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大黒天(3)行ってきました。

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忙しくて山登りができていませんでした。知人が金剛山に行ってきた話をしていたので、4月20日の私の休みは楠正成の千早城のある金剛山に登ろうと決めていました。その途中で駒ヶ谷駅の西側、石川の東にある大黒寺に寄りました。

住職さんに出会ったので、ブログに書きたいので写真をとらせてもらえるか尋ねたところ、本堂を開けて頂いて説明していただきました。

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中央が大黒天です。

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左が役小角です。

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右が弘法大師です。

「このあと金剛山に上る予定です。」

と話すと、

「役小角と反対のコースですね。」

とおっしゃいました。私は役小角が葛城山で大黒天に出会ったと覚えていたのでこのとき勘違いかなと思ったのですが、金剛山に葛木神社があったので、どちらも葛城地方ということで、特に区別はしていないのかなと受け取りました。頂上に役小角の行者堂がありました。

一日中、役小角に導かれているような気がしていました。楠正成の千早城での戦いのときは大黒天が楠正成を守ったに違いないと感じました。

登山のあと知人に聞いていたおいしい豆腐料理をいただきました。素晴らしい休日でした。ありがとうございます。

大黒天(2)駒ヶ谷・大黒寺

(前回より続く)

「小角はありがたさに夢中になり、宝珠を拾うと山を伝い谷を渡って、その後を追って行ったが、丁度小黒の里の山中まで来ると突然その姿を見失ってしまった。けれどその時フト傍らを見ると、先程示現した大黒天そのままの姿の石があったので、小角はこれこそ吾をここに導いた大黒天の形見であると思って、早速前刻の神のお告げに従って、その傍らにあった桜の木を伐って、これをもって大黒天の像を刻んだ。

そしてその付近に一堂を建立するとこれを本尊として安置し寺号も天道山大黒寺と名付け、小角はここで広く世間の正直にして不運な者に、秘法を以て福録長寿を授け救済に盡したところ、その霊験著しいので、これを聞き伝えた人々はいずれも福徳を授からんものと、我も我もと参詣し大黒天を尊信するようになったと言う。」

「正直にして不運な者に」と書かれていますので、大黒天にお参りした人々は福録長寿をいただいたに違いありません。しかし、シヴァ神のパワーは強烈で願は必ず叶えられるそうですが、その後信仰をおろそかにすると、眷属が許さないそうで、それを恐れる人はシヴァ神には願い事をしないと聞いています。

大黒天は室町時代に大国主命と融合して憤怒から微笑の表情に変わり、江戸時代には福徳財宝を司る神となりました。

大黒天の真言は「オンマカキャラヤソワカ」ですが、シヴァ神の真言は「オンナマシヴァーヤソワカ」です。この違いは何なのでしょう。

大黒天(1)駒ヶ谷・大黒寺

「役小角が葛城の山で修行していると、甲子のある日の事、急に天地が真っ青になり物凄い地鳴りがして、全山がグラグラと動き出した。何事であろうと小角が驚いて天を仰ぐと炭を流したような黒雲が、突然キリキリと切り裂かれ、その裂け目から忽ち五色に輝く美しい雲が湧きだした。しかもその美しい雲の上にアリアリと大黒天の尊い姿があらわれたので、小角はこの思い掛けぬ神の示現に思わず大地にひれ伏していると、やがて、大黒天は雲の中から小角に向かって

『汝の日頃の修行に愛で、福禄長寿が意の如くになる秘宝を授けてやるからこの後とも我が姿を彫み衆生に示して済度につくせよ』と言って右手に持っていた宝珠を投げ与え、そのまま再び乾の方へ飛び去った。」(一部漢字等現在風に変更して紹介しました)『伝説の河内』(松本壮吉著)

美家古の配達区域に羽曳野市駒ヶ谷がありますが、その駅の近くに小黒(おぐろ)という地名があり、そこに大黒寺というお寺があります。近くを通った時にどんなお寺だろうと入ってみたことがありますが、『伝説の河内』に大黒寺の縁起が紹介されていました。

役小角が建立した歴史の古いお寺だったのですね。甲子の日は変化が起きやすい日と言われていますが、この日に修行中の役小角に大黒天が現れたのですね。大黒天はもともとインドのシヴァ神で、破壊の神です。神々の中では最も恐れられたパワーのある神です。この時役小角は40前の力あふれた時で、シヴァ神から見れば頼もしい男に映ったに違いありません。

福録長寿が思うままになる秘法を授けたというのですから、役小角は当時の支配者階級の人と比べてあまりにも恵まれぬ衆生を救いたかったのでしょうね。

(次回に続く)

 

八尾市恩智神社・大御食津彦命

先日恩智神社に一日参りにいったら大竹から来られたという年配女性に声をかけられました。戦いに縁の濃い神様はいやだからというので恩智神社にお参りされたといいます。

「そうですね。ここのお祭りされている大御食津彦という神様はとっても優しい神様で、常に村人のことを思い、食べ物が豊かであるように野山を手入れされていたのですよ。」と説明して、続けて参拝されるようおすすめしました。それに関する話を『伝説の河内』(松本壮吉著)より現代文に一部修正して紹介します。

「大御食津彦命(おおみけつひこのみこと)は食べ物の神様で、毎日雨の日といわず、風の日といわず、春も夏も秋も冬も野山に稔る色々の食べ物のことを心配して、野山を見回りながら手入れをしていた。ところがあるときのこと、この神様が野道を歩いていると葦(あし)が茂っているので、これを持って帰って粽(ちまき)をつくろうと思い、葦を取ろうとしたが、葦の葉で神様の目をつき、ついにこれがため、両眼を潰(つぶ)してしまった。それでこの神はそれ以来粽を大変嫌ってこれを食べぬようにした。またこの神のお使い番は兎(うさぎ)であって、いつも兎が命の名代となって、野山の見張りをしていたが、猪(いのしし)が兎を見つけるとすぐ殺して食べたり、虐(いじめ)めたりするので神は大変猪を憎まれて、猪と名のつくものは何でも嫌われたということである。」

「大御食津」は「豊受の神」のことで、「豊受」は「豊宇気」とも書き、「豊」は美称、で「受」、すなわち「宇気」は宇宙という入れ物に満ちた気のことで宇宙を動かすエネルギー、すなわち食べ物です。この神様はこの基本的な部分を司るのですね。

この神の受難に遠慮し、恩智では猪の子餅をつかず、5月5日に粽をつくらない。他社が茅の輪くぐりをしている頃にも恩智神社にはその影もない。それにはこんなわけがあったのですね。ただし、恩智神社でも数年前から茅の輪くぐりが始められて、神社の周辺では猪がはびこり、いまでは兎を見ることはなくなりました。もう神様の世界でもこの事件は時効になったのでしょうか。

 

八尾市・恩智神社の子を産む石?

元旦に子供たちの家族が集まった席に、母が臨席して、孫に「子を産む石を抱いた兎」を寄贈した話をしました。私は。亡き父から聞いていましたが、子供に話したことはありません。

石は恩智神社の上にあった天川山春日部神社から持ってきたもので、石が成長して子を産むというのです。石など不変のものと思っていた私は驚いて、そんな石があったのか、どういう種類の石だろうと興味を持ったのですが、そのまま忘れていました。

宮司さんに、その兎に父母の名前を入れようといわれてお断りしたら、そのかわりに礼状をいただいて、その礼状が先日出てきたといいます。92歳の母は、1か月まえにころんで圧迫骨折を3か所もしてようやく数日前に退院したばかりなのに、いつ見つけたのだろうと思いながら聞いていました。

4段もコルセットをして、坐っているのが心配でしたが母はその話だけをして、ベットに戻りました。

本殿で祈祷を受けたときに、本殿に祀られたその兎を子供たちと確認してきました。亡き父から宮司さんが神社の宝にしたいとおっしゃったと聞いていましたが、これは神様が、「変わらないように見えても宇宙のすべてのものが変化している」ということを教えてくださったのかなと受け取りました。

でも、「子を産む石」なんて縁起がいいですね。宝にしたい気持ちがわかります。そういえば、世間では神社離れをしているというのに、恩智神社は四六時中、祈祷の絶え間がなく、境内は参拝の人で埋め尽くされています。やはり、恩智神社は縁起のよい神社と言えますね。

(恩智神社主祭神は大御食津彦と大御食津姫ですが、その使いの神が兎である話を以前に書かせていただきました。)

住吉神社の祭神

住吉神社と恩智神社は神功皇后のときから、強い縁があります。この神社の祭神、筒之男神のことがよく分からなかったのですが、『毎日グラフ別冊・古代史を歩く7・河内』(編集長西山正)の中で吉田豊さんがかかれた記事を見て、納得できました。まずその記事を紹介します。

「黄泉の国からやっとの思いで逃げ帰ることのできた伊邪那伎命(いざなぎのみ

こと)は、筑紫の阿波岐原(あわきはら)で禊(みそぎ)を行う。瀬に入り、水ですすいだ後に、日本神話のなかでも最も重要な神々が誕生した。その神は、天照大神・月読神・須佐之男命の三神、表・中・底の棉津見神、そして同じく表・中・底の筒之男命すなわち住吉三神である。これが『記紀』神話に記された住吉神の出現譚である。また、記紀にはもう一カ所、筒之男神が登場する。神功皇后の朝鮮半島出兵記事である。筑紫から発信した軍船の守護神として活躍した筒之男神は、大和方面への帰路、穴門の山田邑(下関市)でその荒御魂を穴門氏にまつらせる。後の長門一之宮住吉神社である。またその和魂を津守氏にまつらせる。これが摂津の住吉大社である。

筒之男神とは、どんな神か。三神としてまつられるのはなぜか。諸説があるが、私は『つつ』を星の古名とし、筒之男三神をオリオン座の三つ星とする説に魅力を感じる。この星は、天の赤道に沿って、縦一文字に東から出て横一文字に西に沈む。その位置によって、方角や時刻、季節を知ることができたといわれる。」

太陽神である天照大神、月神である月読神、筒之男神が星の神であれば、納得します。ひとの力の及ばない宇宙から人を導き、護ってくれる存在の一つであったのですね。

八尾市本町・慈願寺・仏教

『八尾から見た日本の歴史』(八尾市教育委員会教育相談所)に寺内町にある慈願寺(1223年建立)が紹介されています。寺のおこりを述べた由緒書に

「河内の八尾寺内町にある慈願寺を開いたのは信願房である。親鸞聖人が関東で教えを広めている二十数年の間に弟子となり、信願房法心という名前をいただいた。

信願房は親鸞上人がなくなられた後、その遺言を守って河内の久宝寺村に寺を建てて名前を慈願寺とした」(慈願寺文書・由緒書写)とあります。(中略)

これまでの仏教信仰では、ともすれば寺を建てたり、仏の尊像を描くことが、仏への信仰と考えられていました。しかし、親鸞は、このようなゆとりのある人々だけにできる信仰を批判し、誰もができる庶民の信仰として「南無阿弥陀仏」を唱えることで極楽往生をとげることができると主張しました。念佛を唱えて阿弥陀仏にすがる信仰は、これまで仏教から遠ざけられていた商人や漁民や農民にも可能な信仰でした。」

最初、貴族のために取り入れられた仏教が庶民の仏教になっていくのですね。江戸時代に戸籍代わりに利用される時代を経て、いま、仏教が当たり前と感じて、一般に宗教という意識を超えてしまっています。私たち庶民の中に定着している常識規範というような立場にまで変身しました。庶民は仏典というものにはあまり縁がなく、仏典を勉強した僧侶から話を聞くことで、仏教の真髄を体得してきました。

日本人の優れた性質はこうした歴史の中から育ったのですね。

いま、多くの宗教団体があり、仏教がふたたび宗教という意識に戻りつつあるときに、仏教は他の宗教とともにどのように変身していくのでしょう。多くの仏教宗派が有る中で、その違いにこだわる人がどれほど現れるのでしょうか。仏教離れも増えていく中で僧侶たちはどのように庶民を指導できるのでしょう。庶民は仏教の本当の教えに到達できるのでしょうか。

歴史の中で仏教はどんどん変わっていっていますが、さらに、大きな変化が予想されます。

 

八尾市恩智・春日部大明神

生駒山脈・恩智の山・天川山(あまがわさん)に祀られていた春日部大明神(明治元年恩智神社に移されました)について歴史の得意な大畑君が調べてくれました。そのまま紹介します。

 

恩智神社と天照大神高座神社の春日部神について

2016年7月18日

大畑 逸造

 

 

 

1.恩智神社の神殿の真ん中に鎮座する春日部大明神

明治元年(1868年)に恩智山の山頂近くの天川山に祀られていた春日部大明神

を恩智神社の神殿に奉遷し、末社として祭祀されました。

(「恩智神社 大造営までの歩み」より)

 

明治天皇が即位された年に、春日部大明神が恩智神社の神殿の真ん中に鎮座された

事実から推察すると、この春日部大明神は恩智神社にとって、重要な神と考えられ

ます。

 

2.令集解に、全国相嘗社8社(15社) 恩智神社、意富神社(多神社)

平安時代の860年頃、法律学者 惟宗直本が奈良時代の720年頃の養老令の

注釈書である古文書「令集解」をつくりました。

奈良時代の養老律令が現存していないため、この「令集解」で奈良時代の養老令の

内容がわかるのです。

 

令集解 巻第七 神祇令 に、「仲冬 上卯相甞祭の条に、大倭、住吉、大神、穴師、

恩智意富、葛木鴨、日前」と8社が列記され、後ろに15社が列記されています。

これら8社(後ろに15社)は、上卯相甞祭に朝廷から幣帛を受ける全国相嘗社です。

この全国相嘗社8社(後ろに15社)に恩智神社と意富神社(多神社)が入っています。

 

恩智神社にほとんど古文書がないため、意富神社(多神社)を調査して古文書を探し

ていくことにしました。 

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3.延喜式神名帳に、元名 春日戸神

平安時代の927年に完成した延喜式神名帳に、「天照大神高座神社 並大。月次新嘗。

元名春日戸神」の記述を見つけました。

恩智神社から約600メートル北にある天照大神高座神社の神が元名春日戸神である

ことがわかりました。

天照大神高座神社の神が恩智神社神殿の真ん中に鎮座している春日部神と同じ可能性

があるとであるとわかりました。

尚、春日部神、春日部大明神、春日戸神、春日辺神は、同じ神です。

因みに、恩智神社の方は、「並名神大社。月次・相嘗・新嘗」と記述され、相嘗祭に

あずかる名神大社相嘗大社41社の一つに入っていました。

 

4.奈良県田原本町にある日本最古の神社 多神社(意富神社)

多神社(多坐弥志理都比古神社)は、奈良県田原本町にある日本最古の神社。

一般には多神社と呼ばれ、多社、意富社、太社とも書かれる。「多神社」は初代の神武

天皇の第二皇子 神八井耳命が弟に天皇の位(第2代綏靖天皇)を譲って、自分は「多

神社」を創建し、天神地祇を祀ることにしたのです。

弟に天皇の位を譲って自分は身を引いたことから「ミシリツヒコ」とも呼ばれる。

オホ(多)はイホであり、斎き祭るの意で、これは神八井耳命を指しそのまま姓になった。

 

祭神は、第一殿:初代の神武天皇、第二殿:神武天皇の第二皇子 神八井耳命、第3殿

:神武天皇の第三皇子 第二代の綏靖天皇、第四殿:神武天皇の母君。

神八井耳命は、綏靖天皇2年に春日県に邸宅を造り、自ら神祇を司った。

それで、多神社のことを古くは春日宮、元春日神社と称していた。

このほかに、古事記を編纂した太 安麻呂も神に祀られている。

 

令集解には、全国相嘗社8社(後ろに15社)の一つであると記述されている。

延喜式神名帳には、「多坐弥志理都比古神社二座 並名神大社。月次・相嘗・新嘗。」

と記述されている。 名神大社相嘗大社41社の一つに入っていました。

永治元年(1141年)の「多神宮注進状草案」では、神階正一位となっており、

「正一位勲一等多大明神」の扁額が一ノ鳥居に揚げられていた。

平安時代の久安5年(1149年)に多朝臣常麻呂が国司に『多神宮注進状・裏書』

を提出した。

『多神宮注進状・裏書』に、「多神社に祀られている2神の神が河内国高安郡春日戸

(今、皇宅郷と云う)に祀られている2神社の神と同体異名なりと記述されている。

 

5.『多神宮注進状・裏書』に記述されている河内国春日戸の2神社の特定

『多神宮注進状・裏書』の原文を下記します。(重要な箇所を抜粋しました)

 

大宮二座

・珍子賢津日霊神者 天忍穂耳尊   春日部<河内国高安郡>坐宇豆御子神社 同体異名

・天祖聖津日?神者 天踈向津媛命  春日部坐高座天照大神々社 同体異名

 

「右高座天照大神御魂大杜天之昇玉杵命二座 宇豆御子神社一座 已上在春日戸(今云皇宅郷)

属高安郡也

天明豊玉神社一座 玉祖御祖神社一座 高座王子御祖神社一座 已上在玉祖郷

属高安郡也」

訳文

大宮二座

多神社の祭神は、①珍子賢津日霊神者 天忍穂耳尊(天照大神の御子神)であり、河内

国高安郡にある春日部坐宇豆御子神社同体異名です。

②天祖聖津日?神者 天踈向津媛命(天照大神の荒御魂)であり、

春日部座高座天照大神々社同体異名です。

 

多神社の祭神と同体で、名が異なるだけの神社がある場所が記述されている。

高安郡には、(A)春日戸(今、皇宅郷と云う)と(B)玉祖郷がある。

(A)高座天照大神御魂大杜天之昇玉杵命二座と宇豆御子神社一座は、高安郡の

春日戸(今、皇宅郷と云う)にある。

【春日戸(今、皇宅郷と云う)は、現在の恩智、垣内、教興寺あたり】

(B)若宮四座の日月神社と同体異名の天明豊玉神社一座と玉祖御祖神社一座と

高座王子御祖神社一座は、高安郡の玉祖郷にある。

【玉祖郷は、現在の神立、山畑あたり】

春日部坐高座天照大神々社は、「高座」が先にきて、「天照大神」が後になっているだけ

であり、元名春日戸神の「天照大神高座神社」と特定できます。

恩智神社(昔、天王の森に鎮座)から北東に600メートル離れたところにある

「天照大神高座神社」には、天皇の祖先神を祀る「多神社」の神と同じ神が祀られて

いると断定できます。

 

春日部<河内国高安郡>坐宇豆御子神社は、春日部坐高座天照大神々社と共に、

高安郡の春日戸(今、皇宅郷と云う)にあると書かれています。

 

春日戸(今、皇宅郷と云う)【現在、八尾市の恩智、垣内、教興寺】には、式内社は

恩智神社(並名神大社、月次・相嘗・新嘗)と天照大神高座神社(並大社、月次・

新嘗、元名春日戸神)の2神社しかありません。

いくら探しても、恩智神社の春日部神(春日部大明神)以外、春日部神が見つかり

ませんでした。

そこで、私は、春日戸(今、皇宅郷と云う)にある春日部<河内国高安郡>坐宇豆

御子神社一座は、このレポート冒頭の1項で述べた恩智神社の春日部神(春日部

大明神)であると推定します。

 

恩智神社は、多神社の神と同じ天皇の祖先神を祀ったことにより、このレポートの

2項及び3項で述べた通り、奈良時代、平安時代前半まで、格式の高い官幣大社

だったと考えます。

 

?

尚、他に春日戸神社がないか、延喜神名帳に載っている河内国の式内社を調べました。

高安郡玉祖郷にある春日戸社座御子神社の1神社が見つかりました。

春日戸社座御子神社は、式内社 小社で、この神社に比定される山畑神社は、明治5年

に山畑にある別の佐麻多度神社(式内社 小社)に合祀され、佐麻多度神社の境内末社

になった。

佐麻多度神社と山畑神社は、ともに山畑にあって、神立の玉祖神社から数百メートル

しか離れていない玉祖郷にある。

春日部座宇豆御子神社があると記述されている春日戸(今、皇宅郷と云う)から2キロ

メートルも離れた玉祖郷(山畑)にあったことから、春日戸社座御子神社は、春日部座

宇豆御子神社に該当しないと考えます。 (郷が違います

更に、春日戸社座御子神社は、延喜神名帳で式内社 小社であったし、明治5年に他の

神社に合祀されて末社になった。 この1300年間の経過を見ると、春日戸社座御子

神社が天皇の祖先神を祀る多神社の神と同じ神を祀る神社とは、考えられません。

 

6.結び

「天照大神高座神社」の神は、天皇の祖先神を祀る「多神社」の神と同じ神が祀られて

いると特定し、断定しましたが、

春日部<河内国高安郡>坐宇豆御子神社の神の方は、恩智神社の春日部神(春日部大明神)

であると推定します。

 

現時点では、春日部<河内国高安郡>坐宇豆御子神社の神が恩智神社の春日部神(春日

部大明神)であると推定できる古文書は見つけましたが、断定できるまでの証拠の古文

書がないため、後世の調査研究を待ちたいと思います。

 

多神社1神社だけでは天皇の祖先神をまもりきれないという理由で、河内国高安郡の

春日戸(今、皇宅郷と云う)の恩智神社(春日部神)天照大神高座神社に同じ祭神

(天皇の祖先神)をもってきたと思われます。

これにより、恩智神社と天照大神高座神社は神武天皇の日本建国から奈良時代、平安

時代前半まで、格式の高い官幣大社だったのです。

以 上

 

最後に、現在 多神社の宮司は、66代目の多 忠記(おお・ただふみ)さんです。

美家古の会長が多神社訪問し、直接 多 忠記と歓談した。

初代宮司は、神武天皇の第二皇子 神八井耳命です。15代目宮司は、古事記を編纂

したあの有名な太 安麻呂です。

宮司の多家は、奈良県田原本で2000年以上、いや2600年以上、今も続いています。

 

八尾市神宮寺・常世岐姫神社

八尾市神宮寺にある常世岐姫(とこよぎひめ)神社は高句麗系の染色技能者の祖神を祀ってあります。安産の神として地元の人がお祀りされています。いまは宮司不在の小さな社だけの神社ですが、867年には官社に列せられた格式高い神社だったそうです。

「神宮寺集落の入り口あたりに常世岐姫神社がある。通称八王子権現とも呼ばれ、延喜式の古社で、祭神は常世連氏の祖神である。この常世連は、『姓氏録』の「右京諸蕃上」および「河内国諸蕃」に関系として、『燕国の公孫渕の後なり』と記された渡来人である。公孫氏は、古朝鮮の漢4郡時代、楽浪郡の南(朝鮮の黄海道)にできた帯方郡の郡司となった一族で、漢四郡の滅亡後にその子孫が渡来したのであろう。従ってこの常世連氏も高麗系の漢人である。」『大坂における朝鮮文化』(段ひりん著)

隣の柏原市大県で染色が行われていたのは知っていますが、八尾市神宮寺にもその技術者が住んでいたのですね。いまはその面影は神社以外にはまったくありません。大県はすぐ近くですからありうる話です。江戸時代までは大和川がこちらに流れていましたから、そこを利用していたのでしょうね。大和川の付け替えまでは大県のように、なにか続くものがあったのでしょうか。

八王子神社からは毎年行事のときには美家古に注文をいただきます。「はっとさん」(八王子権現)と呼ばれて安産の神さんだという理解をしていました。常世岐姫(とこよぎひめ)という神社名は聞きなれないために覚えていません。後世にスサノオの御子神の八柱を祀るようになったために八王子神社と呼ばれて、それが安産の神につながったのでしょう。スサノオは神仏習合で牛頭天皇と同一視されて、牛頭天皇が后の頗梨采女(はりさいにょ)(八大竜王の一柱)との間に設けた8人の王子かつ眷属神を祀るようになったものと思われます。

 

 

三宅寺・恩智神社の神宮寺

『大坂における朝鮮文化』(段ひりん著)にさらに興味深いことが書かれていました。

「高安郡は、『和名抄』に坂本・三宅・掃守(かもり)・玉祖(たまおや)の4郷を載せ、『地名辞書』には「高安山の麓にして小郡なりき。…後世、或いは恩智郡と呼びたることあり」と記されていて、ほぼ今日の八尾市東部一帯(恩智川以東)に比定されよう。(中略)

三宅郷は、『地名辞書』に「この郷いま詳かならず。けだし高安村恩智にあたるごとし」と記されているが、この三宅郷にあった「河内六大寺」のひとつである三宅寺は、後世、恩智神社の神宮寺と呼ばれたようである。従って、八尾市恩智・神宮寺あたりに比定されよう。」

『多神宮注進状』に、「高安郡春日戸(皇宅)」と記されていることからも、恩智が天皇領であったことがわかります。また春日戸という地域名は、多神社の地名を表していて多神社との深いつながりが感じられます。多神社の敷地はいまの神社の敷地を中心として広大なものでかつて大昔は湖であったところを開拓された。多宮司は、そこでとれるコメの石高(当時は束で数えたそうです)は大和一番だったとおっしゃっていました。

同級生の大畑君は、恩智に住む複数の「畑中家」や、「林家」など恩智で古い歴史を持つ家が田原本に農地があるという事実を特別視しています。かれは学者タイプですからそれ以上のことはいいませんが、私は多神社の広大な敷地に住んでいた一族ではなかったかと想像しています。「畑中(ハタナカ)」は「秦(ハタ)一族」、「大畑(オオハタ)」君などは、多(オオ)一族であり、かつ「秦(ハタ)一族でもあることが想像できます。私は顔の相から大畑君には昭和天皇と同じ血筋を感じています。恩智にはそう感じられる人が結構います。多一族と秦一族は同じではないかという人もあります。

いずれにせよ、「恩智の舟戸講」など神武天皇の孔舎衙の戦いのことを、2600年後の今になるまで、ひきついでくるなど、その一族でなければできないことです。