大正・昭和の庶の台所 大阪の歴史10(この1世紀6)

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『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「薪は『へっついさん』とか『おくどさん』と呼ばれた竈(かまど)で炊きます。『へっつい』は、専門の職人が壁土を練り上げて造り、漆喰を塗り上げて仕上げたもので、5口、7口という大きなものもありましたが、煙突はなく内部は1窯ずつ区切った作りになっていて、『別火』からその名がついたようです。また、『おくど』は、窯の後ろから煙突口が出ており、それが直角に曲がっていて『曲突』ということからきたといいます。

豪商や豪農の家屋敷は別にして、都会の一般的な家作では、大小かかわらずその建坪の四分の一ほどは、粘土を打ち固めた『三和土(たたき)』と言う土間が占めていて、ここが日常『台所』として使う場所でありました。関東で言う裏長屋、関西の裏借家は、玄関の戸を開けたところがこの三和土で、『おくど』があり、『流し』、『水がめ』が置いてありました。ご飯を、おくどで炊いている間、おかずは、『かんてき(七りんともいう)』で煮たり焼いたりしました。勿論、商家や農家などの大人数のところは「へっつい」で御飯も、おかずも汁物も別々の火で並べて煮炊きしましたが、それでも焼き物は「囲炉裏」や「かんてき」を使いました。

「かんてき」では炭や練炭を燃料にします。炭や練炭は、火鉢に入れて暖房用にも使います。練炭は一酸化炭素を多く発生するので、密閉したところでは中毒を起こします。寒さのきびしい韓国ではオンドルという床暖房を使いますが、この燃料に練炭が多く使われ、密閉度の高い韓屋で、多くの中毒死がでました。日本でも「炬燵(こたつ)」の火種に「たどん」や「豆炭」がよく使われましたが、天井が高く比較的換気のよい建物のせいで、中毒死はあまり多くはきかれなかったようですが、アパートのような狭い部屋では危険なものでした。

電気も、調理用熱源としての研究は進められていて、大正時代にニクロム線による伝熱利用が可能になると、」「電熱器」に始まり、「電気炊飯器」も発案され出しました。昭和も10年頃になりますと、デパートには「文化流し」という氷冷蔵庫まで組み込まれた今でいうシステム・キッチンが陳列されるようにまでなりました。」

ニクロム線の電熱器など、もう長い間見たことがありませんが、ニクロム線が真っ赤になり、その上に鍋をかけるなど、一時それが一般的であった時代がありました。もうすっかり忘れていました。この100年は、わずかの間に大きな変化があった時代なのですね。

 

カテゴリー: 大阪歴史, 河内の翁 | 投稿日: | 投稿者:

河内の翁 について

飲食店の仕事を現役で行いながら、ご理解いただける仲間とともに、「かむながら」という生き方を実践しています。宗教、宗派を超越したものです。 「かむながら」とは、「常に根源神を意識しながら行動する」という意味です。 根源神とは、宇宙を創った存在のことです。宇宙の全て(私達を含む)は、創った存在(根源神)とは常につながっていますので、宇宙そのものとも表現できます。