窮の原因はいうまでもなく、御朱印(幕府の鑑札)あるいは証文による人馬提供を義務づけられていたことにあった。結局、宿駅としては、負担を一般旅行者に転嫁しようということになる。いわゆる民間の浜揚げ・持ち運びより稼銭を得ようとし、場合によっては、乱暴や妨害を働くのであった。」『東大阪市の歴史』(藤井直正著)

それに対して、百姓から庄屋を通して奉行に訴状が出されている。

「訴状を要約すると、往古からのしきたりで大石浜、三十六浜でおこなってきた百姓荷物の浜揚げ・運搬に対して、松原宿より馬子達がやってきて駄賃をむさぼり、百姓荷物に乱暴をはたらくので、そのような妨害を取り締まるよう仰せ付けください。というものである。ここでは省略するが、前年の文政13年(1830)にも百姓荷物の浜揚げについて紛糾している。前訴状の六万寺村ほか八カ村と、松原宿役人との間に「一札」が取り交わされている。

内容は、村々の浜揚げである百姓の肥料や自用の荷物に、馬子達が妨害しないこと、村々の商人の肥料・諸荷物については、宿方の馬荷として輸送すること。その旨は売買している商人に申し付ける。村々で牛仲司(牛による運搬人)をして賃銭を取るようなことはしないこと。以上の三か条であった。」『六万寺の歴史』

百姓たちの余裕のない生活の中から生じた争い。百姓は生かさず殺さずという幕府の圧税方針は、百姓同士の争いになっていったのですね。恩智川を利用する百姓たちのぎりぎりの生活状況が伝わってきます。

また、この訴状から、恩智川が舟での運送に利用されていたことが分かります。いまは輸送は車に代わってしまって、恩智川を舟が浮かぶ姿など見ることはありません。普段水量の少ない恩智川を舟が走っていたなどと想像することもできません。でも、その恩智川のおかげで百姓が使う肥料も手に入ったのですね。河内木綿に使われたいわしや、油粕、あるいは、優秀な北海道のニシンの肥やしも手に入り、優秀な木綿がつくられたのですね。玉串川や長瀬川の川沿いの木綿も川が肥料や製品の輸送に利用されていたのでしょう。

宿場・宿駅・駅伝

ウィキペディアによれば、

宿場(しゅくば)とは、主に江戸時代五街道脇往還において駅逓事務を取扱う為設定された町場をいう。宿駅ともいい、古代奈良時代平安時代から駅馬伝馬の制度によって整備されていった。また、宿場を中心に形成された町を宿場町(しゅくばまち)と呼ぶ。」

中国では律令制の施行に伴い、国内に官道を張り巡らせて各地の連絡を図った。これら官道の往来はもっぱら馬によるものであり、このために途中で馬に対する給餌や馬の乗り換えが必要となった。また急を要する手紙などを運ぶ場合、早馬によるリレー形式で繋いでいく方が効率的であり、それを行うには中継ぎの場が必須であった。また旅行者にとっても宿泊所や休息所がなければならない。これらの役割を果たすために駅伝制が導入され、が全国に設けられた。

日本でもこれに倣って古代律令制の成立と共に駅伝制が導入され、各国の連絡のために東海道山陽道などの官道を整備し、駅家)を各所に設けた。中国同様、駅は官道を騎乗で往来する人々に便宜を図ると共に、駅備え付けの駅馬によって早馬を走らせて手紙や荷物を運ぶ役割を果たした。大化の改新の際の大宝律令で重要事項として駅や駅に置くなどの規定に触れており、実際に延喜式では各駅に配置する馬の頭数が事細かに記されている。また陸上に限らず、渡し場である「水駅」も存在した。

これら駅伝制による「駅」の制度は平安時代末期の律令制の弛緩に伴い衰退し、「駅」という言葉自体も「宿」「宿場」などに取って代わられた。しかし制度思想そのものは後々まで引き継がれ、江戸時代に整備された五街道制度にも生かされている。 なお、リレー形式の長距離走を「駅伝」と呼ぶのは、駅(中継所)から駅までを伝えるという駅伝制にちなんでのことである。」

と説明されています。国を統一管理するためには、このような伝達システムが必要だったのですね。知りませんでした。もとは大陸の律令制を取り入れたときから始まったのですね。

 

河内にあった宿場町・東大阪市松原・松原宿

東海道・中仙道などでなじみの宿場町、それが河内にもあったのですね。いまは跡形も残っていないようです。

奈良街道というのは、東海道などのような参勤交代の大名が行き交うような幹線道路ではなかったのですが、大和郡山・大和小泉の藩主や、巡見役人の行き来や、伊勢参りの人々の利用もあったと『東大阪の歴史』(藤井直正著)に書いています。江戸時代にはずいぶん栄えたようです。

奈良街道は、暗がり峠の少し手前に弘法の清水があるので、弘法大師の時代、平安時代にはすでにあったようです。

「奈良街道は、暗峠から急な坂を一気に下り、豊浦村を過ぎ、箱殿で東高野街道と交叉し、さらに恩智川にかかる石橋を渡って町水走を通り抜けると松原である。ここが奈良街道唯一の宿場であった。」(中略)

「幕府は宿場に常置する人馬を補充するために、宿場に近い村々から農民を動員し、人馬継立の役目を負担させた。これを助郷といったが、松原宿の助郷として、豊浦、額田、水走、菱江の各村が定められ、場合によってはその他の村々にも及んだ。これらの村々では、自村として負わなければならない諸役のほか、奈良街道に公儀の通行あるときは助郷としての義務が加わるのであり、大きな負担となった。」『東大阪の歴史』(藤井直正著)

宿場町とは需要に応じて自然にできたものと思っていましたが、幕府がつくったのですね。参勤交代の制度は宿場町がなければ成立しませんから付随してつくられたのでしょうね。

「助郷とは近世において街道宿駅に常備している伝馬・人足が不足する場合、役所より指定されて応援の人馬を負担する近隣の郷村またはその課役のこと。課役には常任のものを常助郷、臨時に補うものを代助郷とか増助郷または加助郷といわれた。(中略)

将軍の移動については物量が多く、各街道宿場において、人馬の調達もかなりのものであったことが想像される。」

 

 

河内木綿・綿作・機織り・大和川の付替え

以前にも河内木綿と大和川の付替えの話を書きましたが、今回は、『東大阪の歴史』(藤井直正著)より紹介します。それにしても河内の様子をすっかり変えてしまうような大和川の付替えなどという大事業がよくできたものですね。河内地域の価値がいっぺんにあがり、この地域は特別に豊かになっていきます。河内木綿がその大きな現象でしょう。

「河内木綿の栽培がさらに広まったのは、宝永元年(1704)の大和川付替後のことである。それは付替によって不用となった川の流路が埋め立てられ、その川床が綿作に利用されたからである。綿は水はけのよい砂地が生育に適しており、川床の砂地と豊富な地下水は綿作に好適の条件であった。とくに河内は大坂という商業都市をひかえていたから、商品作物として最高の地位を得、全国一を誇る綿の生産地となったのである。(中略)綿つみから綿くり、さらに機織りに至るまで、すべての作業が農家の副業であった。収穫された綿は槌でうち、綿くり機(糸車)にかけて糸をつむぐ。これらの作業は女の人たちの夜なべの仕事であった。」

さらに、このころには千石船が大坂から北海道まで行くようになり、あっという間に木綿が麻のかわりに温かく日本人の体を包むよになりました。このタイミングの良さは人の考えでできるものではないし、川の付替えがわずか1年にも満たない期間で完成したというのも奇蹟というしかありません。見えない力の働きを強く感じます。

 

河内木綿・綿作・綿織物

『郷土史六萬寺』より紹介します。

「畿内の綿作は天正年間(1573~91)に大和国で始まり、やがて生駒・金剛山脈を越えて河内に入り、しだいに摂津・和泉へと伝播していったとされている。生駒山脈に位置する枚岡の村々の綿作はかなり早い時期から始まったとされる。近世初期には「勝布木綿(かちぬのもめん)」として知られている。」

ここで「勝布木綿」のことを説明しておきます。1615年大阪夏の陣で奈良街道と東高野街道のまじわる豊浦村の中村家が徳川家康の宿陣となった。家康が逗留した5月5日は節句であったので、当主中村四郎右衛門正教は、特産の河内木綿を「菖蒲木綿」として献上した。「菖蒲(しょうぶ)」は「勝布(しょうぶ)」につながるといって家康はことのほか喜んだという有名な話があります。(『東大阪の歴史』藤井直正著より参照)

(中略)

「元禄5年(1692)7月調の『六万寺村明細帳』には「女は作間(農事の合間)には、もめんを織り申し候」とあるのでこのころは作付だけではなく、すでに織物まで生産されていたことが判明する。」(中略)

「近世中期には木綿商いが定着してきたのか、宝暦5年(1755)の「山の根キ組」の定書によれば、在方の木綿仲買が組合を結成し、仲買株を設置している。」