水と大阪・大阪の歴史13(この1世紀9)

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『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「人の生活はまず水を求めることから始まります。太古の人たちは、身の守りやすい山の頂に住み始めたのではなく、水のある谷川沿いに住み始めました。農耕の発達で、生活の場を麓や平野部に移すと、水を引くことや、井戸を掘ることを考えました。時代とともに人口が増え、人々は狩猟や農耕だけではなく、夫々が生活を支えるために、資源のあるところや金の稼げるところに集まりだしました。やがて、水の全くない、不毛の地であるとしても、欲望を充たしてくれる所ならば、あらゆる手段を講じて水を得て、人は暮らしだします。

アメリカ西海岸、ロサンゼルスを例にとるのは、極端すぎるかもしれませんが、ゴールドラッシュに湧き、石油の採掘で人が集まり、人が人を読んで今日の大都市が膨れ上がりました。しかし、そこは芝生一枚めくれば砂漠の地で、下手に掘るものならコールタールが滲みだします。生活のためには、隣接するユタ州から莫大な金銭を費やして水は買うより仕方がないことなのです。

東京や、大阪も、一部を除くと似たり寄ったりのところがありました。幕府が開かれた江戸の町も、けっして水に恵まれたところばかりとはいえませんでした。むしろ関東ローム操の火山灰台地である方が多く、水利の弁は悪い土地であったといえます。それでも必然的に住まなければならない武士や役人、それを目当ての商人や職人、いわゆる「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草履を作る人」が集まりだして大都市になります。この人たちの生活の水を確保するために幕府は上水道を造りました。「玉川上水」「神田上水」がそれですが、木樋・石樋を巧みに利用して、飲料水を庶民の住むところまで配水していました。

時代劇に出てくる長屋の井戸は、じつは井戸ではなく上水の汲取口であったと言うことになりますが、汲み上げた水は、各自に水瓶に蓄えて使い、汲取口の管理は住人が交代で行っていたそうです。大阪の場合はちょっと違うようです。江戸のような、上水道が建設されたと言う話は聞いたことはなく、ただ大阪城惣構えの「太閤下水」と呼ばれる井路が掘られ、たいそう下水網が発達していました。これは大阪の町の成り初めが、上町台地の北端で、掘削さえすれば清水がわき、井戸や出水が多く、水に苦労のない町であったからだと推測されます。

しかし、後々に造成された船場や、西船場という下町では、地層の違いから井戸を掘っても「かなけ」と呼ばれる悪水しか湧かず、飲料水は買わなければならなかったのです。その水のほとんどは淀川の水であったといい、とても良質とは思えないものの、それでもそれが飲料水になり、井戸から汲んだ水は洗い物用にと、土間には二つの水瓶が並んでいて、大雨の後で川の水が濁ったりすると、夕陽丘あたりの出水に、水を求める人の行列ができたと聞きます。」

人の体にとってもっとも大切なもの、それは「水」です。水なしではどの生物もその体を維持することができません。その意味では縄文時代から人が住み着いた恩智の扇状地などは水に恵まれたところでした。その後、水を確保できる技術ができると、水に恵まれないないところにも人が住めるようになります。杉本さんはこのあたりのことをよく見ておられますね。

次回に続く

カテゴリー: 大阪歴史, 河内の翁 | 投稿日: | 投稿者:

河内の翁 について

飲食店の仕事を現役で行いながら、ご理解いただける仲間とともに、「かむながら」という生き方を実践しています。宗教、宗派を超越したものです。 「かむながら」とは、「常に根源神を意識しながら行動する」という意味です。 根源神とは、宇宙を創った存在のことです。宇宙の全て(私達を含む)は、創った存在(根源神)とは常につながっていますので、宇宙そのものとも表現できます。