無上の喜び2

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友人A)「無上の喜び」がどんなものであるか、いまひとつ、よく分からない。

私)これは説明不可能だ。体験してみないと分からない。天理教でいう「陽気ぐらし」がもっとも近いかな。楽しい心にならなければ、神に寄り添うことができないからだ。神を恐れたり、単に崇拝するという方法では「無上の喜び」は体感できない。「恐れ、憎しみ、裁き」などというのは、次元の違う心の働きだ。 神の心は、知性で表現すれば、「愛と奉仕」で、その行為の結果を知性で知ることはできない。深奥なる神と同じ種類の心(無上の喜び)になってこそ、神とつながることができるし、役割を果たすことができる。

友人A)少しわかるような気もするが、どうすれば、深奥なる神と同じ種類の心(無上の喜び)になれるのか、まだよく分からない。

私)何かが変化すると、それに関わるあらゆる存在が、その個人においても、あらゆる面から様々な影響を受ける。知性が考えるように、良いこと、悪いことなどと、単純に決めつけられるものではない。神より与えられた自分の体ひとつでも、とても知性だけで理解しきれるものではない。

ある人のために良かれと思ってしたことが、回りまわって悪い結果となってしまったこと、あるいは、良くなった部分もあるが、別の部分は悪くなってしまったということもある。良い結果が出たときでさえ、あとになって悪い結果を生むこともある。小宇宙と呼ばれる人の体が、さまざまなつながりを持っているように、人と人、人と環境の関わりも見えないものを含めた、多くのつながりがある。

何事も、知性だけでは理解や判断ができない。全能なる神に聞くしかない。ただ、聞いても知性で受け取るだけの習慣しかない私たちには、神の返事が理解できない。その時に、わたしたちに出来ることは、神が望まれると思われることを実行し、成り行きを体感することである。「ああ、このためにあの行動をとらなければいけなかったのか」と思うことが後でできてくる。行為の時点では、多岐多様なつながりはなかなか見えないものだ。

友人K)何をすべきか知性で判断できないのなら、何もできないではないか。

私)うん。通常どおり行動していいんだ。ただ、何か感じるときが出てくる。「なぜ?」と思いながらもその行動をとるべきだと感じるときだ。その感じというのは、何度か体験すると分かる。その時、「無上の喜び」のこころが必要なんだ。「無上の」というのは、「普通の喜びの心」ではないことを意味している。「無上」というのは、次元が違うということだ。それは我々が日常に体験する喜怒哀楽とは違って、海のように豊かなエネルギーだ。行動を起こしたくて待ち構えている。

「普通の喜びの心」が発達して「無上の喜びの心」にまで変化するのではない。心の奥底が開いて神とつながり、そこから湧き起るエネルギーが「無上の喜び」となるのだ。喜びといっても、同じ質の喜びではない。いや、本当は喜びという表現がふさわしくないのかもしれないが今の私には適切な言葉が見当たらない。

友人K)要するに、神のエネルギーで心を満たせということなんだな。

私)そう、そこまで理解して頂ければ最高だ。

友人K)そういっても、どうしたら、神のエネルギーを心に満たすことができるのか分かっていないから意味がない。

私)そうだね。私は「かむながら」と「マッサージ体操」だった。一般的にいえば、宇宙に遍在する唯一神を感じ取ろうと意識しながら行動することだ。

友人K)ポイントは、意識と行動か。 

私)そう。敢えていえば、そこに熱意が必要だ。しかし、この場合の熱意は、始めれば、自然に強くなっていく。そういうものなんだ。