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神とつながる生き方「かむながら」

友人M)畑中さんは神とつながる生き方「かむながら」の実践をされているということですが、どういうものなのですか?

私)そうですね。君にもわかってもらえるような例を出そう。たとえば、95歳の母のことですね。君もここを訪問してくれる時に通ってくる、数年前に母のために作った玄関先の造作物。玄関までは4段の段差があります。以前に、この段差が杖をついて歩行する、母の歩行を困難にするので、滑り止めのついた板で覆った。

介護補助の方から、ベニヤ板を置くだけでいいから、この段差を無くしてくださいといわれた。しかし、やってみると、不安定で滑りやすい環境になってしまった。それで建材屋さんに相談すると滑り止めテープを紹介していただいた。自宅の倉庫をみると、父が残したベニヤ板や、角材、その他の切れ端の木材があった。ペンキも使いさしがいくつかあった。電動のこぎりもある。

自動のねじ回しもあったのだが、すぐに止まってしまうので建材やさんに持ち込むと、余分にあるからと中古の電動ねじ回しを無償でいただいた。いびつな現場に合わせて作るいびつな工作物なので、自信などなかったよ。やれというならやるしかないと取り掛かった。結局、仕事の合間を利用してつくるので数週間かかった。

すべらないように止めておくブロックを利用した受け台、使いさしのペンキを混ぜて防腐剤がわりにぬるなど、その場で工夫し、その都度起きる不都合に対処しながら、当初自分では想像もできなかった、見た目も素晴らしいものができあがり、皆さんにお褒めのことばをいただいた。

それが、先日、腐って落ち込むところができてしまった。その部分だけ補修してみたのだが、近いうちに全部やり直さなければ、危険が残る。こんどは残り物の木材がないし、その費用や製造の時間を考えるとぞっとした。何時ものように見えない世界の指示を待っていると、家内が、いっそうのこと、外してしまったらという。

私)「えっ」

家内)「週に一回、グループホームから帰宅するときも、いまは母は完全に車いすの移動だし、介護タクシーの方も、玄関から廊下までも車いすごと、持ち上げてくれるから、玄関先の石段ぐらい持ち上げてくださるでしょう。」

私)それなら、平らなところの玉砂利と石の道の覆いをやり直すだけで行けそうだ。

痛んだ熱いベニヤ板を交換しなければならないが、余った木材置き場にはもうない。でも30cm幅の熱い木材なら少し足りないかもしれないが、ほぼある。角材も外したものがまだしっかりしていて使える。新たなものを作るなら、ほぼできそうだ。あとは、いつものように神任せ。その場の思いつきや、周囲のアドバイスをいただきながら実行していく。

同じことをするのでも、時がたてば条件や環境は変わっている。同じやり方に執着せずに神任せ。時間がないならないように。お金がないならないように。材料が足りないなら足りないなりに。人のアドバイス、自分に沸き起こるアイデア。これらが、思いもよらない風に運んで、いつのまにか当初思った以上のものが出来上がる。

こんな感じが「かむながら」。その中でそれとは違った、別件のいろいろな働きかけがいろんな人から起きる。それが将来何に必要なのか分からない。それでも見えない先に導く神の存在を感じながら、自分の役目を果たしていく。時折、ああ、こういうことだったのかと納得しながら。

友人M)ふつうの教育を受けた人は、最後まで計画を立ててから、実行するが、そんな方法であんな素晴らしいものが完成するとは。

私)私も、ひとりで計画を立て、その計画を正確に実行する方法でやってきた。しかし、神とつながるということは、すべてとつながること。最高のものができて当たり前。自分の計画では計画したレベルにも達しないが、神任せだと、自己のレベルをはるかに超えた自己実現ができる。これが人の本来の姿なんだと感動する。

友人M)「かむながら」って、そんなものなんだ。きびしい自己のコントロールが必要なんだと思っていたよ。

私)そんな大変なものなら僕にできるわけがないだろう。マッサージ体操(つながり体操)同様、人に勧めたりしないよ。「かむながら」も、誰にでもできるやさしいものだが、やってみなければ、分からない。

友人M)素晴らしい成果に恵まれるし、周りから助け船が現れるし、自分はきらきら輝いて仕事ができる。しかも、責任は神が引き受けてくれる。自分は全力投球させてもらう。こういうことか?

私)そのとおり。人のまねをしなくていい。自分の役割に専念すればいい。あらゆるものにつながり、そこからエネルギーを十分にいただけるので、思いっきり頑張れる。しかも一人ではない。つながれる存在たちとともに喜びに満ちて活動できる。

 

日本神道とキリスト教2

友人M)マグアナのマリア? イエスを生んだマリアではないですね。

私)ええ、別の人です。かなり前ですが、ブログでも紹介しました。キリスト教では、「人は神の教えに反したことをしたために原罪を負うことになった。イエスはそれを一人で受け止めて、人々を救ってくれた。だから神の教えに反することをしてはならないと教えます。しかし、知性で神の教えをある程度理解しても、抜けてしまうことは多くあります。本来はイエスやマグダラのマリアのように、神と直接繋がってその教えを感じていくことも必要です。Mさんがキリスト教に対して、今一つ没頭できないのはその辺りのことでしょうか。

友人M)いや、まだよく理解できていません。マグダラのマリヤのことももう少し詳しく知りたいですね。

私)これも以前に紹介したことなのですが、江戸時代のキリスト教迫害、踏み絵の話ですね。これも私はひどい話だなと単純に理解していました。信長などは一夫多妻を認めてくれるならキリスト教も大歓迎という態度でしたし、秀吉も当初は好感をもっていたようです。なぜ、突然排除し始めたのか?それも、見方によっては異常ともいえるほどに。

友人M)そうですね。

私)その頃、大航海時代を迎えて、西欧列強はアフリカやアジア諸国を植民地化し、現地民を殺害したり、奴隷売買したりしていた。その時に、スペイン船サン=フェリペ号が土佐沖で座礁し、その時の取り調べから、宣教師を送った後、他の諸国と同様に日本を植民地化しようとするスペインの計画を知ることになった。秀吉も家康も天皇家の血を引く。天皇家の祖先神がこれを阻止させた。私はこのように見ています。

友人M)そうか、それで日本は植民地化されることからまぬがれたのか。

私)江戸時代に拷問を受けた隠れキリシタンや、宣教師の話をブログで紹介しましたが、そのとき、宣教師はこう言います。「どうして、神は助けてくれないのか。イエスならどうしたのだろう。」

私は、即、こう思いました。

「イエスなら、踏み絵は踏んだ。神は信者が死ぬことを望まない。」

その確信は、神と直接繋がることで起きます。本来イエスは神の意志に背かないように導きます。しかし、神の意志は知性だけで分かるものではありません。神と直接繋がることが前提です。もし、その時代に、キリスト教が神と直接繋がることを重視していたら、植民地化にキリスト教が利用されることはなかったでしょう。

友人M)しかし、神と直接繋がるということは、いまの時代でも難しいと思いますよ。いまの日本でも、どれだけの人々が神と直接繋がることができるだろう。

私)おっしゃるとおりです。しかし、はじめから全員というのではなく、最初は100人に一人でもいい。日本人はもともとその素質を持っています。神と直接繋がるということに関しては、縄文時代から続いています。5000~10000年ぐらいの歴史があります。その神道はキリスト教に起源があるかもしれません。