カテゴリー別アーカイブ: 河内の翁

つながり力の強化(人と人)

知人L)河内でも大きな戦いが何度もあったんだよね。

私)過去の戦いは支配欲によるものが多い。それに宗教などを利用したものもある。それに巻き込まれたその地の住民は突然にして、略奪、殺害など生きるすべの根本を失ってしまう。

知人L)そうだね。いま、日本は平和だが、世界に目を向ければ、戦争中、あるいは、戦争を起こしかねない状態の国がある。

私)自分だけの考えが正しいと信じて、従わないものを殺害する。建物を壊し、豊かな自然を破壊する。ともに楽しむはずの仲間の未来を苦しみのどん底に突き落とす。

知人L)神が存在するなら、どうしてこのようなことを許しているのだろう。

私)神だって、自然災害という形で、多くの人の命を奪ったりする。ビッグバーンで、それまで存在しなかった宇宙を創造するが、最後には、それらを消滅させてしまう。この宇宙は神そのもので、この宇宙の姿は、神が咲かせる花のようなものなのだろうか。

知人L)分からないね。知性を超えたものなんだろう。

私)少なくとも、神の創造したその宇宙では、人を苦しみに陥れたものは、本人は気づかないが、その責めは確実にその本人が受ける。反対に人を活かそうと努力するものは、自分が活かされ、力が与えられる。「人を助ければ、我が身助かる」という天理教の教えがあるが、「人を活かせば、自分が活かされる」というのが、人と人のつながりの法則だと思うよ。

知人L)確かにそういうところはあると思う。助けた人から返されるというのではなく、別の人から助けを受ける。そんな経験を何度かしてきた。別にそれを期待して人助けをするのじゃないけど。

私)私はいつも「つながり」の話をするが、若いときの私の失敗の体験から身についたものだろうが、ちょっと、聞いてくれ。 学校生活などでは、優等生と呼ばれる人たちの中には、自分目線で人を評価するということが多いかと思われる。学力が意識の80%というような人が多いからだ。

人は、自分の持っているものだけに照らし合わせて人を評価しがちだ。しかし、人は自分の持っていないもの、自分が気づいていないものを持っている存在だと認識すれば、いままで見えなかったものが見えてくる。その人が社会的には劣った評価をされる存在であっても、何らかの形で自分を助けてくれていることに気づいて感謝する。これが「つながり」力を強化する精神体操だ。

知人L)社会が出来てそのつながりを守る法ができた。それによってつながり力が強化されたということもある。それによって、個人プレーでは達成できなかった、工夫や、習慣や、施設が残されていった。毎日、食用動物や魚を取って命をつないでいた時代から、今のように、お金を出せば日常の食事に事欠かない豊かな人社会が出来上がっている。

私)そうだ。人は人とつながることで、大きな力となる。人を知ろうとする努力と、ともに作業をする事と、行為ある会話を交わすことで、つながり力が強化される。何かを始めれば、人もそれによって動く。人の働きに参加すれば、新たな動きが生まれる。それを楽しむことだ。ひとりで行おうとせずに人とつながりながら行う。

 

無上の喜び2

友人A)「無上の喜び」がどんなものであるか、いまひとつ、よく分からない。

私)これは説明不可能だ。体験してみないと分からない。天理教でいう「陽気ぐらし」がもっとも近いかな。楽しい心にならなければ、神に寄り添うことができないからだ。神を恐れたり、単に崇拝するという方法では「無上の喜び」は体感できない。「恐れ、憎しみ、裁き」などというのは、次元の違う心の働きだ。 神の心は、知性で表現すれば、「愛と奉仕」で、その行為の結果を知性で知ることはできない。深奥なる神と同じ種類の心(無上の喜び)になってこそ、神とつながることができるし、役割を果たすことができる。

友人A)少しわかるような気もするが、どうすれば、深奥なる神と同じ種類の心(無上の喜び)になれるのか、まだよく分からない。

私)何かが変化すると、それに関わるあらゆる存在が、その個人においても、あらゆる面から様々な影響を受ける。知性が考えるように、良いこと、悪いことなどと、単純に決めつけられるものではない。神より与えられた自分の体ひとつでも、とても知性だけで理解しきれるものではない。

ある人のために良かれと思ってしたことが、回りまわって悪い結果となってしまったこと、あるいは、良くなった部分もあるが、別の部分は悪くなってしまったということもある。良い結果が出たときでさえ、あとになって悪い結果を生むこともある。小宇宙と呼ばれる人の体が、さまざまなつながりを持っているように、人と人、人と環境の関わりも見えないものを含めた、多くのつながりがある。

何事も、知性だけでは理解や判断ができない。全能なる神に聞くしかない。ただ、聞いても知性で受け取るだけの習慣しかない私たちには、神の返事が理解できない。その時に、わたしたちに出来ることは、神が望まれると思われることを実行し、成り行きを体感することである。「ああ、このためにあの行動をとらなければいけなかったのか」と思うことが後でできてくる。行為の時点では、多岐多様なつながりはなかなか見えないものだ。

友人K)何をすべきか知性で判断できないのなら、何もできないではないか。

私)うん。通常どおり行動していいんだ。ただ、何か感じるときが出てくる。「なぜ?」と思いながらもその行動をとるべきだと感じるときだ。その感じというのは、何度か体験すると分かる。その時、「無上の喜び」のこころが必要なんだ。「無上の」というのは、「普通の喜びの心」ではないことを意味している。「無上」というのは、次元が違うということだ。それは我々が日常に体験する喜怒哀楽とは違って、海のように豊かなエネルギーだ。行動を起こしたくて待ち構えている。

「普通の喜びの心」が発達して「無上の喜びの心」にまで変化するのではない。心の奥底が開いて神とつながり、そこから湧き起るエネルギーが「無上の喜び」となるのだ。喜びといっても、同じ質の喜びではない。いや、本当は喜びという表現がふさわしくないのかもしれないが今の私には適切な言葉が見当たらない。

友人K)要するに、神のエネルギーで心を満たせということなんだな。

私)そう、そこまで理解して頂ければ最高だ。

友人K)そういっても、どうしたら、神のエネルギーを心に満たすことができるのか分かっていないから意味がない。

私)そうだね。私は「かむながら」と「マッサージ体操」だった。一般的にいえば、宇宙に遍在する唯一神を感じ取ろうと意識しながら行動することだ。

友人K)ポイントは、意識と行動か。 

私)そう。敢えていえば、そこに熱意が必要だ。しかし、この場合の熱意は、始めれば、自然に強くなっていく。そういうものなんだ。