日露戦争・与謝野晶子 大阪の歴史5(この1世紀1)

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『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「1世紀、百年前の日本そして大阪はどのような時代であったのでしょう。旗艦『三笠』のマストに翻るZ旗は皇国の興廃、この一戦に在り。各員一層奮励努力せよ。と、日本海に展開する艦隊に指令する狼煙でした。そのとき私たちのくには、ロシアとの戦い(日露戦争)の真只中でした。日本軍は、ロシアが占領している中国東北部に進攻するために、どうしても避けて通ることのできない遼東半島の先端、旅順の要塞を包囲し、陥落しようと総攻撃をかけますが、成果は上がらず。

第1回総攻撃の1904年8月9日、日本軍は15,860人の戦死者を出し、2回目の10月26日にはには、3,830人、ついに3回目は、あの203高地で16,935人もの戦死者を出しました。大阪の第4師団にも動員令が下り、歩兵第8連隊、第37連隊の戦士が築港を出発して往きました。

一方で、東郷平八郎率いる連合艦隊は、世界の最強艦隊と評判の、ロシアの誇る『バルチック艦隊』と戦い、1905年5月27日、攻撃を仕掛け終戦に導く働きをしました。

あヽをとうとよ、君を泣く

君死に給うことなかれ、

末に生まれし君なればおやのなさけはまさりしも、

おやは刃をにぎらせて

人を殺せとをしへしや、人を殺して死ねよとて、二十四までをそだてしや。

堺の街のあきびとの

旧家をほこるあるじにて親の名を継ぐ君なれば

君しにたまふことなかれ

旅順の城はほろぶとも、

ほろびずとも、何事ぞ、

君は知らじな、あきびとの

家のおきては無かりけり。(略)

後に反戦歌だの、厭戦歌だのと言われたこの歌も、1904年に堺の老舗の娘与謝野晶子によって作られました。

世界の列強国の並ばんと『富国強兵』は叫ばれていましたが、軍国主義と呼ぶにはまだ遠い時代でもあり、中世武士道的な、唇かみしめてのつつしみや、偽善的なつくろいもなく、心の高ぶりをそのまま赤裸々に表現することのできた時代でもありました。」

私も与謝野晶子のこの歌は学校で習いました。このころはまだ、こんな歌がつくれるような社会情勢だったのですね。私は、第2次世界大戦後に生まれたというのに、この歌を聞いて、国が一丸となって戦っているときに、よくこんな不謹慎な歌を詠めたものだと受け止めました。戦後ですらそんな気持ちになるほど、日露戦争から第二次世界大戦までの間に、日本国民の心情は変えられてしまったのですね。

私の母は93歳になるのに戦争に反対した共産党のことを、いまだに「赤」とよんで罪悪人扱いしています。洗脳というのは恐ろしいことです。しかし、このような人々もほとんどなくなってしまって、いまは、平和が当たり前だと感じる人ばかりです。しかし、平和を守るために戦争をしなければならないという矛盾を解決できなければ、ふたたび、戦争の時代がくる可能性があります。目に映る目先の物質だけで思考するような教育しかできないようでは本当の平和は実現されることはありません。

次回に続く。

 

カテゴリー: 大阪歴史, 河内の翁 | 投稿日: | 投稿者:

河内の翁 について

飲食店の仕事を現役で行いながら、ご理解いただける仲間とともに、「かむながら」という生き方を実践しています。宗教、宗派を超越したものです。 「かむながら」とは、「常に根源神を意識しながら行動する」という意味です。 根源神とは、宇宙を創った存在のことです。宇宙の全て(私達を含む)は、創った存在(根源神)とは常につながっていますので、宇宙そのものとも表現できます。