会長ブログ | 大阪府八尾市の美家古

月別アーカイブ: 2016年9月

竹内文書(たけうちもんじょ)(4)天神七代

(つづき)『闇の日本史 古史古伝書』(佐治芳彦著)

「七代は二期にわかれている。

第1期は天御光太陽貴王日大光日大神(あめのみひかりおおひなかきおおてるひのおおかみ)・天日御光ミトノ比女大神(あめひみひかりみとのひめのおおかみ)だが、この代に皇孫の地球降臨が決定された。

なお、地球降誕以前に神々が住んでいた天体は「天日国(あめひのくに)といわれるが、この星は南米のインディオの伝説などから地球より410光年離れたプレアデス星団かともいわれている。

第2期は、天御光太陰貴王女大神(あめのみひかりおおいんなかきおおひめのおおかみ)と天日身光ホド男大神(あめひみひかりほどおのおおかみ)であるが、この代に皇太子の天日豊元葦牙気皇主身光大神(あめひのもとあしかびきみひかりのおおかみ)が諸神を従えて天元根国(あめのもとねのくに)(地球)の天声根の国(日本)に降誕され、上古初代一世天皇となられた。」

「昴(すばる)」で親しまれているあのプレアデスから皇孫が地球にやってきたと書いてあるわけで、何かで読んだことがある内容です。地上の人が魅力的だったので、それに降誕したという話だったように思います。多分、旧約聖書でしょう。大勢だったように記憶しています。知る由もない遠い昔のことですが、それが日本だったという話なら、日本人としては、何かいま役割を与えられているような気がします。

竹内文書(たけうちもんじょ)(3)天神七代

(つづき)『闇の日本史 古史古伝書』(佐治芳彦著)

「五代神は天一天柱主大神(あめはじめはしらぬしのおおかみ)・天一美柱主大神(あめはじめみどはしらぬしのおおかみ)である。この五代神のとき、それまでの「土(どろ)の海」が石に固まって星が生まれた。

五代神はこれを「地美(ちみ)」と命名した。これが地球の最初の名とされている。なお、この地球の修理固成を担当した天一美柱主大神(あめはじめみどはしらぬしのおおかみ)は、旧約聖書の創造神エホバの一神格とされている。

なお、地球の修理固成に要した時間は160億万歳、そして260億万歳で「天一柱主大神(あめはじめはしらぬしのおおかみ)の国」をつくり、さらに、180億万歳を経て国万造主大神(くによろずつくりぬしのおおかみ)らを生んだ。

六代神は、この国万造主大神(くによろずつくりぬしのおおかみ)と地美(地球)で生まれた?国万造美神(くによろずつくりみのかみ)である。この神々が地球公転・自転運動のルールをつくり、暦日(1年360日)を定めた。その間「地球数百たび土(どろ)の海となり、岩石の角丸くなる」とある。」

年ではなく歳という表現は何を意味するのだろう。また、何百億万という、そのような途方もない時間経過をどのように把握することができたのでしょう。また誰がどのようにして伝達したのか。

(つづく)

竹内文書(たけうちもんじょ)(2)天神七代

引き続き、『闇の日本史 古史古伝書』(佐治芳彦著)より紹介します。

「天と地がまだわかれず、鶏の卵のようだった。その天地を生んだのが元無極躰主王大御神(もとふみくらいぬしのおおみかみ)である。なおこの神は天地身一大神(あめつちまひとつのおおかみ)、神随南無天地人(かむながらなむあもん)とも呼び、略して元無極(なんも)とも称する。

この神は原宇宙の創造神であり、同時に原宇宙そのものであった。そして、神道だけではなく、仏教、ユダヤ=キリスト教、イスラム教など世界の大宗教の主神である。

二代神は中未分主大神(なかなしわかれぬしのおおかみ)・中未分主美大神(なかなしわかれぬしのみのおおかみ)。二代神は、原宇宙から現宇宙への進化をコントロールした。

三代神は天地分主大神(あめつちわかれぬしのおおかみ)・天地分主ミド美大神(あめつちわかれぬしのみどみのおおかみ)。この三代神のとき天地剖判(ぼうはん)(分離)が行われ、現在の宇宙がほぼできあがった。そのとき大空のなかから「清き者、煙のなかより」生じ、男女二神(四代神)となった。

四代神は天地分大底主大神(あめつちわかれしおおそこぬしのおおかみ)・天地分大底主女神(あめつちわかれしおおそこみどのおおかみ)である。各種天体のなかでようやく個体をとるものができはじめた。」

古代から続く「かむながら」という生き方が創造神の名前にあったとは驚きです。「なむあもん」も、「南無阿弥陀仏」と似ていて不思議な感じがします。

(つづく)

竹内文書(たけうちもんじょ)(1)

竹内宿祢(すくね)の66代の孫とする竹内巨麿(きよまろ)が1928年に公開した『竹内文書(たけうちもんじょ)』という古文書があります。『記紀』に記された歴史に疑問を感じたり、物足りなさを感じた人にとって、驚愕を覚える書です。天津教という宗教の経典として使用され、その後書き加えられたので、そのまま受け入れることはできないがインドに伝わる超古代と似ていることが多々あるので興味深いものです。

『闇の日本史 古史古伝書』(佐治芳彦著)より紹介します。

「古代の天皇は、銀河の彼方から、「天浮船」に載ってこの地球、日本の飛騨立山に降臨した。そして、地球原住民の遺伝子を操作し、「五色人(ごいろひと)」をつくったという。

また、皇子、皇女を世界各地に「民王(ミットソン)」として派遣し、統治させ、各国の文明化を推進させた。

やがて、モーゼ・釈迦・老子・孔子・キリスト・マホメッドらもつぎつぎと来日し、日本の皇祖皇大神宮で学んで帰国したのちは、それぞれの方法論で人々を教化したという。」

『記紀』とともにどこまでが真実であるかわからないものがありますが、腑に落ちる部分もあります。

「上古代第一代一世天皇が『神定』によって神々の故郷である銀河系の一角から地球に降誕したとある。そして、空飛ぶ円盤を思わせる天浮船を自在に駆使して地球を駆けめぐり、原住民と協力して超古代文明を建設した人類の黄金時代ともいうべき上古25代と、「万国土(どろ)の海となる」大異変や、戦争による文明の崩壊、それを再建した鵜草葦不合(うがやふきあえず)73代と、やはり大異変(ムーやアトランティスを思わせるミヨイ・タミアラの海没)によって崩壊した銀の時代ともいうべき第2期超古代文明。そして長い空位期を経て人類文明の再建に乗り出した神倭(かんやまと)朝(現代に続く)までが抑制された筆致(ひっち)で記されている。」

 

平安時代の河内・坂上田村麻呂

『八尾から見た日本の歴史』(八尾市教育委員会教育相談所編)から紹介します。

「渡来系の百済王家の子孫を母に持つ桓武天皇は、争いにあけくれ、仏教勢力が政治にも進出するようになった平城京に決別するため、784年、山城の国の長岡に都をつくりました。」

仏教勢力が政治にも進出というのは道鏡のことです。いま、外環沿いのかつての弓削の宮あとで大掛かりな採掘が行われていて、都の建物に使われる瓦が大量に出てきました。孝謙天皇が亡くなってしまったので弓削の宮は実現しませんでしたが、京(みやこ)建設はかなりできあがっていたようです。

「平安初期の天皇の権力はしっかりしていて、律令政治の立て直し、東北地方の支配にも力をそそぎ、9世紀ごろにはほぼその抵抗を抑えました。征夷大将軍として派遣された坂上田村麻呂という人物は八尾の豪族であった高安氏の一族という言い伝えもあります。」

坂上田村麻呂は黄金のひげを持ち、身の丈176cmの大男で、赤ら顔と伝えられています。西洋人の姿です。高安郡というのは、中国渡来の民で阿智使主(あちのおみ)一族(高安氏)が住んでいた地域で、いまも高安姓が多いのですが、全国的には恩智に集中しためずらしい名前のようです。高安家はいまの基準で美男美女が多いのは西洋の遺伝子によるものでしょう。坂上田村麻呂は、行動は機に応じて機敏で、怒って眼をめぐらせば猛獣もたちまち死ぬほどだが、笑って眉をゆるめれば稚児もすぐ懐に入るようであったらしい。

「都が奈良から京都に移ることによって、河内のにぎわいも大和川流域の八尾周辺から、淀川流域の枚方・交野周辺へと移っていき、八尾は日本の政治の舞台から、おりてしまうことになりました。」

都つくりの責任者、藤原種継が暗殺されて、平安を求めて都は現在の京都の地に移されました(平安京)。淀川が都と各地の流通を助けて京の都はますます栄えていきます。その流域の北河内もこれを機に、どんどん栄えていったようです。

奈良時代の農民

大和を支えた河内の農民は平安京ができるまでの間、どのような暮らしをしていたのでしょう。『日本生活文化史3日本的生活の基点平安・鎌倉』には次のように記載されています。

「一般には9世紀後半ごろには、竪穴式住居を脱した。すなわち畿内では、すでに6世紀後半~7世紀ごろから、竪穴式住居ではなく掘立柱の家屋がたてられるようになっていたが、この時代には、しだいに畿内の諸地方にも掘立柱・切妻の屋根の家屋がふえていったのである。(中略)

竪穴住居ではなくなっても、板壁はほとんど使わず壁を塗りこめ窓もなかった。(中略)土間には炉がきられていたが、灯火のなかった一般庶民には夜の生活はなく、家屋はだだ雨露をしのぎ、寝るだけの場所であった。平安時代末から鎌倉時代になると、2間×2間ぐらいの方形住居のほかに、3間×3間の方形や3間×4間の矩形の平面を持つ家屋がふえていった。しかし、生活具としては、食器用の土器や水がめなどのほかはほとんどなかった。庶民の家には風呂などももちろんなかった。便所などは「川屋」などといわれたようじ川に垂れ流したことが多かったが、鎌倉時代になると人糞尿を肥料にも使い始めたので、貯蔵式のものもうまれはじめたであろうと考えられている。」

『八尾から見た日本の歴史』(八尾市教育委員会教育相談所編)に『万葉集』「貧窮問答歌」(山上憶良)から一部要約として次のような農民の生活の歌が紹介されている。

「天地は広いというが、わたしには狭くなったのか。日月は明るいというが、わたしには照ってくださらぬのか。だれにもか、わたしにだけそうなのか。人間に生まれ、人並みに耕しているのに、綿もなく敗れたぼろを肩にかけ、つぶれかかった家の中に地べたにわらをしき、父母はまくらの方に、妻子は足の方にいてなげき悲しむ。かまどには火の気がなく、飯をむすこしきにはくもが巣をかけている。そこへ、むちを持った里長(さとおさ)が戸口で税を出せとどなりたてる。こんなにもしかたがないものか。この世に生きるとは。」

私たちは、歴史学習で華やかな平城京しか見ていませんでしたが、それを支えていた農民はこれに近いような生活を強いられていたようです。その後も少しずつ良くなっていきますが、いまのような生活になるのは、つい最近の1947年から50年にかけて行われた農地改革の後なのでしょうか。そういう目で見ると第二次世界大戦というのは、大きな犠牲もありましたが、一般民衆が土地を持つ権力者の半奴隷状態から開放されるという天の恵みでもあったのですね。

長い間の命がけの権力者を支える働き。いま、そこから解放された私たちは権力者によって生かされているという考えから創造主によって生かされるという真実を見るゆとりができています。私たちは、それぞれ、天から何を期待されているのでしょう。しっかりと、創造主とともに生きる喜びを味わいたいと思います。

 

 

 

リノール酸とαーリノール酸

『毒消し料理術』(大森隆史・花田美奈子著)に興味あることが書いてありました。

「わたしたちの身体には、リノール酸とαーリノール酸の両方が必要ではあるものの、問題はリノール酸とαーリノール酸のバランスをどのようにとるかという点にあります。なぜなら、リノール酸とαーリノール酸は競合関係にあるため、αーリノール酸の効果を出すためには、リノール酸の摂取を制限する必要があるのです。(中略)

ここで問題となるのが、伝統食で推薦されているごま油には、αーリノール酸は少量しか含まれていないということです。調理にごま油しか使わないとしたら、リノール酸が過剰になり、アトピーなど炎症性疾患の原因をふやすことになりかねません。(中略)ふだんの生活でリノール酸不足になることはまず考えられません。

アレルギーなどになやまされている方は、このαーリノール酸が豊富なシソ油、エゴマ油、アマニ油に切り替えてみられるとよいでしょう。」

私は忙しいとミックス野菜のジュースに匂いのしない高級ごま油を加えて飲んで手間いらずの食事をしていましたが、あるとき、体の拒絶を感じて止めました。リノール酸とαーリノール酸のバランスをくずしてしまったのですね。何事にも調和ということが大事で、同じものを続けて摂取すると偏るために都合の悪いこともあるのですね。

栄養学も日進月歩で進んでいます。ときどきこのような本も読まなくては間違いを犯してしまいますね。

推測、恩智史

恩地研究会のメンバー、畑中一成氏が次のような恩智史の推測を送ってくれました。おもしろいので紹介します。これを裏付けるような史実をお持ちの方はぜひご連絡ください。

平成28年9月8日 推測、恩智史 畑中一成

恩智の歴史は古い

1.??? 神武東征

(ア)????????????? 神武帝は宮崎・高千穂を出発し大和に至るべく、河内湖より日下(東大阪市)に上陸したとされる。そこで戦いとなり敗れ恩智にいたる。

(イ)????????????? 恩智の村人は神武帝を助けた。神武帝はその後熊野より再び大和を目指した。この時、先導したのが熊野の八咫烏(やたがらす)である。

(ウ)?????????????日本書紀に「恩ある地、母の木邑」との記述がある。

(エ)????????????? 橿原神宮で初代天皇として神武帝は即位した。

2. 多神社

(ア)????????????? 神武帝の長男は橿原神宮の近くに多神社を建立、その支社として高御座神社と天川神社が高安山から信貴山の西麓にある。位置関係から言えば、大和を守る防衛線と考えられる。

(イ)????????????? その後、恩智の村を支配したのは恩地家であった。多(おお)と恩(おん)は同音の可能性がある。当時はまだ漢字は存在せず、音で判断しなければならない。

(ウ)????????????? 多神社の末裔が太安万侶であるということから、やはり漢字に惑わされてはいけない。

3.??? 恩智神社

(ア)????????????? 創建は西暦470年頃とされるが、もっと古く、神武帝の即位後それほど後ではなかったのではないかと考える。

(イ) ? ? ? ? ? ??初期の天皇家にとって支配地域はそれほど広くなかったであろう。大和を守る拠点として恩智は地理的にも、また、神武即位より以前から神武帝との関係があったことから、初期の天皇家にとっては重要な村であり、その拠点として恩智神社は存在したと考えられる。

(ウ)????????????? しかし、天皇家の支配地域が徐々に全国に広まることで、恩智の戦略的な価値は低下したと考えられる。

(エ)????????????? 恩智神社の神主であり地域の支配者(行政と軍事)は恩地氏であったことは間違いない。

(オ)????????????? 恩地氏の役割は、恩智という土地にあって大和を防衛することよりも、日本統一のための出兵が中心であったと考えられる。坂上田村麻呂が征夷大将軍として東北に兵を進めるのは平安時代初期のことであるから、初代神武帝から始まって、日本を統一するのに800年ほどかかっていると想像される。

4.??? 大東家 (おおひがし)

(ア)????????????? 大東家がお祭りされているのは春日社である。春日とは節分に朝日が昇る方向、すなわち東のことである。東の方向をお祀りしている大(おお)氏という意味でとらえると、大東という苗字はとてもしっくりくる。

(イ)????????????? 大和朝廷が始まり、日本列島の支配地域は徐々に広くなっていった。ヤマトタケル命の活躍など伝えられるところである。

(ウ)????????????? 茨城県の鹿島神宮よりさほど離れていない土浦市に「天川」という地名がある。

(エ)????????????? 大東家は東国代官としてこの地に赴任していたと想像される。というのも、大東家は奈良時代前後に恩智に赴任されてきたという逸話が恩智に残る。

(オ)????????????? 大東氏が祀る春日社が恩智神社の左脇に元春日として祀られていることから、恩智にとっては春日社はやはり後世に来られたことは明らかである。

?5.??? 歴史的転機

(ア)????????????? 乙巳の変(645年)で中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)は蘇我氏を滅亡させ、大化の改新をすすめる。

(イ)????????????? 白村江の戦い(663年)、朝鮮半島で動乱があり、日本は百済の求めに応じ出兵。唐、新羅連合軍に大敗する。そして百済の王侯貴族や官僚が大挙して日本に移住した。また、唐の大軍が日本に来襲することが予想された。

(ウ)????????????? 日本は急ぎ防衛ラインの整備をおこなう必要があった。

(エ)????????????? そのため、東国に展開していた兵力の多くも西日本に再展開することになる。

6.??? 高安城

(ア)????????????? 唐が大和を目指すとすると、瀬戸内海から河内湖に入り現在の東大阪市もしくは八尾市に上陸することが予想される。神武東征と同じコースである。

(イ)????????????? この防衛拠点として高安城が構築されたと『日本書紀』は記述される。

(ウ)????????????? 国家にとっての緊急事態であり、すべてのエネルギーが大和防衛にそそがれた。

7.??? 恩地氏と大東氏

(ア)????????????? 大東氏が東国から恩智に来たという逸話は、実は、この時期でなかったか。大和防衛のために高安のみならず恩智の軍事力も強化しなければならなかった。信貴生駒山系は自然の要害として大和防衛の最終拠点だと考えられる。

(イ)????????????? では、なぜ大東氏は恩智だったのか。それは大東氏と恩地氏は親戚関係だからではないか。ともに「お」から始まる。恩地氏は天川神社に関連した多神社(多氏)の流れである。上述したとおり、大東氏もまた多神社に関連すると考えるのが妥当である。

(ウ)????????????? むしろ、大東氏は恩智から東国に出征したのではないか。土浦市天川という地名は、天川神社の分祀を持って行かれたことによる可能性がある。(ただし未調査)

(エ)????????????? また、研究者によると恩地氏は中臣氏の一統であるとされる。藤原家全盛の奈良時代に春日大社が建立されていることは、大東氏もまた中臣氏と非常に近い関係だと考えられる。このように考えると、恩地氏、大東氏、中臣氏は多氏に関連する一族であると想像される。「お」の音からすると中臣氏はむしろ分家の分家かもしれない。乙巳の変より以前の中臣氏は下級貴族と伝えられている。
 中臣氏(藤原氏)が分家の立場であったとしたら本家はどこか。実権を握った藤原氏が春日社を重視したことから想像すると、中臣氏の本家は大東氏ではないか。

(オ)????????????? なお、唐ではその後内乱が起こり、日本を攻めることはなかった。

(カ)????????????? こうした経緯で恩智には、恩地氏と大東氏という両家が在住することになった。そこで、大東氏が恩智神社の神主、恩地氏が地域の行政と軍事を受け持つことになったのではないか。

以上

生活瞑想・これからの時代におすすめ

先日から何回か紹介させていただいた「生活瞑想」について説明させていただきます。私たち日本人には「瞑想」というと「座禅」がつきもののようですが、忙しい生活の中でその時間をつくるのは現実的には難しいし、また、「座禅」の時間がつくれる人でも「座禅」し続けることは不可能です。しかし、過去には不可能だった、「普段のように生活をしながら瞑想する」ということが、いまは、できる時代になったのだと思います。それを「生活瞑想」と呼ぶことにしました。

30年ほど前の話です。ある日突然、一人の行者が私の家に訪れました。父の軍隊時代の知り合いだったのか、詳しいことは忘れました。その人は、常に先祖を意識しながら、生活しているというのです。先祖の指示に従って行動し、先祖の許可がなければ便所にも行かないとおっしゃいました。こんな人とはいままでに会ったこともなければ、その後も会ったことがありません。たった数時間のご縁でしたが、私はそのとき、深い感動を受けました。この方の意識されていた先祖は高僧だったのでしょうか。それとも役小角の生まれ変わり?

ただ、私の求めているものとは何かが違うと思って、その後忘れていました。しかし、いま、「生活瞑想」を紹介させていただこうとして、思い出しました。「生活瞑想」とは、あのときの訪問者が行っていたことなのですね。

私が行なっている「生活瞑想」は、意識する対象が宇宙根源の神ですから、意識は自分や先祖だけでなく、環境である宇宙すべての存在に及びます。その違いはありますが、常に意識を特定のものにつないで生活するということは共通していますし、訪問者の方も行を重ねるうちに、その後、意識の対象が先祖から根源神に変わったかもしれません。

私の提案する「生活瞑想」のほうが、難しいように見えて、実ははるかに実行しやすいと思います。そういう時代がきたということもありますが、意識の対象が宇宙の根源神(前回紹介したカタカムナのアマナ)であるので、受け取るエネルギーが無尽蔵ですから、実行力に格段の違いが出ます。

歌手が空間と音の中に自分を響かせるごとく、あらゆる存在のなかに自分が滲み込み、響かせるように努め、本来の自分の役割を力強く果たします。根源神(カタカムナのアマナ)との強い強い結合の中に大きなエネルギーで花を咲かせ、環境に感動を与えます。

一挙手、一投足、根源神(カタカムナのアマナ)を意識して動く。宇宙を支える無尽蔵のエネルギーとつながります。宇宙に満ちている「気」もその一部です。全てに偏在する根源神(カタカムナのアマナ)に意識を合わせます。すべてに意識を合わせながら、自分を含めたどれにも執着しません。執着は根源神だけです。

エネルギーを高め、根源神(カタカムナのアマナ)の意識をしっかりと受け止めることに努めます。エネルギーを高める方法はそれぞれに工夫してください。先日紹介させていただいた性エネルギーを利用する方法もあります。マントラを唱え続けるという方法もあります。入り口はどうであれ、いったん強くつながってしまえば、直接にエネルギーが入ってきますのであとは楽になります。。

難しいことを簡単に説明させていただきましたが、詳しく説明しても同じです。体験しなければ何もわからないでしょう。しかし、体験する価値は十分あると思います。これで、これからどう生きるべきかという読者の質問に対する答えとさせていただき、この件はひとまず終わりということにさせていただきます。日常意識しない世界の話でとまどう方がほとんどだと思いますが、お付き合いありがとうございました。

 

官能・感応・生活瞑想

『官能仏教』(西山厚監修)に『日本霊異記』(景戒著)に書かれている説話を紹介していました。

「和泉国(大阪府南部)の山寺に吉祥天女さまの塑像(土で造られた像)がありました。ある在俗信者の男が、このお像に魅了されてしまったのです。男にとってはこの吉祥天女像は、仏像ではなく「女」でした。手に入れたい。触れたい。男は毎日六回の勤行の度に祈りました。

『この天女さまのような顔かたちの美しい女をわたしにお与えください』と。

ある夜のこと、男の夢に吉祥天女さまが現れたのです。男は愛欲をぶつけ吉祥天女さまを抱きました。明くる日、お像を見ると、なんと天衣の裳裾(もすそ)に白い不浄の染みが付いているではありませんか。

『わたしは天女さまに似ている女を求めたのに、かたじけなくも天女さま自らが交わってくださったとは…』

男は恥じ入り、誰にも語らず秘めごとにしました。しかしそれを覗(のぞ)き見ていた弟子が里人に触れ回ってしまったのです。里人たちが事の真相を確かめようと寺にやってきて、吉祥天女の裳裾に着いた白い染みをしかと見ました。男はもはや包み隠さず、一切を告白したということです。

この話のタイトルは『愛欲を生じ吉祥天女の像に恋ひ、感応して奇(めずら)しき表(しるし)を示す縁』といい、感応譚として語られています。感応とは、衆生の信心が神仏に通じ答えてくれること。吉祥天女さまは、仏教では邪淫として戒められるべき男の愛欲の情動さえも、その強く信じ祈る心に感じて応えてくださったのです。」

これは、「強く信じる心」が邪淫を超えたものとして紹介されています。邪淫を払う前に、まず根本は神仏と強く結ばれることだと教えています。

いまから数万年以上前に日本に住んでいた人類が残した古代科学の書カタカムナには、われわれが意識する「物質世界」の背後にその「物質世界」を作り出している僭像世界(多次元世界)があると書かれています。この多次元世界は、「アマ始元量」と呼ばれる究極粒子(この粒子はおよそ10のマイナス80乗センチメートルと推定している)およびその複合体でできている。

この僭像世界が宇宙の本質であり、その世界にはアマナ(創造主)が存在しています。

こんな宇宙観が数万年前に存在していたなんて驚きですね。前回のフォトンベルト通過のときにアトランティスやムー大陸が消えてしまっているのと関係がありそうに感じます。前回は「僭像世界」から「物質世界」に重点が移る動きをしたようですが、こんどはカタカムナのいう物質の目には映らない「僭像世界」を意識することの重要な時代がくるのでしょう。

『霊異記』記載の例をだしたように、かつての仏教の世界でも、まず仏と通じることが始めだと教えています。この例では、情欲という高いエネルギーで仏と通じることができたのですが、これからはフォトンベルトの高いエネルギーがアマナ(創造主)に通じることを助けてくれると思われます。

日常的にアマナ(創造主)の世界を瞑想することができるようになるので、私はこれを「生活瞑想」と名付けました。