カテゴリー別アーカイブ: 呪と神仏

呪い1・愛から呪へ・呪から愛へ

人は本来、創造主の愛によって作り出された。しかし、肉体を持つとともに排他的な性質が生まれ、それが愛の影である呪の心を生み出した。共生という愛の考え方を受け入れることができず、不都合な人間は呪いによって抹消してしまうという考え方が生まれた。歴史を学べば、歴史はそのように動いてきたことがわかる。

助け合い支え合って生きるために、大勢の仲間を与えられたのに、自分の欲望の実現に邪魔なものは殺してしまえという考え方になっていった。飛鳥時代、呪術を使いまわした役小角(えんのおづぬ)、四天王を利用して呪術で物部守屋を滅ぼした聖徳太子。その四天王寺に通っていた稚児の信徳丸の呪いの話。日本の歴史は、まさに呪の世界でもあった。

釈迦の没年が紀元前1000年ごろとすれば、末法思想による末法の時代は2000年の正像の時代を経て、1000年ころは末法に突入したことになる。平安時代だ。それから1000年を経た今は末法のまっただ中ということになる。桓武天皇の時代には、怨霊の祟りは、呪うもの、呪われるものという一対一の呪詛関係だった。しかし、9世紀の中ごろになり、疫病が流行り天変地異が頻発して多くの人が死んだりすると、それは政争に敗れて非業の死を遂げたものの祟りだということになった。

平安時代の菅原道真の怨霊がその最たるものだ。明治天皇はさらに、おそれ続きけていた崇徳上皇の怨霊を明治に改元される半月ほど前の上皇の命日に呪い鎮めを行った。昭和天皇の時代に起きた第2次世界大戦においては、高野山をまきこんだ呪による必勝祈願が行われたと聞いている。高野山はもともと、呪をあやつる密教の弘法大師が設立したものだから不思議なことではない。

しかし、天皇家は別として、最近、われわれの社会からこの呪の考え方は急に少なくなった。私の少年時代までまだあった呪の習慣はいつの間にかなくなっている。大峰山の行者も呪の考え方から遠のいてきた。これは、今が、呪いの歴史から、愛の歴史への変換期を意味するのだろうか。

『呪いと日本人』(小松和彦著)を参照させていただきました。

見えない呪の世界11(膨大な意識体)

『臨死体験が教えてくれた宇宙の仕組み』(木内鶴彦著)に以下のようなことが書かれています。

木内さんは、通常の臨死体験、三途の川とか御花畑などといった体験以外に、さらなる体験をされました。

「二次臨死状態になり、肉体から意識が離れたとき、私はこの『膨大な意識体』の存在をごく身近に感じました。

私がまごまごしていたら、きっとすぐに私は『膨大な意識体』に吸収されていったのだと思います。しかし私は吸収されまいと、その存在に反発しました。もっと正確にいうと、『木内鶴彦』という意識を持ったまま、『膨大な意識体』にアクセスし、情報を得ようとしたのです。(中略)

『膨大な意識体』と一体になり、その中の情報に触れたという表現のほうが正しいかもしれません。(中略)

『膨大な意識体』があるのは五次元の世界です。その様子は、三次元の言葉で表すなら、空間ともいえますし、ガスのような存在ともいえます。五次元の世界ではすべてを『膨大な意識体』が満たしており、バランスがとれた完全な世界をつくっています。(中略)

しかし完璧に見える五次元の世界でもときどきひずみが生じるのです。(中略)

『膨大な意識体』がある五次元の世界は、完璧ですが、同時に無でもあります。(中略)

そこにひずみが生まれると、空間が動きます。空間はひずみのない元の形に戻ろうとするので、ひずみが揺らぎ、だんだん解消に向かいます。そして完全にフラットになったとき、元の五次元の空間に戻るわけです。(中略)

つまり三次元の世界は五次元の世界に変化を与え、波立たせるために生まれているのではないでしょうか。」

一次元は点、二次元は線、三次元は空間、四次元は時間を加えたもの、五次元は意識。そして、この世界に『膨大な意識体』が存在します。

木内さんは木内さんの意識として『膨大な意識体』の中の情報にアクセスしたのですね。それでは呪の世界に活動基点を置いている神仏たちはどの次元に存在するのでしょうか。

そして私たちはどの次元に存在するのでしょうか。

本来私たちは、この全ての次元で生きているようです。『膨大な意識体』とは本来、全ての存在がつながっていますし、神仏とはマントラでつながれるようです。本来つながっている五次元の世界ともアクセスしながら生きるのが私たちの本来の姿なのでしょう。

 

 

見えない呪の世界10(ガヤトリーマントラ・ハレークリシュナマントラ)

「オーム

ブール ブワッ スワハ

タット サヴィトゥール ワレーニャム

バルゴー デーヴァッシャ ディーマヒ

ディヨー ヨーナ プラチョーダヤート」

これがいま、世界で最強のマントラとされている「ガヤトリーマントラ」です。太陽系を動かすサヴィター神に呼びかけるものでその効果は確実だといわれています。このマントラを唱えると心身の波動がきれいになり、邪気を寄せ付けないそうです。しかし、唱え方が大事で、まちがった方法で唱えると、逆に魔に取りつかれてしまうという話もあります。こわいですね。

それなら、宇宙の元の神であり、自分自身の中にいる「クリシュナ神」につなぐ「ハレークリシュナマントラ」を唱える方がいいですね。これは唱え方で凶になるような作用はありません。

意識している今の自分が変化の一過程にいる一時的な姿であって、本来の自分ではないから執着しないこと。本来の自分はクリシュナ神と繋がっていること。その意識のもとで、自分を含めあらゆるものに「喜びの波動」を見る。その上で「ハレークリシュナマントラ」を唱えれば、その喜びの波動こそ、本来の波動であり、それは次第に心身を満たすようになり、本来の高い波動の自分にもどります。

この方法こそ、安全で確実に自分を浄化し、宇宙すべてに喜びを与える効果があります。素晴らしいですね。

ハレークリシュナマントラ:

ハレークリシュナ、ハレークリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレーハレー、ハレーラーマ、ハレーラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレーハレー

見えない呪の世界9(マントラ)

私が幼いころ、まだ世の中には呪の世界が日常で存在しました。建物を建てたり、井戸を掘ったり、土地をさわるような時には必ずお浄めをします。人生の節目には、七五三、成人式など神社でお祓いを受けます。歴史をみても、その裏は呪の世界が支えてきました。ところが、この5,60年ほどの間、その習慣は下火でした。

見える世界だけ意識してがんばれば何事も成就するという教育を受けて、実際そのとおりに行動しました。一般の人は、霊だとか、神だとか得体のしれない存在には関わろうとはしませんでした。世の中が上り調子で推移していましたから、それでも問題なく過ごしてきました。

しかし、世界経済が行き詰まりから抜け出せなくなり、戦争や災害の不安が起き始めて、人々は再び、呪の世界を意識し始めています。そしてその関わり方が変わってきています。人々は元(もと)ということを意識するようになり、宇宙がつながっている存在であると気づき始めました。過度な競争意識と貧困を生む資本主義から心が離れつつあります。

そして、もっと自分や環境を味わって楽しむ生き方を望み始めています。資本主義経済に頼らなければ生きていけない生活から、自給自足的なものを取り入れ、人や動物、植物とのつながりを大切にして悦びに満ちた生活を送ろうと動きだしています。マントラを唱えながら見えない世界に働きかけ、世界平和を祈り始めました。記念すべき人の歴史のひとこまですね。

見えない呪の世界8(大黒天)

引き続き『本当に怖い世界の呪文』(グループSKIT編著)より紹介します。

大黒天の真言:オン・マカキャラ・ソワカ

「大黒天は、もともとはインドの死と破壊と再生の神シヴァの化身であるマハーカーラという神であった。マハーは『偉大なる』を意味し、カーラは『暗黒』を意味している。それが、仏教に取り入れられ、仏法を守護する神(天部衆)である大黒天となったのだ。

だが、黒い姿で出現して世界を破壊するといわれるマハーカーラが原型であったせいで、大黒天と呼ばれるようになってから夜叉(鬼人)たちを従え、憤怒の表情で敵を打ち破る猛々しい存在とされたのである。そのため、戦勝祈願の神として武人たちの厚い信仰を集めるようになった。」

敵味方の武将から祈願されたら、大黒天はどのようにふるまうのでしょうか。戦勝の後に祈りを怠るようになると眷属が罰を与えるというような話も聞いたことがあります。いずれにしても、相手に損失を与えるような祈りはしないほうがいいでしょう。祈りは自分に返ってくるとも言います。誰もが人の幸せを祈るなら、その人も自分も幸せになるのだから、そういう祈りが楽しいですね。

 

見えない呪の世界7(鬼子母神)

引き続き『本当に怖い世界の呪文』(グループSKIT編著)より紹介します。

この本のタイトルですが、「本当に怖い」というのは、紹介していて少し違和感もあります。わら人形を持って丑の刻参りというと恐ろしいですが、ここで紹介しているマントラを唱えてお祈りするという行為は決して怖いものではありません。しかし、日常の見えている世界でのお願い事とは格段に効力の差があります。それを「怖い」と表現されたのでしょうか。願い事の内容によっては命にかかわることもあります。

いずれにせよ、自分に返ってくることもあるので、人のためになるお祈りをすべきです。

鬼子母神(キシモジン)(訶梨帝母=カリテイモ)の真言:オン・ドドマリ・ギャキテイ・ソワカ

「訶梨帝母(カリテイモ)は、一般的には鬼子母神として知られる女神である。鬼子母神は、元は子供をさらってきては食い殺す恐ろしい鬼女であったという。だが、その罪を懲らしめるために仏が彼女の500人の子供の一人を隠してしまうと、我が子を思う母の心はだれであっても同じことに気づき、以降、鬼子母神は仏教を守護する女神となったと言い伝えられている。」

鬼子母神は右手にざくろの枝を持っていますが、ざくろには一つの実の中にたくjさんの実があるので、これは「吉祥果」と呼ばれ、子を守る神として子孫繁栄の願いが込められています。カリテイ(訶梨帝)はサンスクリット語の名前ハーリティの音訳です。

 

見えない呪の世界6(不動明王)

引き続き『本当に怖い世界の呪文』(グループSKIT編著)より紹介します。

不動明王の真言: ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン

「明王とは、密教の最高神である大日如来の命を受けて、いまだ仏教に帰依しない人びとを導く役割をもった仏たちのことである。不動明王はそんな明王の中でも、もっとも力を持つ高位の存在とされており、五大明王の筆頭とも、八大明王の筆頭とも称されている。

サンスクリット語では不動明王のことをアチャラ・ナータという。アチャラは『動かない』、ナータは『守護者』という意味だ。つまり、『ゆるぎない守護者』ということである。日本では古くから『お不動さん』の愛称で親しまれ、各地で民間信仰の対象となってきた。

民間信仰における『お不動さん』は、病魔退散や、家内安全、商売繁盛、受験合格などの現世利益を叶えてくれる存在とされている。」

不動明王は、また、大日如来の化身ともいわれています。この真言を唱えるだけで、宇宙の元につながることができるなんてすごい。すこし前まで人びとはこのマントラを唱えていたのですね。左脳に頼りすぎる習慣が身についてしまって目に映る世界だけを見ていきてきた私たち、右脳が働く見えない世界を再び感じることができるようになりたいですね。見えない世界が見える世界を動かしていることも知らなければなりません。

不動明王の真言は、不浄な感情やエネルギーを焼き尽くし、前に進む勇気をもたらします。

私は不動明王の別の真言を唱えています。

のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん

です。この真言の中には、第一チャクラを活性化させる音が多く含まれているそうです。

 

見えない呪の世界5(馬頭観音)

引き続き『本当に怖い世界の呪文』(グループSKIT編著)より紹介します。

馬頭観音の真言: オン・アミリト・ドハンバ・ウン・ハッタ・ソワカ

「馬頭観音は観音菩薩が変化した姿のひとつであり、人びとの煩悩を払い、諸悪を滅する力を持っている。そんな馬頭観音の真言を唱えた者は天災や病気、争いごとなど、あらゆる障害を打ち破る力を得られるという。

この観音は名前の通り馬頭人身の姿で現されることもあるが、通常は、馬上に馬の頭を戴いた、3つの目を持つ3つの顔と8本の腕を持った姿で表されることが多い。その顔には激しい怒りの表情が浮かんでおり、火炎の光背を背負った姿は非常に恐ろしげだ。観音というと一般的には穏和な表情をしているものが多い中、これは珍しいことである。だがそれだけ敵を打ち破る強い力を持った観音であることを表しているといえよう。

サンスクリット語では馬頭観音をハヤグリーヴァといい、これはそのまま『馬の首』という意味だ。そしてこれは、ヒンズー教の最高神ヴィシュヌの異名でもある。古代世界においては、馬は戦争や農耕において必需品であり、またその大きさや力強さは人びとの畏敬の対象となってきた。そのような馬の姿を借りた馬頭観音は、必ずや信仰する者の力になると、今でも多くの人びとに信じられている。」

マントラというのは、波動です。その存在の世界に届くものです。知性では理解できなくても波動は確実にその見えない存在に届くので人はマントラという方法で見えない存在と関わり、自分の力ではどうしようもないことは、その偉大な力に依存してきました。その見えない世界の力がこの世を大きく動かすのです。

馬頭観音は他の観音と比べて大きな功徳を持つ、そして時に宇宙の最高神ヴィシュヌと同一視されるほどの存在と崇められるなどの力を出されます。マントラを唱えて、その世界にアプローチしてみましょう。

 

見えない呪の世界4(吉祥天女)

引き続き『本当に怖い世界の呪文』(グループSKIT編著)より紹介します。

ラクシュミーのマントラ: オーン・マハー・ラクシュマヤ・ヴィダヘ

「インドには様々な神の力を得るマントラの呪文が伝わっている。これは幸運の女神ラクシュミーの守護を得るマントラだ。

世界の神話や伝承では、幸運をもたらすといわれる女神は多い。中でもrクシュミーは、東洋ではもっとも広く信仰されている女神のひとりだろう。

ラクシュミーの名はインドの古語ではそのまま幸運を意味し、農作物の豊穣や、名誉、繁栄をもたらす女神と伝えられる。日本で幸運の女神として知られている吉祥天女は、彼女が大乗仏教に取り入れられた姿だ。」

ラクシュミーは同じとことろに留まらない移り気な女神として知られています。幸運というのは長くは続かないものなのでしょうか。それなら変化の時を感じたらおもいっきりラクシュミーのマントラを唱えて大きな幸運を体験するのがいいかもしれません。

ラクシュミーは移り気で同じところに長くとどまらないというのに、いつも宇宙の根源であるクリシュナの胸にいます。これはクリシュナから幸運のエネルギーを充電しているということなのでしょうか。それなら、不毛の土地に定着して苦しんでいる人たちに、一時的でもよい、クリシュナの幸運のエネルギーを与えて豊穣の土地に住むチャンスを与えてあげてください。そして、その体験をした人たちが豊穣の土地に住む習慣をとりもどすことができるかもしれません。

不毛の井戸に自分を閉じ込めてしまっているカエルたちにこのマントラを唱えて祈ってあげてください。その祈りは必ずカエルを救い出してくれるでしょう。このように、さまざまな不毛の土地に住む人びとにラクシュミーのマントラを唱え続ければ、自分から出たものは必ず自分にもどるという法則によって、あなたはいつも幸運のエネルギーに満たされるかもしれません。

これは超おすすめのマントラですね。

見えない呪の世界3(十一面観音)・八尾市恩智感応院

引き続き『本当に怖い世界の呪文』(グループSKIT編著)より紹介します。

聖徳太子は、神武天皇が身を隠した大木を探しに恩智の天王の森に来た。しかし、その木はすでに朽ちてしまっていた。そこで、その木の株で十一面観音を彫らせたのが八尾市恩智感応院の重要文化財の十一面観音です。このとき聖徳太子にどんな思いがあったのでしょうか。

十一面観音の真言: オン・ロケイ・ジンバラ・キリク 両手の10本の指を交差させる金剛合掌という印を結ぶ。これは十指を10の顔に見立て、それに自分の科をを加えて十一面観音と合一するため。

「11の顔のうちの10はあらゆる方角を見通すことで、人々の困窮を見逃さないためのものであり、残りのひとつが自分の顔であるとされている。真言を唱え、この観音の力を借りれば、どんな敵でも打ち破ることができるという。」

観音様は10の顔で人々の困窮を見逃さない。それなのに、あるものにとてっては敵とはいえ人々を打ち破るという行為は観音様らしくありませんね。

「敵を打ち破るほかにも、『病気にかからない(離諸疾病)』『財産や食物に困らない(任運獲得金銀』『王族が応急で慰労してくれる(国王王子在於王宮先言慰問)』『溺死しない(水不能溺)』『焼死しない(火不能焼)』『事故で死なない(不非命中妖』など、十一面観音は10の利益をあたえてくれるとされ、これを十種勝利という。この十種勝利はすべて現世利益だが、そのほかにも十一面観音は、『地獄界、餓鬼界、畜生界に生まれ変わらない(不生於悪趣)』『極楽浄土に生まれ変わる(従此世界得生極楽浄土)』など来世における4つの果報も与えてくれるとされている。これを四種功徳という。」

こちらの方は納得できます。このような存在があるからこそ、人間のようなか弱い存在が生きていけるのですね。

相手の幸せを願った上での勝利でありたいですね。