カテゴリー別アーカイブ: 大阪歴史

産業革命の影響・大阪の歴史17(この1世紀12)

『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「江戸堀に『此花の井』と呼ばれる古井戸があります。ここにあった石見津和野藩蔵屋敷のもので、船場の名泉といわれていました。このような大名の蔵屋敷や、船場の豪商の屋敷では、掘抜きの井戸といって地下の岩盤の下にまで掘削して良水を汲み出していたところもありました。

水の都とは言いながらも飲料水には不自由した大阪ですが、日清戦争の終結した明治28年(1895)に、ようやく第一期大阪市上水道が完成し、市内の一部に通水が始められました。大正3年(1914)大阪市柴島水源地が完成しましたが、その後も大阪府全域に上水道が敷設されるまでには100年近い年月がかかりました。

昭和31年(1956)公団アパートにプレス加工の『ステンレス流し台』が採用されて、目玉商品となり文化生活のシンボルのようにいわれました。それまで、地方の町工場で細々と作られていた木製や、コンクリート製の流し台に変わり、大手メーカーが『ユニット式流し台』を次々発表して参入してくると。流し台の生産は、一気に近代工業の分野に移ってしまいました。

『おくどさん』や『へっついさん』に』『薪』『柴』、『かんてき』『火鉢』に『炭』『練炭』『炭団』、といった火にまつわる生活や、『水がめ』に『はしり』や『流し』といった水周りの生活。『炬燵』『火鉢』『囲炉裏』といった日常生活が、いつのまにか、遠くに行って、ガスレンジ、ガステーブル、クッキングヒーター、電子レンジ、ホットプレート、オーブンレンジ、炊飯ジャー、シンクタンク、ガス給湯器、食器洗い乾燥機、ジャーポットなど、次々に台所を便利に、清潔に使える製品が開発発売されて、とどまるところを知らない状態になりました。長い人類の歴史のなかで、手作りで作り上げられてきた文化に、産業革命以降の20世紀の出来事でした。」

輸送関係も同じです。今から60年ほど前、4輪のリヤカーを引っ張る貨物用の丈夫な自転車が活躍していました。また、ミゼットという名前でダイハツから三輪の自動車が発売されました。足でペダルを踏んでエンジンをスタートさせます。ケッチンという反動があるのでそれをうまくかわしながら行います。ミゼットは三輪なのでバランスが悪く、よく転んでいました。当時はほとんど自動車が走っていませんでしたので大きな事故にはなりませんでしたが、通りがかりの人が手伝って起こす姿をたびたび見ました。?それからまだ半世紀くらいだというのに、いまや自動運転の車が発売されています。鉄道・バスなども網の目のようにはりめぐらされて便利さも申し分ありません。

一方、日本では、スマホというのが普及して、いつのまにか町から赤電話が消えています。電話が各家庭に普及し、まちかどには赤電話があるという当時としては進んでいた時代でしたが、それもいまとなっては遠い昔話で、各自がスマホを持ち、離れていても絶えず意思疎通をとることができます。さらに、インタネットで検索すれば大概の情報は得られ、人のつながりは格段に強固になったといえます。

ついでに言うと、ファッションも庶民が芸能人のようなスタイルをしています。身の回りのあらゆるところに急激な変化がおきています。

もう次元の違う世界になったというしかありません。この1世紀の大阪を語る上で、蓮如によって門前町として誕生した大坂、信長によって焼かれたあとの秀吉の大坂、大坂夏の陣によって焼かれたあとの徳川の大坂があり、ここには特に記載されていないが、第二次世界大戦の空爆後の大坂があります。全て燃えつくしたために悪因縁を浄化し、急速な変貌を遂げた、激変とともに成長していった大阪はいま、東京に取り残されたような都市の感が否めませんが、根強い力を秘めて時を待っています。急成長にかき乱されず、つねに縄文時代に戻っても生きながらえる強さを持って新しい時代を迎えようとしています。

文章中、「はしり」とは「流し」のこと。炬燵、火鉢、囲炉裏はそれぞれこたつ、ひばち、いろりと読みます。

今回で杉本さんの『徒然れしぴ』からの「大阪の歴史」シリーズは終了させていただきます。杉本さんありがとうございます。

 

 

秀吉・徳川の大阪・大阪の歴史16(この1世紀11)

『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

蓮如によって造られた宗教都市大坂は、信長、家康、第二次世界大戦の3度にわたって、焼かれて、ある意味では火によって浄化されました。杉本さんは、秀吉、徳川によって復興した大阪を紹介しています。

「いま一人『そもそも大阪は、おおよそ日本一の境地なり…五畿七道これに集まる』とこの地を狙った者がいたのです。織田信長です。彼は1570年に石山本願寺に対して、他の地に移転するように求めましたが拒絶されました。これから信長と本願寺の間に十年戦争が始まったのです。1580年両者の和睦で戦いは終わったのですが、信長は望み通りに、この地に城を築くことなく逆臣明智光秀のために命を落としました。

大坂に城を築いたのは豊臣秀吉です。天正十年(1583)築城が始まり、天守閣や二の丸の築城が終わったのちもいっそうの強化を図るために、城と町全体を囲む『惣講』の建設にとりかかりました。おおよその範囲は、大川を北端に東を猫間川(JR京橋~森ノ宮あたり)、南を空堀(中央区空堀通り)、西は東横掘(阪神高速道感情南行き、高麗橋~長堀あたり)としました。それは現在の大阪市中央区のの東側約半分辺りに位置していることになります。その後、慶長三年(1598)病床の秀吉は、大名屋敷の伏見から大阪への移転を命じ、新しく大阪城内に住まわせることにしました。

当然に『惣講』の中は手狭になります。そこで惣講の中に住まいしていた商人や工人達を構えの外に新しく造成させた土地『船場』に移転させます。ここに惣講のなかの『上町』と、下町の『船場』がうまれ、共に大阪の町に組み込まれます。これが『秀吉の大坂』です。

「元和元年、大坂夏の陣で『秀吉の大坂』はすっかり焼野が原に帰しました。間髪を入れずに徳川家康は孫の松平忠明を送り込み、後片付けと共に、街の再興を始めさせました。これよりは『徳川の大坂』となります。

新9区、大阪城の築城が進められると同時に城下の開発も進められました。廃城になった伏見からも住民が移住してくると船場の北端に伏見町が生まれました。船場周辺の農村は村ごと他所へ移され、そのあとに次々と新しい町屋が建設されました。これが天満、西船場、南船場、島之内、堀江となり、依然からの船場と合わせて大坂三郷として明治に至るまで、『天下の台所大阪』の市街地となるのですが、徳川はこの新しい町に上水道を敷設することはしません。それどころか太閤の時には造られた下水も造ることはせず、埋立地に干拓と、水運、下水を兼ねて堀川を縦横に掘削しました。その多くは昭和30年代に埋め立てられましたが、残る堀川にはいまだに下水が垂れ流されています。道頓堀が浄化できないのはその為だと言われています。」

次回に続く。