第2次世界大戦後の庶民 大阪の歴史12(この1世紀8)

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『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「終戦後、ようやくガスが終日使えるように戻ったのは、昭和27年(1952年)になってからです。この頃になると、電気事情も相次ぐ水力発電所の創業開始で好転していきましsた。唱和25年頃からはようやく物資も出回りだして、取り払われていた電車の座席も元通りに復活し、板張りの窓にもガラスが入りました。この戦争で失われていた文化を取り戻すために、日本中がまるで鬱憤を晴らすかのように勢いよく動き出したように思いました。

昭和29年NHK大阪でテレビ放送が始まりました。戦時中、中断されていた家庭電器の製造もかっぱつになり、30年には東芝が「電気自動炊飯器」を発売し、これがブームとなって33年には1年間だけで100万台を売り尽くして、なお不足であったといいます。

昭和35年(1960)埼玉県の草加団地にLPG(プロパンガス)の供給が試みられました。これが都市ガスの未敷設地域や、配管の困難な山間部でも、ガスの使用が可能なことを示すことになり、その後各地にLPG基地が設けられるようになります。このころが、この国において本当の台所の改革がはじまったといえるようです。

「釜」が売れなくなった金物屋と、家電メーカーとの間で物議をかもしたこともありました。薪炭が売れなくなって炭やは生業が立たず、廃業に追い込まれ、氷屋や、石油、プロパンガスという新しい燃料を扱う店に転換されていったようでした。」

杉本さんは80歳で私は70歳、10歳の差があります。私が小学校6年の時はもう社会人だったのです。見る目が全く違っています。地元のK炭屋さんはプロパンガスを扱っていて、父の店にも頻繁に取り換えに来ていました。私はそれが昔からあったように見ていました。

また、中学生の従兄が日本橋の電気屋街で部品を買って、趣味でラジオやテレビの組み立てをしていました。家が金網工業をしていて、このころは生産が間に合わないほどの盛況で子供のバイトでもかなりの小遣いになったようです。わたしも教えてもらって小学5年生のときに5球スーパーというラジオを組み立てて、家族で聞いていました。杉本さんの情報によると、テレビ放送が始まって4,5年目くらいの頃なのですね。親戚の市会議員宅にはすでに大きなテレビがカバーをかけて置かれていました。当初のテレビが金持ちのシンボルのようなものでした。

この地域でも徐々にテレビが購入されて私も最初は隣の家に見せてもらいに行きました。鞍馬天狗やプロレスが人気番組だったでしょうか。その頃に放送開始になったのですね。番組がどうして作られるのかなどという知識もなく、ただ夢中で見ていました。その頃の日本が急速な発展途上だったと知ると思い出も輝いてきます。父の店でも向かいの電気屋さんから新しいカラーのテレビができたからと持ち込まれてお客様のために購入することになったようです。近くに鋳物工場があり、地方から寮に工員さんたちが来ていて、仕事後の楽しみとして父の店でテレビを見て過ごしたようです。この頃のカラーというのは3色のガラスをかぶせたもので、中身は白黒テレビでした。

 

カテゴリー: 大阪歴史, 河内の翁 | 投稿日: | 投稿者:

河内の翁 について

飲食店の仕事を現役で行いながら、ご理解いただける仲間とともに、「かむながら」という生き方を実践しています。宗教、宗派を超越したものです。 「かむながら」とは、「常に根源神を意識しながら行動する」という意味です。 根源神とは、宇宙を創った存在のことです。宇宙の全て(私達を含む)は、創った存在(根源神)とは常につながっていますので、宇宙そのものとも表現できます。