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恩智左近は忍者だった?

<楠木正成の妹が忍者の祖・服部家に嫁ぐ>

先日、恩地研究会で恩智左近と楠木正成の話がでました。楠木i正成の妹が伊賀の服部家に嫁いだ話もでました。伊賀、甲賀の忍者を統率する服部家。わずかな人数で大軍と戦った楠木正成の特異な戦術。これには、きっと忍者たちの応援があったに違いないと思って、忍術の本を読んでみました。

『忍者教本 (黒井宏光著)

万川集海(まんせんしゅうかい)(国書刊行会)

です。

忍者は正体を知られてはいけないので、変装だけではなく、その職業人になりきらなければいけない。

 

<忍者はかなり高度な知識人>

そこには驚くべきことが書かれていた。忍者は、武術以外に、薬学、化学、天文学、記憶術、天気予測、さまざまなお経、人相学など様々な知識をもっていたのだ。恩智左近は、楠木正成の子、正行の教育係として、通常の武術だけでなく、こうした知識も与えたに違いない。

<恩智神社が猿楽を他の神社に派遣できた理由>

忍者は敵地に潜入して情報を得るために変装したのが、「虚無僧」「出家」、「山伏」「商人」、「放下師(大道芸人)」、「猿楽師」、「常の形(職業にとらわれないふつうの形)」など28種にも及ぶという。

ここで、猿楽は恩智神社から春日大社などに送っていたものだ。伊賀が猿楽の盛んなところ。楠木正成の一番の家来である恩地左近が恩智神社の宮司でもあったのだから、当然のことだろう。恩智左近を忍者と呼ぶかどうかは別として、忍者が持つ知識は持っていただろうし、技術も持っていたと推測できる。

<忍術とは、大陸の先進技術を取り入れた兵法?>

しかし、忍者がどうしてこんなに優れた技術集団だったのか。そのルーツは秦の始皇帝から不老長寿の薬草を探す役目を託された技術集団、徐福の一団だという。しかし、その前にも後にも再三、大陸からは先進技術が入ってきている。それらを兵法にとりいれたのが、忍術と呼ばれる兵法だったのだろう。

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今回、私が子供のときから持ち続けてきた忍者のイメージが一新されました。忍者はどの時代をも陰から支えるエリート集団だったのですね。

 

戦時中の恩智の農業

松岡さんにお話しをお伺いしました。88歳という高齢ですが、お元気です。小さい時は、隣に私の家があって、親戚の選挙応援に両親が留守をしている間に私と弟が弟の懐炉をつくってこぼした火から全焼してしまいました。そのときに、松岡さんの弟さんが雨縁を蹴り破って、前に立っていた私を救い出していただきいただきました。同時に火が噴きだして、奥にいた弟は焼死しました。火や水で建物に被害をもたらして大変な迷惑をかけました。

戦時中は、元気な働き手は戦争に取られて残っているのは、若者か年寄だけでした。新田を利用した恩智いちごがつくられていました。いちごジャムもつくられていましたが、戦時中で砂糖が手にはいりません。それでサトウキビもつくっていました。

現在の南高安小学校の北側に組合の建物があり、そこで売り物にならない小さないちごなどをサトウキビから作った砂糖を利用してジャムにしていました。

私はまだヨチヨチ歩きのときに、すすきをさとうきびとまちがえて口に入れて倒れてのどをつき、大量の出血をしたと聞かされています。この事故で、たくましい脚に比べて、貧弱な腕という姿になったようです。

コメの裏作に麦を作っていましたが、わらと混ぜて牛に食べさせていたようです。メークインも作っていて、小さいのは、牛のエサにしていました。子供の頃、お腹がすいたら、牛のかいばおけ(えさを入れる容器のこと)から、ときどき、そのメークインを食べていたのを覚えています。

戦後もしばらくイチゴはつくられていましたが、1年かかる苺より、短期間で出荷できる軟弱野菜の方が収益が良いのでやがて苺はなくなりました。