会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

日別アーカイブ: 2016年2月5日

河内木綿・綿作・機織り・大和川の付替え

以前にも河内木綿と大和川の付替えの話を書きましたが、今回は、『東大阪の歴史』(藤井直正著)より紹介します。それにしても河内の様子をすっかり変えてしまうような大和川の付替えなどという大事業がよくできたものですね。河内地域の価値がいっぺんにあがり、この地域は特別に豊かになっていきます。河内木綿がその大きな現象でしょう。

「河内木綿の栽培がさらに広まったのは、宝永元年(1704)の大和川付替後のことである。それは付替によって不用となった川の流路が埋め立てられ、その川床が綿作に利用されたからである。綿は水はけのよい砂地が生育に適しており、川床の砂地と豊富な地下水は綿作に好適の条件であった。とくに河内は大坂という商業都市をひかえていたから、商品作物として最高の地位を得、全国一を誇る綿の生産地となったのである。(中略)綿つみから綿くり、さらに機織りに至るまで、すべての作業が農家の副業であった。収穫された綿は槌でうち、綿くり機(糸車)にかけて糸をつむぐ。これらの作業は女の人たちの夜なべの仕事であった。」

さらに、このころには千石船が大坂から北海道まで行くようになり、あっという間に木綿が麻のかわりに温かく日本人の体を包むよになりました。このタイミングの良さは人の考えでできるものではないし、川の付替えがわずか1年にも満たない期間で完成したというのも奇蹟というしかありません。見えない力の働きを強く感じます。

 

河内木綿・綿作・綿織物

『郷土史六萬寺』より紹介します。

「畿内の綿作は天正年間(1573~91)に大和国で始まり、やがて生駒・金剛山脈を越えて河内に入り、しだいに摂津・和泉へと伝播していったとされている。生駒山脈に位置する枚岡の村々の綿作はかなり早い時期から始まったとされる。近世初期には「勝布木綿(かちぬのもめん)」として知られている。」

ここで「勝布木綿」のことを説明しておきます。1615年大阪夏の陣で奈良街道と東高野街道のまじわる豊浦村の中村家が徳川家康の宿陣となった。家康が逗留した5月5日は節句であったので、当主中村四郎右衛門正教は、特産の河内木綿を「菖蒲木綿」として献上した。「菖蒲(しょうぶ)」は「勝布(しょうぶ)」につながるといって家康はことのほか喜んだという有名な話があります。(『東大阪の歴史』藤井直正著より参照)

(中略)

「元禄5年(1692)7月調の『六万寺村明細帳』には「女は作間(農事の合間)には、もめんを織り申し候」とあるのでこのころは作付だけではなく、すでに織物まで生産されていたことが判明する。」(中略)

「近世中期には木綿商いが定着してきたのか、宝暦5年(1755)の「山の根キ組」の定書によれば、在方の木綿仲買が組合を結成し、仲買株を設置している。」