『正法眼蔵』(道元著)とカムナガラ(1)

Share on Facebook
LINEで送る

『正法眼蔵』(道元著)

<心身脱落>

「君は道元の『正法眼蔵』を読んで私の『カムナガラ』に照らし合わせてくれないかなと言ったね。」

「ああ。どうだった。」

「難しいと言っていたが、それは仏教独特の教えと禅の『公案』のせいだよ。」

「なんだ『公案』て。」

「禅独特のものなんだ。合理的な思考では理解できないことを師匠と言葉を交わすことで理解しようとするんだ。これによって決まりきった思考の形を打ち砕いて直感的な悟りを得ることができるんだよ。禅問答といって、一般の人には訳が分からない会話と捉えれれている。」

「道元は26歳のときに参禅は『心身脱落』になるべしと悟った。 あらゆる人に仏性があるのになぜ修行しないといけないのかと言う疑問に対してわれわれは仏だったからこそ修行できると気づいたんだ。『心身脱落』というのは、禅の修行では自分というものを出さないで仏性そのものになりきるという意味だ。」

「そうだよね。道元の禅は修行の手段ではなく禅が悟りそのものだった。『カムナガラ』で根源神につながるのと同じ意味だ。」

「だから行住坐臥(ぎょうじゅうざが)(歩き、止まり、座り、臥す)のすべて、つまり、仏のすべてが禅なのだよね。だから、日常生活そのものが禅と言うことになる。確かに、君の言う『カムナガラ』と似ている。」

「生活が悟りだと言うのは、『カムナガラ』で行う『奉仕』と同じだとも言える。『奉仕』と言うのは、言葉がぜんぜん違うのだけれど、なにごとも根源神(仏にあたる)に従って行うからね。」

「そうか。」

「道元は修行僧たちに注意するんだよね。悟りは自分から求めてはいけない。求めて得られる悟りは小さなもので与えられる悟りこそ本当の悟りだという。これは『カムナガラ』の『奉仕』に当たるんだよね。悟るために禅の修行をするのではない。『心身脱落』の状態で御心のままに、行うことで導きがあり、直感・悟りが与えられる。」

「『奉仕』と言うのは悟り?」

「神とつながっているので完全な悟りとも言える。人が『無償の奉仕』で喜びを感じている一方で、神はその者に必要なもの全てを与えてくたさるので行動は神そのものだ。」

「そうか。そう聞くと、『カムナガラ』の方が分かりやすいし、宇宙そのものという気がする。パワフルだ。」

「われわれは仏(根源紳が内在するもの)だからこそ修業ができるというのは、あらゆるものに根源紳が内在しているから、我々は仏(根源紳とつながった存在)だからこそ、すべて神とつながっているからこそ『奉仕』できる。と言うことになる。

僕らは創造神(根源紳)の被造物として、内在した創造神に従って奉仕活動する事を『カムナガラ』と言っているんだか、道元は禅と言う修行と共に行うと言っている。言葉の上では、全く別の事を言っているようで実は内容は同じなんだ。すごいね」

「すごいね。」

「1万5千年前、縄文時代にふつうにおこなわれていたと思われる『カムナガラ』が、次第に消滅状態に近くなり、鎌倉時代の道元によって、禅の僧侶の中で復活されていたんだな。この時代もいまとよく似た宇宙的波動があったのかもしれないね。

でも、ありがとう。おかげで道元を知ることができたし、仏教も、禅も修行を極めれば、古道のカムナガラと同じところに導かれるということが分かったよ。」

「いやあ、何か、感じたんだよ。あの難しい表現が結局カムナガラと同じことを言っていたとはね。」

カテゴリー: カムナガラ, 河内の翁 | 投稿日: | 投稿者:

河内の翁 について

飲食店の仕事を現役で行いながら、ご理解いただける仲間とともに、「かむながら」という生き方を実践しています。宗教、宗派を超越したものです。 「かむながら」とは、「常に根源神を意識しながら行動する」という意味です。 根源神とは、宇宙を創った存在のことです。宇宙の全て(私達を含む)は、創った存在(根源神)とは常につながっていますので、宇宙そのものとも表現できます。