自分の中の創造神・「かむながら」・キリシタン

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自分を含めて、あらゆるものに創造神を見て生きる生き方、「かむながら」は、至高なる存在を崇拝するというこれまでの宗教の教えを超えています。しかし、どの宗教も、究極にはその域に達することを望んでいるのではないでしょうか。

すべてのものの中に、至高の神が存在することを知るということは、宇宙がその神によってつくられ、維持されていることを知ることでもあります。創られたものはそれで終わりではありません。創られた意図に基づき、進化発展していくものです。その被創造物の私たち人間も、宇宙の進化発展の役割の部分を担っています。

心身の深底に存在する至高の神の意志を実現できるように、心身をしっかりとその至高の神につながなければなりません。そのつながりが強固であれば、与えられた心身を通じて神の意志を実現しようと働くでしょう。自分の頭で考えるのではなく、何を与えられているのか、何をしろといわれているのか、自分の周りで変化していく環境と自分の関わりを見て、行動することになるでしょう。

私の実践する「かむながら」の生き方は、神を崇拝するにとどまらず、頭で自分の計画を実行する生き方をやめて、神の意図を実行する生き方をします。日々にその習性を取り戻して行動します。自分の深底は神とつながっている。環境も深底は神とつながっている。ともにつながりながら変化していく。その変化を感じ取りながら日々の行動をする。

カトリック、イグナチオ・ロヨラの「霊操」は神とつながっている。その「霊操」を実践していたイエズス会が戦国時代の日本のキリシタンをつくった。明日が信じられない下剋上の混乱の中で、不安の日々を救ってくれたキリスト教。高山右近や、細川ガラシャは神とつながっている。彼らの運命は、外から見ると厳しいものに見える。しかし、心の喜びはどれほど大きかったか。その喜びの性質はどんなものであったのか。そして、ともに同じ道を歩んだキリシタンたちとのつながりはどのような喜びを生じさせたのか。

前回のブログで書いたように、半田友味さんの小説にそんな喜びを描いてほしい。目先の苦しみや喜びと違って、深い喜びはどんなものであったのか。

カテゴリー: カムナガラ, 宇宙意識, 河内の翁 | 投稿日: | 投稿者:

河内の翁 について

飲食店の仕事を現役で行いながら、ご理解いただける仲間とともに、「かむながら」という生き方を実践しています。宗教、宗派を超越したものです。 「かむながら」とは、「常に根源神を意識しながら行動する」という意味です。 根源神とは、宇宙を創った存在のことです。宇宙の全て(私達を含む)は、創った存在(根源神)とは常につながっていますので、宇宙そのものとも表現できます。