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十三街道・茶屋辻・在原業平の恋物語

「河内どんこう創刊号」を読むと、聞き覚えのある話ばかりです。しかし、いまの若い人たちや子供に私はこのような話をしたことはありません。十三街道と在原業平の恋物語もそのひとつです。

昨日も、十三街道を登って、水呑(みずのみ)地蔵尊に家族で参詣したあと、美家古の店に寄ってくださった方があります。見覚えのある人だと思ったら、近鉄八尾駅近くで倍音浴アロマセラピーの教室をされている平田かよさんでした。平田かよさんのセミナーを、一度受講して体調がよくなったので、私は毎晩、家にあった仏具のリンで倍音浴をしながらアワ唄を唄います。数分ですが、疲れた体が瞬時に元に戻ります。かよさん、ありがとうございます。

いま、水呑地蔵さんの参拝は神立の故森川裕良さんたちが力を入れてつけられた自動車道を利用される人が増えています。

神立道路1神立道路2

最近、在原業平が通った茶屋辻は、新しくつけられた玉祖(たまおや)神社の下を通る農免道路の工事によって、崖の補強工事が行われ、おもかげは少なくなりました。在原業平は、平安京を開いた桓武天皇の曾孫で、平安時代初期840年くらいの話でしょうか。1000年以上も前になります。

茶屋辻

<在原業平の恋物語>

在原業平は、竜田道から十三峠を越え、玉祖(たまおや)神社参詣のときに見初めた十三街道の茶屋辻の福屋の娘のもとへ通います。この時笛をふいて合図をするのですが、あるとき笛を吹かずに娘の家の東窓からのぞくと、娘がごはんをよそっている姿をを見て、身分の違いを感じ、百年の恋がいっぺんに覚めます。ごはんを手でたべていたという話になってきているそうですが、この時代は自分でごはんをよそうだけでも、卑しいことだったそうです。

在原業平は、その笛を玉祖(たまおや)神社に置いて帰ってしまいます。その笛はいまでも玉祖神社に保管されています。それを知った娘は池に身を投げてしまいます。

茶屋辻2

この時代には、失恋と自殺の話がたくさんあるのですが、「かむながら」の生き方をしている私は、彼らが恋以上の歓びを知らないまま、命を捨ててしまったことに、居たたまれない口惜しさを感じます。その点、今の人はドラマで恋の体験をしてさまざまな生きる道を知っています。ただ、絶えずメールのやりとりをしながら、本心で話せる友がない人が増えているのは問題ですね。

命を捨てるくらいの激しい恋というのも素晴らしいと思うのですが、事実を知ったら覚めてしまうというのは、恋の心は自分の妄想によって高まるのでしょうか。

 

 

 

 

 

大阪府八尾市恩智のいちご・柏原市のブドウ

私が小学生のころ、まだ恩智ではいちごを作っていて、盛んに出荷が行われていました。近鉄が恩智駅までだったころ、天皇に献上する献上列車があったそうです。大和川の付け替え工事で開発された新田でつくられたものです。新田は砂地だから稲作に使えず、さつまいもや、綿の栽培に適していたようです。

いまは、完全に住宅地になっているところで、イチゴ園という地名(呼び名?)が使われていました。私が知る限りでは、もうそこにはイチゴ畑はありませんでした。

私の家でも新田でいちごを作っていて、とっても甘いイチゴでした。ニシンの肥料を使うことで甘くなるのだといっていたように思います。河内どんこうでは、辻合先生の食べられたものはすっぱかったとおっしゃっています。いまのイチゴと違って、朝とったら、夕方には白く傷んでいたのを覚えています。たまに手伝い(?)にいって、腹いっぱい食べていました。(よその家では食べたら叱られたという話を最近聞きました。)

それが懐かしくて、伊豆の下田でイチゴ狩りをしたら、あまり食べられず、おなかがごろごろしました。農薬のせいだと思います。いまのイチゴは1週間ほど保存がききます。当時のイチゴは朝摘んだものが、夕方には白くなって傷んでいました。

もう恩智ではイチゴをつくらなくなってからの話ですが、柏原に元気な若者がいて、「わしは農薬なんかへっちゃらだ。」といって、ハウスの中で農薬を裸でかけていたらしいのですが、しばらくして亡くなったそうです。農薬はこわいという話を聞いたことがあります。つい最近までののイチゴ栽培は出荷までに5,6回農薬をかけていたようです。そのような事情でイチゴ栽培がなくなっていたのでしょうか。

いまは、イチゴに限らず、出荷する農作物には、農薬の検査があって、違反が見つかると、地域全体の出荷が止められる制度ができているそうです。

わたしの家でもぶどう栽培をしていました。ぶどうも甘いものが出来ていました。デラという種類と、本ぶどうという種類でした。青い農薬に種をつけて種無しのブドウをつくっていたようですが、これも健康には良くなかったのではないでしょうか。

このぶどうで葡萄酒もつくられていて、恩智でも、大東家や、坂野家、神田家といった主だったところは醸造権を取得していました。

醸造権と販売権はセットで酒販売の権利もついていて、酒屋さんもされていました。いまは酒の販売も地域が決められていないので、スーパーなどで安売りするようになり、酒屋さんの利益がなくなって、止めていかれる酒屋さんが増えて、酒屋さんの数も少なくなりました。

いまでも続いているのが、大阪府柏原市堅下の堅下ワインで、中野さんが経営されています。もう、35年ほど前の話でしょうか、柏原の青年会議所で中野さんとご一緒させていただいていたのですが、その時、英会話教室も経営されていました。おそらく販路を外国にと考えて進んだ経営をされていたのではないでしょうか。

いまのぶどうつくりは駒ヶ谷が中心です。ぶどうつくりは、ぶどう棚をつくり、上むきの作業が長時間つづき、体調不振になるので、他の農作物がつくれる農家はぶどうつくりを止めていかれました。いまは恩智では全くなくなったのではないでしょうか。私が小さいころあんなに盛んだったいちごやブドウの栽培がわずか50年で消えてしまったのです。その跡地は住宅地にかわり、恩智の地元の人は土地を売ったり、借家を建てたりして、裕福になっていきます。

商売人から、恩智地域の人の買い物が高級品が多いことから、「河内の芦屋」と呼ばれていると聞いたことがあります。大正15年にできた美家古もこうした裕福な地元の人の仕出し料理の注文に支えられて、90年も存続できているのかもしれません。ありがとうございます。