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義経の不思議・藤原秀衡との出会い

奥州から京へきていた金売りの吉次は、情婦から鞍馬に源家の御曹司がいると聞きます。奥州では都の貴種への病的というほどのあこがれがありました。狂喜して一族の女をあてがい、その血を導入しようとします。だから貴種の子こそ奥州への何よりの都みやげなのです。吉次はこの貴種の子をみやげにしようと、鞍馬で牛若に会います。

しかし、会ってみると牛若の方から奥州へ連れて行けといいます。奥州は、古来日本の律令がおよびにくく平家の力のおよばぬ所だと聞いている。鞍馬を脱走して亡命するとすれば行先は奥州以外にないというのです。そんなわけで牛若は奥州へいくことになります。

そのころの奥州は藤原秀衡が治めていて産出した多量の金で別世界のように潤っていました。ヨーロッパまで聞こえて黄金の国ジパングと呼ばれていました。のちのマルコポーロにつながります。当時、奥州は日本の朝廷に金や駿馬の貢物をする属国のような立場でした。

藤原秀衡は慎重な配慮の上しばらく義経と会おうとはしませんでしたが、ひとたび会ってしまうと自分の息子以上に義経をかわいがり、将来、奥州をまかせようと考えたほどでしたが、義経はかたき討ちしか頭になく、奥州の優れた弓と騎馬の技術を習得します。

はじめは、種馬のように女性があてがわれましたが、以前に京から来た若者がそのような目にあい、若くして死んでしまったと聞くと、一変して武道に徹します。この騎馬の技術の習得があったからこそ、のちの一の谷の戦いで、漫画の英雄に書かれているような神業を演じます。はじめのうち、歴史学者たちはうそだと判断したくらいです。

『義経』(司馬遼太郎)によると、当時奥州の兵力は17万騎といわれ、源平を合わせた以上の兵力を誇っていました。義経にその気が有れば、藤原秀衡から家督を譲り受けた後、その軍で平家を滅ぼすこともできたのです。

 

 

日本の歴史と気候2

歴史の本を読んでいると、たびたび飢饉、疫病が出てきます。この河内の翁のブログでも、『大飢饉・疫病(1181年)の克服とゾーン体験』で紹介しました。飛鳥時代、班田収受法が実施されて口分田が与えられ、これが統治の基本制度となりました。私はそれなりに納得していたのですが、灌漑設備がおそまつだったのでそこから十分な収穫が得られず、全般的にこの制度が十分機能したとはいえないようです。

律令国家の干ばつ対策は、雨乞いの祈祷、税の軽減、被害にあった公民への救済米が3本の柱でした。雨乞いの祈祷は常にその効果がありませんでした。飢饉は疫病を発生させました。

先日、TVで日本列島ができていく過程を紹介していました。大陸から離れた時に、はじめ平坦だった陸地が3つのプレートによって押し上げられて高い山ができました。この山が雨を降らせ、川水を流して豊かな食料の環境をつくったということです。また海もすぐ近くにあり、海からの幸にも恵まれました。八尾市恩智の扇状地形も豊かな食料環境を連想させます。干ばつには比較的強い地域だったのではないでしょうか。

干ばつの時もこのあたりは比較的被害は少なかったと思われます。律令制の土地の区分がそこらじゅうに残っているのは、ここでは律令制が機能していたということかもしれません。