法華経15(行法経・懺悔)

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「目を閉じて、自分と「仏」は一緒にいるのだと自覚しても、眼を開けると現実の世界に意識がかわり、「仏」はどこかに消えてしまう。自分はまだまだだと反省してさらに「仏性」を磨き上げることを懺悔と言う」と、『法華経の新しい解釈』(庭野日敬著)に書かれています。

日本古神道の「かむながら」は森羅万象、全ての存在に神を見、神とともに生きるという生き方をしました。学者たちは、これを多神教だといっていますが、全てに存在する神は唯一の神、創造神であり、全てに偏在する神ですから、一神教です。この生き方は目をを閉じなくても神が見えているのです。意識が神に繋がっている限り、いつも「創造神」であり、「大生命」である神が内にも外にも見えています。

古代において日本人の祖先はこのように「大生命」(「仏」)に意識がつながって生活していました。外国においてもそういう時代があったのでしょう。日本では言葉ができてからもそのような生き方をしている人びとがあったようです。?古神道「かむながら」として知られています。

どの宗教も原点に向かうのですね。「仏性」を洗い出す。「仏性」を磨き上げる。という言葉が紹介されていますが、私は、全ての存在を通して、「大生命」と強くつながる。繊細につながる。さらに強い愛でつながる。さらに多くの存在と広くつながる。そのような意識を持ちたいと思っています。

行法経

 

 

 

カテゴリー: 河内の翁, 法華経 | 投稿日: | 投稿者:

河内の翁 について

飲食店の仕事を現役で行いながら、ご理解いただける仲間とともに、「かむながら」という生き方を実践しています。宗教、宗派を超越したものです。 「かむながら」とは、「常に根源神を意識しながら行動する」という意味です。 根源神とは、宇宙を創った存在のことです。宇宙の全て(私達を含む)は、創った存在(根源神)とは常につながっていますので、宇宙そのものとも表現できます。