コープの野村恩智と河内木綿工場

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東高野街道と恩智道の交差するところに、萩原邸がある。これを見るたびに一時全国的な規模になっていた河内木綿にかかわっていたのではないかと思っていました。地蔵盆で隣の地蔵さんを世話する萩原さんをみかけ、このあたりの歴史に関するお話しを聞きたいとお願いしたら快く引き受けていただきました。これまでの「河内の翁」のブログの記事を印刷に出してポストに入れておいたら、お電話いただいて、そのお電話でいくつか教えていただきました。

80~90歳くらいの人なら、知っていることらしいのですが、私には初耳です。萩原さんの木綿工場は東高野街道沿い、萩原邸の北側、山手寄りにあったということです。その後、木綿工場がいまの「コープ野村恩智」ができている地に移転した跡地には別の工場ができていて、その工場があったのは私も知っています。最近、そこも住宅に変わりました。

移転した木綿工場は、時代とともに、別の工場となり、さらに私の小さい時に「浅田可鍛」という鋳もの工場になりました。従業員のかたには美家古にも食事に来ていただきました。硫酸を扱っていて、ベテランの人は「硫酸の中に手をいれても火傷しない」という話をすると、美家古のスタッフもうなずいて、「私も180度のてんぷら油に手をいれても火傷しない」といっていました。人の体とは不思議なものですね。慣れでそんなに変われるものなんですね。

田舎から出てきて独身寮に入って居る人も大勢いて、正月も帰らない若い人たちは、美家古のスタッフと一緒に美家古で餅つきをして楽しんでいました。

「浅田可鍛」には地元の人も多く働いていて、「浅田可鍛」時代の話はときどき聞かせていただきました。この土地からも、縄文時代の遺跡が出ています。

その工場も地方に移転して、跡地に大きな分譲マンション「コープ野村恩智」が建ちました。そのマンションも高齢化がすすんでいます。

コープ野村恩智

土地の様子は時代とともに、めまぐるしく変わり、そこに関わる人もそれにつれて変わっていくのですね。それぞれの人になつかしい思い出を残して。

河内木綿が全国に行き渡っていたころ、輸送ルートはどうだったのでしょうかという質問に対して、

「詳しいことは分からないが、淀川から舟で全国に運ばれ、木綿とともに、他の品物や、文化の交流もあった。司馬遼太郎の「菜の花の沖」を読んだことがありますか。」

と聞かれました。哲学書や科学書などはよく読みましたが小説と歴史は、全く関心がなかったので、69歳になるまでほとんど読んでいません。小説は、先日三浦綾子さんの本を数冊いただいて興味深く読ませていただきました。歴史もこのブログを書き始めて知り、それぞれの時代を生きた人々にふれることができた気がしています。

165号線を走った帰り、さっそく、柏原市立図書館に寄って、司馬遼太郎の「菜の花の沖」全6巻のうち、第1巻を借りてきました。

菜の花の沖

淡路の都志の浦で生まれた主人公が海運業へかかわっていく背景になるところを読みました。地域社会にがんじがらめになった不自由な世界、しかし、しっかりと確実に生きていく地域の組織と一人の人の人生が、恩智の山際、旧街道から上の少し前の社会を連想して時代背景も見えてきます。楽しみです。

六甲山麓の住吉川、芦屋川の急流ぞいに水車工場がうまれ、菜種油を昼夜搾取しはじめて、効果だった菜種油は、大量生産によってやすくなり、全国に配るために、兵庫や西宮あたりの海運業が栄えた。明石海峡を隔てた淡路は、対岸で人口がふえるため、淡路ではさかんに瓦を焼いて舟で送った。対岸の需要に応えて、淡路島では大量のアブラナ(菜種菜)が植えられた。

大和川の跡地に木綿畑が一面にできたのと同じような現象がここでも起こっています。1769年、この地の貧しい家に主人公・幼名キッキャが生まれます。11歳の時貧乏百姓弥吉家の自分の食い扶持を減らすために隣村の親戚の小間物屋に奉公にいった。そこの村ではよそ者と呼ばれていじめられる。私が小さいころ、恩智でも地元以外の人間はよそ者と呼んで、見下すような目先で見ていました。(いまは、教育のおかげでみんな大切な仲間として意識しています。)やがて、キッキャは年頃になり、庶民の元服である「へこ祝い」をする。名前を嘉兵衛とかえる。小字ごとにある若衆組に入ることになる。恩智では、氏子青年団に入るようなものでしょう。ここで、上下関係の礼儀や、社会のさまざまを学びます。

このあたりまでしか読んでいませんが、江戸幕府が五百石以上の船を取り壊し、製造を禁止して、100年の年月が経った頃から、菱垣船とか、樽廻船などの長距離開運が盛んになって、やがて、航路が全国的に安定する頃に河内木綿がさかんになってくるのですね。おもしろくなってきます。本の内容はまた紹介したいと思います。

カテゴリー: 河内の翁, 河内歴史 | 投稿日: | 投稿者:

河内の翁 について

飲食店の仕事を現役で行いながら、ご理解いただける仲間とともに、「かむながら」という生き方を実践しています。宗教、宗派を超越したものです。 「かむながら」とは、「常に根源神を意識しながら行動する」という意味です。 根源神とは、宇宙を創った存在のことです。宇宙の全て(私達を含む)は、創った存在(根源神)とは常につながっていますので、宇宙そのものとも表現できます。