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木村重成・大阪市中之島・東大阪市若江・八尾市幸町

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若江岩田に住んでおられる取引業者の馬場さんが木村重成のことを教えてくださいました。御親戚の馬場さんの家に木村重成の碑があるそうです。大坂夏の陣で討ち死にしたのが若江で、その墓が玉串川と寝屋川の交わるところにあるのは私も聞いていまして一度行きたいと思う内に、いつのまにか日が経ってしまっていました。

とりあえず、馬場さんが中之島にある碑のスマホの写真(中之島にある碑)を見せて下さったので、中之島に行ってみました。近くに住んでおられると思われるお爺さんがいましたので、聞いてみたら、御存じではなく、あるとすれば公会堂の近くだろうと教えてくださいました。次に公会堂の近くで着物を召したかなりの年配の何かの師匠というイメージの女性に聞いていましたがご存じありません。掃除をしているグループを見つけて聞いてみますと、連れて行ってくださいました。思ったよりはるかに大きな石でした。

私と同様、中之島に縁のある人でも、ほとんどの人は木村重成の碑のことは知らないのですね。インタ―ネットに歴人マガジンというのがありますが、そこで木村重成のことを「見た目も中身も超イケメン」と評価して紹介しています。

1) わずか22、3歳くらい、夏の陣で討死した重成の姿です。「首実検の場に運ばれてきた重成の首を見て、家康は目を見張り感嘆した。」この話が私が知っている木村重成の唯一の情報でした。重成の兜は固く結ばれ、はしが切り落としてありました。二度とこの兜を脱ぐまいと討死の覚悟です。重成の髪には香が炊きこめてあった。「これぞ武士の心構えだ」と家康は重成の覚悟と風雅を褒め称えました。

2) 重成は若く、実戦経験に乏しかったため、大阪城内で軽んじられていました。しかし、馬鹿にされることがあってもかれは受け流していました。あるとき、茶坊主までがひどく彼を侮辱しました。さすがの重成も刀を抜くかと周りは息を飲みました。しかし、「本来ならお前を切り捨てるところだが、それでは私も腹を切らなければならない。今は秀頼様のために死ぬ時で、お前ごときのためには死ねぬのだ」と静かに言い、微笑んだのでした。これ以降、だれもかれを軽く扱う人はいなくなったとのこと。

そのほかにも、戦場に戻らない部下を危険を冒して探しにいったことなどいろいろありますが、武勇にも優れ、心身ともにイケメンだったということで人気があったのですね。

ただ、一昔前の人々の心を打ったでしょうが、いまの若者たちにはその価値観はないでしょうね。命を懸けるもの、ましてそれが上司となれば?

非難の意味ではありません。なにか価値観の異なる新しい世の中がくる予感がするのです。

 

 

 

産業革命の影響・大阪の歴史17(この1世紀12)

『徒然れしぴ』(杉本吉徳著) 前回からの続き

「江戸堀に『此花の井』と呼ばれる古井戸があります。ここにあった石見津和野藩蔵屋敷のもので、船場の名泉といわれていました。このような大名の蔵屋敷や、船場の豪商の屋敷では、掘抜きの井戸といって地下の岩盤の下にまで掘削して良水を汲み出していたところもありました。

水の都とは言いながらも飲料水には不自由した大阪ですが、日清戦争の終結した明治28年(1895)に、ようやく第一期大阪市上水道が完成し、市内の一部に通水が始められました。大正3年(1914)大阪市柴島水源地が完成しましたが、その後も大阪府全域に上水道が敷設されるまでには100年近い年月がかかりました。

昭和31年(1956)公団アパートにプレス加工の『ステンレス流し台』が採用されて、目玉商品となり文化生活のシンボルのようにいわれました。それまで、地方の町工場で細々と作られていた木製や、コンクリート製の流し台に変わり、大手メーカーが『ユニット式流し台』を次々発表して参入してくると。流し台の生産は、一気に近代工業の分野に移ってしまいました。

『おくどさん』や『へっついさん』に』『薪』『柴』、『かんてき』『火鉢』に『炭』『練炭』『炭団』、といった火にまつわる生活や、『水がめ』に『はしり』や『流し』といった水周りの生活。『炬燵』『火鉢』『囲炉裏』といった日常生活が、いつのまにか、遠くに行って、ガスレンジ、ガステーブル、クッキングヒーター、電子レンジ、ホットプレート、オーブンレンジ、炊飯ジャー、シンクタンク、ガス給湯器、食器洗い乾燥機、ジャーポットなど、次々に台所を便利に、清潔に使える製品が開発発売されて、とどまるところを知らない状態になりました。長い人類の歴史のなかで、手作りで作り上げられてきた文化に、産業革命以降の20世紀の出来事でした。」

輸送関係も同じです。今から60年ほど前、4輪のリヤカーを引っ張る貨物用の丈夫な自転車が活躍していました。また、ミゼットという名前でダイハツから三輪の自動車が発売されました。足でペダルを踏んでエンジンをスタートさせます。ケッチンという反動があるのでそれをうまくかわしながら行います。ミゼットは三輪なのでバランスが悪く、よく転んでいました。当時はほとんど自動車が走っていませんでしたので大きな事故にはなりませんでしたが、通りがかりの人が手伝って起こす姿をたびたび見ました。?それからまだ半世紀くらいだというのに、いまや自動運転の車が発売されています。鉄道・バスなども網の目のようにはりめぐらされて便利さも申し分ありません。

一方、日本では、スマホというのが普及して、いつのまにか町から赤電話が消えています。電話が各家庭に普及し、まちかどには赤電話があるという当時としては進んでいた時代でしたが、それもいまとなっては遠い昔話で、各自がスマホを持ち、離れていても絶えず意思疎通をとることができます。さらに、インタネットで検索すれば大概の情報は得られ、人のつながりは格段に強固になったといえます。

ついでに言うと、ファッションも庶民が芸能人のようなスタイルをしています。身の回りのあらゆるところに急激な変化がおきています。

もう次元の違う世界になったというしかありません。この1世紀の大阪を語る上で、蓮如によって門前町として誕生した大坂、信長によって焼かれたあとの秀吉の大坂、大坂夏の陣によって焼かれたあとの徳川の大坂があり、ここには特に記載されていないが、第二次世界大戦の空爆後の大坂があります。全て燃えつくしたために悪因縁を浄化し、急速な変貌を遂げた、激変とともに成長していった大阪はいま、東京に取り残されたような都市の感が否めませんが、根強い力を秘めて時を待っています。急成長にかき乱されず、つねに縄文時代に戻っても生きながらえる強さを持って新しい時代を迎えようとしています。

文章中、「はしり」とは「流し」のこと。炬燵、火鉢、囲炉裏はそれぞれこたつ、ひばち、いろりと読みます。

今回で杉本さんの『徒然れしぴ』からの「大阪の歴史」シリーズは終了させていただきます。杉本さんありがとうございます。