秀吉・徳川の大阪・大阪の歴史16(この1世紀11)

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『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

蓮如によって造られた宗教都市大坂は、信長、家康、第二次世界大戦の3度にわたって、焼かれて、ある意味では火によって浄化されました。杉本さんは、秀吉、徳川によって復興した大阪を紹介しています。

「いま一人『そもそも大阪は、おおよそ日本一の境地なり…五畿七道これに集まる』とこの地を狙った者がいたのです。織田信長です。彼は1570年に石山本願寺に対して、他の地に移転するように求めましたが拒絶されました。これから信長と本願寺の間に十年戦争が始まったのです。1580年両者の和睦で戦いは終わったのですが、信長は望み通りに、この地に城を築くことなく逆臣明智光秀のために命を落としました。

大坂に城を築いたのは豊臣秀吉です。天正十年(1583)築城が始まり、天守閣や二の丸の築城が終わったのちもいっそうの強化を図るために、城と町全体を囲む『惣講』の建設にとりかかりました。おおよその範囲は、大川を北端に東を猫間川(JR京橋~森ノ宮あたり)、南を空堀(中央区空堀通り)、西は東横掘(阪神高速道感情南行き、高麗橋~長堀あたり)としました。それは現在の大阪市中央区のの東側約半分辺りに位置していることになります。その後、慶長三年(1598)病床の秀吉は、大名屋敷の伏見から大阪への移転を命じ、新しく大阪城内に住まわせることにしました。

当然に『惣講』の中は手狭になります。そこで惣講の中に住まいしていた商人や工人達を構えの外に新しく造成させた土地『船場』に移転させます。ここに惣講のなかの『上町』と、下町の『船場』がうまれ、共に大阪の町に組み込まれます。これが『秀吉の大坂』です。

「元和元年、大坂夏の陣で『秀吉の大坂』はすっかり焼野が原に帰しました。間髪を入れずに徳川家康は孫の松平忠明を送り込み、後片付けと共に、街の再興を始めさせました。これよりは『徳川の大坂』となります。

新9区、大阪城の築城が進められると同時に城下の開発も進められました。廃城になった伏見からも住民が移住してくると船場の北端に伏見町が生まれました。船場周辺の農村は村ごと他所へ移され、そのあとに次々と新しい町屋が建設されました。これが天満、西船場、南船場、島之内、堀江となり、依然からの船場と合わせて大坂三郷として明治に至るまで、『天下の台所大阪』の市街地となるのですが、徳川はこの新しい町に上水道を敷設することはしません。それどころか太閤の時には造られた下水も造ることはせず、埋立地に干拓と、水運、下水を兼ねて堀川を縦横に掘削しました。その多くは昭和30年代に埋め立てられましたが、残る堀川にはいまだに下水が垂れ流されています。道頓堀が浄化できないのはその為だと言われています。」

次回に続く。

 

 

 

カテゴリー: 大阪歴史, 河内の翁 | 投稿日: | 投稿者:

河内の翁 について

飲食店の仕事を現役で行いながら、ご理解いただける仲間とともに、「かむながら」という生き方を実践しています。宗教、宗派を超越したものです。 「かむながら」とは、「常に根源神を意識しながら行動する」という意味です。 根源神とは、宇宙を創った存在のことです。宇宙の全て(私達を含む)は、創った存在(根源神)とは常につながっていますので、宇宙そのものとも表現できます。