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無上の喜び1

友人K)無上の喜びというのは、君が前のブログで半田さんが八尾キリシタンの小説を書くというときにぜひ描いてほしいといっていたアレか?

私)そうだ。

友人K)「霊操」を経験しないと描けないのか?

私)それが手っ取り早い方法かと思ったんだ。私は「霊操」を体験していないが、「かむながら」の生活をして同様の体験をしている。

友人K)「霊操」ってどんなものなんだ?

私)イエスは神になりきって、人々を救った。それを、「霊操」では、瞑想の中でイエスになりきって聖書に沿って体験する。これによって、神とつながる力が強くなる。

友人K)で、君の「かむながら」は?

私)唯一神が創造し、維持発展させ続ける姿を、被創造物の深奥に存在する唯一神になりきろうという姿勢で見る。そのエネルギーを味わって無上の喜びに浸る。生かされていることを知り、その役割を感じ取ろうとする。

ちょっと、表現が固いかな。

要するに、創造伸になりきって、そこからもらっているエネルギーで役割を感じ取り行動する。

友人K)要するに唯一神(宇宙を創造維持発展させ続ける神)とつながって、自分の役割を果たそうとすれば、無上の喜びが体に満たされるということか?

私)そういうこと。

友人K)で、きみが元気にあふれているのはその成果?

私)うん。「マッサージ体操」もそこから教わって、その効果も著しいし、私には「マッサージ体操」の役割もあるようだ。いまでも体の変化に驚いているが、これがまだ入門クラスで、これから先がもっとすごいよといわれている気がする。いま、腰の奥に空間が現れて、そこにいろいろ見え始めている。同時にエネルギーがそこから湧き起ってくる。それが心身のつらいことを軽いものにかえてしまう。

 

 

 

自分の中の創造神・「かむながら」・キリシタン

自分を含めて、あらゆるものに創造神を見て生きる生き方、「かむながら」は、至高なる存在を崇拝するというこれまでの宗教の教えを超えています。しかし、どの宗教も、究極にはその域に達することを望んでいるのではないでしょうか。

すべてのものの中に、至高の神が存在することを知るということは、宇宙がその神によってつくられ、維持されていることを知ることでもあります。創られたものはそれで終わりではありません。創られた意図に基づき、進化発展していくものです。その被創造物の私たち人間も、宇宙の進化発展の役割の部分を担っています。

心身の深底に存在する至高の神の意志を実現できるように、心身をしっかりとその至高の神につながなければなりません。そのつながりが強固であれば、与えられた心身を通じて神の意志を実現しようと働くでしょう。自分の頭で考えるのではなく、何を与えられているのか、何をしろといわれているのか、自分の周りで変化していく環境と自分の関わりを見て、行動することになるでしょう。

私の実践する「かむながら」の生き方は、神を崇拝するにとどまらず、頭で自分の計画を実行する生き方をやめて、神の意図を実行する生き方をします。日々にその習性を取り戻して行動します。自分の深底は神とつながっている。環境も深底は神とつながっている。ともにつながりながら変化していく。その変化を感じ取りながら日々の行動をする。

カトリック、イグナチオ・ロヨラの「霊操」は神とつながっている。その「霊操」を実践していたイエズス会が戦国時代の日本のキリシタンをつくった。明日が信じられない下剋上の混乱の中で、不安の日々を救ってくれたキリスト教。高山右近や、細川ガラシャは神とつながっている。彼らの運命は、外から見ると厳しいものに見える。しかし、心の喜びはどれほど大きかったか。その喜びの性質はどんなものであったのか。そして、ともに同じ道を歩んだキリシタンたちとのつながりはどのような喜びを生じさせたのか。

前回のブログで書いたように、半田友味さんの小説にそんな喜びを描いてほしい。目先の苦しみや喜びと違って、深い喜びはどんなものであったのか。