カテゴリー別アーカイブ: 法華経

法華経と釈迦の瞑想(1)

私) 「法華経」って知っている?

友人) 創価学会か?

私) 確かに今は創価学会が有名だね。じゃあ、釈迦は?

友人) インドの王子で、城を出て修行した人だろう。仏教の祖だ。

<釈迦が悟りと集まった菩薩達>

私) そう、その釈迦が悟りを弟子や菩薩に伝えた。そのとき、無数の菩薩達がその話を聞きに釈迦のもとに集った。ガンジス河の砂の数よりはるかに多い数だ。そのような「人(?)」が集まることができると思う?

友人) それは無理だよ。もしそんな広場があったとしても、当時はマイクの設備もないから話が聞こえない。

<釈迦の周りに集まった存在は精神界の存在達>

私) だから集まった人たちは、物質界の存在ではない。それを人と呼べるかという問題はあるとしても、この時に人の姿を持っていた釈迦は、精神界の存在である菩薩たちが見え、菩薩たちも釈迦が精神界の存在として認識できた。

<物質界の法則と精神界の法則の違い>

偶然、私はある神社で、3本の高さの異なる3体の柱に出会ったことがある。私はその見えている柱が実際に存在するものなのか、その下を数回通過したが、やはり、それに影響されずに、なお動かなかった。物質界のものでなければ、場の占有などないという体験をした。このときは、神様のことを「柱」と呼ぶのはこの経験で分かった。実際に柱の形をしていたからだ。昔の人はこの程度の体験を多くしていたのだろう。

友人) わしらはそんな経験がないからよく分からない。

私)場の占有がなければ、どれほどの人数だあろうと集まれる。しかも、音によって伝達する手段ではないから、距離も問題にならない。私が感動するのは、釈迦のそうした能力だ。釈迦はこのような力を得たのは、私たちが数えることすらできない大昔であって、今世のこの短い修行の期間ではないといっている。いまの人間をつくったのは、このような無数の存在の力によるものだろう。そうでなければ、このような複雑で理解すらできない能力をもった人間がつくれる筈がない。それどころか、この微細でデリケートな肉体を個々に備わった力だけで維持できるわけがない。

友人) そういわれれば、そうかもしれない。そんなことを考えたことも無いよ。

(続く)

金泥で書かれた法華経

先日、母の生前の形見分けのようなことがあった。自分の作品の整理をしたいといったので、私はそれらしきものを探し出した。その中に金泥で書かれた法華経の写経、10巻があった。母の帰宅に合わせてきていた母の妹さんが、家宝としたいからぜひほしいと申し出た。10巻の行き先はこの妹さんが振り分けた。

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法華経の内容については母は多くは知らないだろう。しかし、佛教大学を卒業した甥、創価学会の息子夫婦は知っている。私もこのブログで法華経を紹介しているが、母の写経が影響しているかもしれない。少なくとも母自身は多忙の中、この写経によって、他の執着心から心を解放したことは間違いない。そしてこの写経を受け取った人たちの心の中に感動を与えた。