大坂夏の陣 大阪の歴史3(船場2)

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『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「その後の慶長20年、大坂夏の陣によって、この町は灰塵に化しました。徳川家康は、すぐに新しい城主として、孫で伊勢亀山城主の松平忠明を送り込み城下の復興再建を進めました。

やがて松平忠明は大和郡山に移り、大坂は幕府の直轄になって旗本2名が町奉行に、伏見城代内藤信正が大阪城代となって、大番2組100名を引く連れ移ってきました。伏見城は廃城となり、その城下住民も大坂に移ってくることになります。

一連の幕府の動きは、畿内、西国支配の拠点を大坂に定めたことであり、新しい大坂が始まったことを意味し、それに伴い元和5年から、城下の拡張が始まりました。船場周辺では農地を町屋敷に転換させられて村々が消滅しました。津村、阿波座村、上難波村、三つ寺村、西高津村、等がそれで、また敷津村のそのあとに生まれたのが、南船場、島之内、西船場です。

中でも西船場と呼ばれた新町、立売堀、阿波座、靱、京町堀、江戸堀は西横堀から木津川にむかって縦横に彫られた堀川で、水の都の様を呈しました。後に「八百八橋」と呼ばれた景観はこの辺りが中心でしたが、昭和30年頃に水害から街を守るとかで、その殆んどが埋められて、その残影さえ見出すことができなくなりました。

これらの町は、いずれも大坂城下に組み込まれ、のちに天満と堀江が加わって大坂三郷が出来上がり、、明治の時代に大阪市となりました。

「船場のいとはん・こいさん」等と使われる「船場」は、初めに造られた下町地域を言うのが正しいようです。」

文章中、「慶長20年」は、1615年です。

次回に続く。

 

 

カテゴリー: 大阪歴史, 河内の翁 | 投稿日: | 投稿者:

河内の翁 について

飲食店の仕事を現役で行いながら、ご理解いただける仲間とともに、「かむながら」という生き方を実践しています。宗教、宗派を超越したものです。 「かむながら」とは、「常に根源神を意識しながら行動する」という意味です。 根源神とは、宇宙を創った存在のことです。宇宙の全て(私達を含む)は、創った存在(根源神)とは常につながっていますので、宇宙そのものとも表現できます。