『正法眼蔵』(道元著)とカムナガラ(2)

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「ブログを見たらよくわからなかったので説明してほしいよ。君の友達と話していた『心身脱落』と言うのはどういう意味なんだ。」

「そうだね。心も体もすべて『根源神』に明け渡すと言う意味かな。心の中に自分の考えと言うものがあれば、それは不完全な知識と言うことに他ならない。自分が宇宙の中でほんの微々たる経験や知識しかしないのに、その経験や知識に基づいた偏った考えで根源に関わる大きなことを判断すると、まともな結果が出ないと言う事は分かってくれるよね。」

「そうだよ。それじゃ、完全なる知識を持った『根源神』に心を明け渡して『根源神』に全てを委ねると言う意味になるね。」

「その通り。分かってくれたね。」

「その『根源神』と言うのは普通の『神』とどう違うんだ。」

「今、『根源神』と言うのは『創造神』でもある。『創造神』が宇宙を創造したときに、人を作った。ものを作ると言う作業は、何か目的があって作るものだよ。今『創造神』は人に何をして欲しかっただろう。」

「他の存在(『創造神』がつくったあらゆるもの)の面倒を見て欲しかったのかな。」

「そうだね。人にそういう能力が与えられていると言う事は、そういうことになるだろう。」

「それなら、人は、他の存在の面倒見なきゃいけないのだ。」

「そういうことだ。自分も含めて『創造神』が作ったすべての存在の面倒を見る、これが人の根本的な義務なんだ。この義務を果たすことを『奉仕』と言うのだ。無償でこの驚くべき能力を持った人間の心身を与えられたことに対する無償の『奉仕』ということになる。」

「そういうことか。」

「そういうことだよ。だから、人は『奉仕』が嬉しいんだよ。目先の欲にとらわれた行動より環境(人、自然などあらゆる被造物)に何かいいことをすること、それに最高の喜びを感じる。『奉仕』と言うのは、そういうことなんだよ。」

「前回ブログで話ししていた友達は、神が作った全てのもの、その被造物に『奉仕』することを日常の喜びとして感じているんだ。すごいだろう。」

「その友達はそういう人なんだ。そんな人がいたんだ。」

「いる。少ないがいる。だから彼らは経済的に豊かでありうが、貧困であろうが最高に幸せなんだ。彼らは、すべての中に『創造神』を見ている。だから、あの程度の説明で十分に理解してくれた。」

「それと、いま説明してくれたことを、道元はその同じ内容をどうしてあのように難しく書いたんだ?」

「その時代には、宇宙を創造した存在など意識していなかったから、いまの私のように説明してもなかなか理解してもらえなかったんじゃないかな。もともと言葉で説明しきれるような内容ではないんだ。人にとって、言葉はとても便利なものだが、そのためにその言葉に頼ろうとすると、このような根源的なものに対しでは説明しきれない。だから、あのような禅問答のような表現になったのだろう。確かに、いまのわれわれにとっては、非常にわかりにくい。まず読む気など起こらないだろう。しかし、その時の禅や仏教の真摯な修行者にはまだあの方が分かりやすかったのかもしれない。」

「しかし、『奉仕』が最高の歓びだといっても僕にはしっくりこない。」

「だから、その喜びを味わっているその友達は、谷崎潤一郎の『春琴抄』を見て、これを読んでくれというのだな。体験してみなければわからないのだが、他人の体験でも少しは理解できるし、何より人生の違いが悟れる。」

「読んでみるよ。」

「だけど、『奉仕』というのは我々はすでに体験しているのだよ。誰かを喜ばせてあげたら自分も楽しい。誰かというのは、神が創った最高の優れた存在だ。これを喜ばせることをしたら、それはそれは素晴らしい。その人の心になってその思うところを手助けさせてもらう。これは、『奉仕』だよ。すでに君もしている。」

 

カテゴリー: カムナガラ, 河内の翁 | 投稿日: | 投稿者:

河内の翁 について

飲食店の仕事を現役で行いながら、ご理解いただける仲間とともに、「かむながら」という生き方を実践しています。宗教、宗派を超越したものです。 「かむながら」とは、「常に根源神を意識しながら行動する」という意味です。 根源神とは、宇宙を創った存在のことです。宇宙の全て(私達を含む)は、創った存在(根源神)とは常につながっていますので、宇宙そのものとも表現できます。