電気・ガス 大阪の歴史8(この1世紀4)

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『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「このように広まりだした照明用としてのガスも、明るさ、経済性、安全性で、電気よりも優位にたつことはできず、まもなく衰退を余儀なくされます。ガス会社では、ガスを加熱調理用に主眼をおく方針に変換して、活路を開くことにし、一般家庭の炊事用としてガスの利用を普及すべく、薪 炭に対し「火の要心、無煤煙で清潔、手間を省ける、場所をとらない」「家庭の改良は、台所の改良」とPRに努めました。そsの結果、庶民のガス火力への関心と相まって、1923年(大正12年)におきた関東大震災が後押しし、炊事用へと利用目的が完全に逆転したのですが、電気ほどの普及率になるまでには、これからまだ50年も後になります。

それでは、当時の都市における、炊事用の火力は何に頼っていたのか、それをどのように調達していたのかをまとめてみます。もともとこの国では燃料の殆どは、草や木という植物資源に頼っていたのですが、これは石炭や石油とちがって、その生育は「水」と密接な関係があり、飲料水を不自由する処では、同じように不自由で、水以上に調達 供給には手間がかかりました。当然のように受給のバランスが必要になって、「薪・炭」は重要な物産として取引されるようになります。

大原女が頭上に薪を載せて「柴いりませんかぁ」と、京都の町を売り歩く姿が思い浮かぶように、京都では八瀬や大原や洛北の村から、牛車や人の背で運び込まれ、売り捌かれていましたが、早晩この程度では賄いきれず、丹波の村々に頼るようになります。」

私が子供のころ、今から50~60年ほど前、山に近い恩智では、子供たちが燃料に使われる薪や牛のえさに使われる草をとる手伝いをしていました。家によっては、30年くらい前まで、まだ2つから5つのかまどがついたへっついさんが入り口を入って客間へ上がる土間があり、その次のところにありました。風呂も長い間、マキで沸かしていました。山にマキとりにいくのが日常の仕事でした。

ガス化になるまで、家によっては半世紀くらいの差がありました。それでも、都市ガスのガス管が施設されるまではプロパンガスでした。いまでは昔からガスを使っていたかのようにすっかりガスのお世話になっていますが、便利なお風呂が開発されていく前に、まだ日常の手間が大変な薪のお世話になっていたのですね。また、へっついさんもすっかり消えてしまいましたが、電磁調理器などと電気を利用した便利な調理器を配備した台所まで現れて、私などは自分用の食事には、電子レンジがかかせません。変化の加速度は年々早くなって戸惑いも出るくらいです。1世紀というと、私の親まで含めるとそれに近くなりますが、見聞きした時代なのですね。私よりひとまわり上の杉本さんが残してくださったこの話はぜひ子供たちに伝えたいものです。

電気もガスも共に100年ほどの歴史ですが、ようやくこのところ、順調な安定軌道を走りだしていました。しかし、震災を期に原子炉の見直しがあり、さらにいま、自由化によってせっかく築いたドル箱も今後はきびしい競争が予想されています。

次回に続く。

 

 

カテゴリー: 大阪歴史, 河内の翁 | 投稿日: | 投稿者:

河内の翁 について

飲食店の仕事を現役で行いながら、ご理解いただける仲間とともに、「かむながら」という生き方を実践しています。宗教、宗派を超越したものです。 「かむながら」とは、「常に根源神を意識しながら行動する」という意味です。 根源神とは、宇宙を創った存在のことです。宇宙の全て(私達を含む)は、創った存在(根源神)とは常につながっていますので、宇宙そのものとも表現できます。