大阪の誕生・大阪の歴史14(この1世紀10)

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『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「大阪の町の誕生は、司馬良太郎氏がその著書『十六の話』の中で判りやすく書いておられるので、しばし引用させていただきます。

『すでに85歳の老人になっていた蓮如(著者注ー真宗本願寺中興の祖)が大阪(当時は小坂 尾坂、大阪ー共にオサカと発音ーなどと表記した。)の地にやってきたのは、かれ自身の文章によると明応5年(1496年)のことである。そのころはむろん、四天王寺をのぞくほかは草深い土地でありつづけた。地理的に詳しく云うと、ナマコ形のかたちで南北によこたわる洪積台地である。標高は10~25メートルで、南北の長さは12キロほどもあり、東西の幅は2~2.5キロメートルでしかない。この台地のはしに国立の寺である四天王寺がある。蓮如は四天王寺という既成の権威には遠慮をし、そのそばに寺を建てようとはしなかった。他の一方のはしである北端(今の大阪城の位置)にたてた。その北端のほうが高い。蓮如が坂を上って平坦な頂上にたどりつくと、石ころのめだつ丘で、ろくに畑もない。土地のものはこの高地のことを石山と呼んでいた。正規の地名としては摂津ノ国東成ノ郡の生玉ノ庄のうちの大坂(オサカ)と呼ばれていた。

大阪(大坂)という地名が日本史上はじめて文章にあらわれるのは、蓮如の文章である。広い地域をさす呼称ではなく、その一角を、たとえば走っても10分とかからない程度のちっぽけな地面にすぎなかった。それが後世、世界中に知れ渡る都市の名称になるとは、むろん蓮如も、想像していなかった。蓮如のたてた石山本願寺は、かれから二世あとの第十四世証如の大に大きく発展した。蓮如の時代にすでに門前町が形成されはじめていた。当時の言葉で都市計画のことを「町割り」と言ったが、蓮如は六人の番匠(大工の棟梁)に命じて、六つの町内をつくらせたといわれる。建物としては旅館が主であったであろう。蓮如の時代の永禄五年(1562)には、家々の戸数は二千軒を超えたと言われる。』

このようにして大阪は、はじめて町として生まれたのです。蓮如は『摂州東成郡生玉の庄内大坂という在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや…』とこの地を全国への布教の中心地としました。」

肉体が水なしでは生きられないように、魂(精神)は信仰を求めます。イワレヒコ(神武天皇)が浪速国・白肩津についたとき、嵐にあって梶がきかなくなります。なんとか陸地についたのがこの白肩津です。このとき、先祖神が護ってくれたおかげだと、祠をたてます。これが東大阪市横小路の梶無神社です。東征の途中で各地でこうした神社を立てて、先祖神を崇拝しました。仏教が入ってくるまで神社が見えない世界のよりどころでした。

仏教が入ってくると、仏教が人の心を養い、日本人の魂は古来の山岳修行にさらに精神的なみがきをかけていきました。大阪の地が四天王寺の建立で下地をつくり、近世の石山本願寺によって上町台地に誕生したということです。大坂という地が心身の基礎によって誕生した恵まれた土地であることが分かりました。

次回に続く

 

カテゴリー: 大阪歴史, 河内の翁 | 投稿日: | 投稿者:

河内の翁 について

飲食店の仕事を現役で行いながら、ご理解いただける仲間とともに、「かむながら」という生き方を実践しています。宗教、宗派を超越したものです。 「かむながら」とは、「常に根源神を意識しながら行動する」という意味です。 根源神とは、宇宙を創った存在のことです。宇宙の全て(私達を含む)は、創った存在(根源神)とは常につながっていますので、宇宙そのものとも表現できます。