恩智城の時代背景

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恩智が結束を固めた時代というのはどんな時代だったのかと、楠正成の伝記を読んでみました。『楠木正成』(新井孝重著)IMG_20150704_123850

 

異常気象、地震、疫病、治安のみだれ、統治最高責任者である天皇家内部の争い、鎌倉幕府の最高責任者北条高時の闘犬、田楽好きによる御家人に対する荷重な負担、それは住民の叫び声が聞こえてきそうな時代だったのです。

1325年6月、大豪雨が比叡山無動寺の学舎17宇を流失し、坂本の人家は濁流にのまれ、死者は500人に及びました。

同年10月、京都で大地震が起こります。その前にも、1293年、1317年、1323年と鎌倉、京都で交互に地震が起こっています。政治の中心地で地震が発生するというのは、政治の大きな不調和と関係しているのでしょうか。

1329年から1330年にかけて、疫病「しはぶきやみ」(咳の病)が流行し、多くの人の命を奪いました。河原には死人の山ができていただろうと書いています。

連夜、流星があやしく光を放ち、宮中天文博士による内々の占文は、「兵乱」「兵革」を予言していました。

本来、人の心を育てるはずの僧侶も欲望に溺れ、比叡山の僧兵や、神人、悪党どもは寺の内外で戦闘に明け暮れていました。

後醍醐天皇が密かに討幕の計画を練っていたとき、それを秘密裡に支える人たちのの無礼講という会合では、身分の上下もおかまいなし、ほとんど裸の状態で肌が透き通る衣をきた若い女性をはべらせ、料理は山海の珍味を尽くし、うまい酒は泉のように用意されていたといいます。この世の秩序に嫌気がさして、それを消し去ろうという情念の現れだと著者は書いています。

「世も末」ということばがありますが、まさにこのときをいうのだと思うほど典型的な姿でした。私は精神秩序のみだれを非難するのではありません。著者がいうようにその秩序に真実がなくなっていたことを表しているのでしょう。

堕落しきった仏教とは反対に、真言密教が山岳を修行の場とする山伏修験信仰と融合して、生産と生活、戦闘との関連から民間武装民と深くかかわっていました。

これが民間武装民として恩智城をつくり、それを守る恩智の住民達の姿であり、強い結束をつくる背景であったようです。

 

カテゴリー: 河内の翁, 河内歴史 | 投稿日: | 投稿者:

河内の翁 について

飲食店の仕事を現役で行いながら、ご理解いただける仲間とともに、「かむながら」という生き方を実践しています。宗教、宗派を超越したものです。 「かむながら」とは、「常に根源神を意識しながら行動する」という意味です。 根源神とは、宇宙を創った存在のことです。宇宙の全て(私達を含む)は、創った存在(根源神)とは常につながっていますので、宇宙そのものとも表現できます。