法華経16(人の原点・奉仕)

Share on Facebook
LINEで送る

「人が最高にしあわせになれるのは奉仕のときですね」友人がそう語りかけました。

「そうですね。創造神が人を創ったのは、自分の創造世界の一部に、人に大いに活躍してもらうためで、人はその原点で創造神に奉仕する心を持って創られているからね。」

「その奉仕の喜びを書いた本がありますよ。谷崎潤一郎の『春琴抄』です。薄い本ですからすぐ読めます。いちど読んでみてください」と言われました

大阪道修町(どうしょうまち)の薬種商の娘、鵙屋琴(もずやこと)と丁稚、温井佐助(ぬくいさすけ)との恋物語?です。琴女は器量よしで、読み書き、芸も人よりぬきんでて、両親は他の兄弟にぬきんでてこの子を寵愛した。ところが、九歳の時に失明した。失明のあと、四歳上の佐吉が奉公に入った。佐助は琴女の手を引くことになります。

琴女は御嬢さん育ちの上、盲人特有の意地悪さも加わって、佐助は琴女の顔つき、動作を見落とさないよう、油断のひまがなかった。手を引くときに、柔らかい小さな琴女の手を自分の掌にのせて、佐助は感じる心があったが、相手は雲の上の人。しかし、ときが立つ中で二人は肉体的に結ばれるが、琴女は自尊心ゆえ、それを隠し通して佐助との仲を認めない。

その後、琴女の寝室に忍び込んだ賊に琴女は顔に熱湯をかけられ、大やけどを負う。みにくくなった顔を人目に見せず、佐助に見られることをいやがる。佐助はそれを知って自分の黒目を刺して自分も失明する。、

「ああ、これが本当にお師匠様(琴女)が住んでいらっしゃる世界なのだ。これでようようお師匠様と同じ世界に住むことができた。」と思った。

「誰しも眼が潰れることは不仕合わせだと思うであろうが自分は盲目になってからそういう感情を味わったことがない。寧ろ反対にこの世が極楽浄土にでもなったように思われ、お師匠様とただ二人生きながら蓮(はす)の台(うてな)の上に住んでいるような心地がした、それというのが眼が潰れると眼あきの時に見えなかったいろいろのものが見えてくる。お師匠様のお顔なぞもその美しさが泌み泌みと見えてきたのは目しいになってからである。

その外手足の柔らかさ肌のつやつやしさ、お声の椅麗さもほんとうによく分るようになり、眼あきの時分にこんなにまでと感じなかったのがどうしてだろうかと不思議に思われた。

取り分け自分はお師匠様の三味線の妙音を、失明の 後に始めて味到し た。いつもお師匠様は斯道の天才であられると口では云っていたものの漸くその真価が分り、自分の技量の未熟さに比べてあまりにも懸隔があり過ぎるのに驚き、今までそれを悟らなかったのは何という勿体ないことかと自分の愚かさが省みられた。

されば自分は神様から眼あきにしてやると云われてもお断りしたであろう。お師匠様も自分も盲目なればこそ眼あきの知らない幸福を味わえたのだと。佐助の語るところは彼の主観の説明を出でず、どこまで客観と一致するかは疑問だけれど、も余事はとにかく春琴の技芸は彼女の遭難を一転機として顕著な進境を示したのではあるまいか。

いかに春琴が音曲の才能に恵まれていても人生の苦味、酸味を嘗めて来なければ、芸道の真諦に悟入することはむずかしい。彼女は従来甘やかされて来た。他人に求むるところは酷で自分は苦労も屈辱も知らなかった。誰も彼女の高慢の?鼻を折る者がなかった。然るに天は痛烈な試練を降して生死の巌頭(がんとう)に彷徨せしめ、増上慢を打ち砕いた。思うに彼女の容貌を襲った災禍はいろいろの意味で良薬となり恋愛に於ても芸術に於てもかつて夢想だもし なかった三昧境があることを教えたであろう。」

創造神である「大生命」、法華経のいう「仏」、「仏」が内在する全ての被造物(存在)、そのどれに奉仕しても人は最高の歓びを感じます。今、その環境で自分がすべき奉仕を感じ取り、実行していく。外から見れば苦しみにしか見えないこともあるかもしれないが、実は当人にとっては最高の歓びとなるようです。自分をめくらにしてまで琴女に奉仕した佐助。何も求めなくても最高の幸せであった。これを書かれた谷崎さんは、読者に法華経の真髄を味わせたかったのでしょうか。

春琴抄のあらすじ

カテゴリー: 河内の翁, 法華経 | 投稿日: | 投稿者:

河内の翁 について

飲食店の仕事を現役で行いながら、ご理解いただける仲間とともに、「かむながら」という生き方を実践しています。宗教、宗派を超越したものです。 「かむながら」とは、「常に根源神を意識しながら行動する」という意味です。 根源神とは、宇宙を創った存在のことです。宇宙の全て(私達を含む)は、創った存在(根源神)とは常につながっていますので、宇宙そのものとも表現できます。