月別アーカイブ: 2015年8月

コープの野村恩智と河内木綿工場

東高野街道と恩智道の交差するところに、萩原邸がある。これを見るたびに一時全国的な規模になっていた河内木綿にかかわっていたのではないかと思っていました。地蔵盆で隣の地蔵さんを世話する萩原さんをみかけ、このあたりの歴史に関するお話しを聞きたいとお願いしたら快く引き受けていただきました。これまでの「河内の翁」のブログの記事を印刷に出してポストに入れておいたら、お電話いただいて、そのお電話でいくつか教えていただきました。

80~90歳くらいの人なら、知っていることらしいのですが、私には初耳です。萩原さんの木綿工場は東高野街道沿い、萩原邸の北側、山手寄りにあったということです。その後、木綿工場がいまの「コープ野村恩智」ができている地に移転した跡地には別の工場ができていて、その工場があったのは私も知っています。最近、そこも住宅に変わりました。

移転した木綿工場は、時代とともに、別の工場となり、さらに私の小さい時に「浅田可鍛」という鋳もの工場になりました。従業員のかたには美家古にも食事に来ていただきました。硫酸を扱っていて、ベテランの人は「硫酸の中に手をいれても火傷しない」という話をすると、美家古のスタッフもうなずいて、「私も180度のてんぷら油に手をいれても火傷しない」といっていました。人の体とは不思議なものですね。慣れでそんなに変われるものなんですね。

田舎から出てきて独身寮に入って居る人も大勢いて、正月も帰らない若い人たちは、美家古のスタッフと一緒に美家古で餅つきをして楽しんでいました。

「浅田可鍛」には地元の人も多く働いていて、「浅田可鍛」時代の話はときどき聞かせていただきました。この土地からも、縄文時代の遺跡が出ています。

その工場も地方に移転して、跡地に大きな分譲マンション「コープ野村恩智」が建ちました。そのマンションも高齢化がすすんでいます。

コープ野村恩智

土地の様子は時代とともに、めまぐるしく変わり、そこに関わる人もそれにつれて変わっていくのですね。それぞれの人になつかしい思い出を残して。

河内木綿が全国に行き渡っていたころ、輸送ルートはどうだったのでしょうかという質問に対して、

「詳しいことは分からないが、淀川から舟で全国に運ばれ、木綿とともに、他の品物や、文化の交流もあった。司馬遼太郎の「菜の花の沖」を読んだことがありますか。」

と聞かれました。哲学書や科学書などはよく読みましたが小説と歴史は、全く関心がなかったので、69歳になるまでほとんど読んでいません。小説は、先日三浦綾子さんの本を数冊いただいて興味深く読ませていただきました。歴史もこのブログを書き始めて知り、それぞれの時代を生きた人々にふれることができた気がしています。

165号線を走った帰り、さっそく、柏原市立図書館に寄って、司馬遼太郎の「菜の花の沖」全6巻のうち、第1巻を借りてきました。

菜の花の沖

淡路の都志の浦で生まれた主人公が海運業へかかわっていく背景になるところを読みました。地域社会にがんじがらめになった不自由な世界、しかし、しっかりと確実に生きていく地域の組織と一人の人の人生が、恩智の山際、旧街道から上の少し前の社会を連想して時代背景も見えてきます。楽しみです。

六甲山麓の住吉川、芦屋川の急流ぞいに水車工場がうまれ、菜種油を昼夜搾取しはじめて、効果だった菜種油は、大量生産によってやすくなり、全国に配るために、兵庫や西宮あたりの海運業が栄えた。明石海峡を隔てた淡路は、対岸で人口がふえるため、淡路ではさかんに瓦を焼いて舟で送った。対岸の需要に応えて、淡路島では大量のアブラナ(菜種菜)が植えられた。

大和川の跡地に木綿畑が一面にできたのと同じような現象がここでも起こっています。1769年、この地の貧しい家に主人公・幼名キッキャが生まれます。11歳の時貧乏百姓弥吉家の自分の食い扶持を減らすために隣村の親戚の小間物屋に奉公にいった。そこの村ではよそ者と呼ばれていじめられる。私が小さいころ、恩智でも地元以外の人間はよそ者と呼んで、見下すような目先で見ていました。(いまは、教育のおかげでみんな大切な仲間として意識しています。)やがて、キッキャは年頃になり、庶民の元服である「へこ祝い」をする。名前を嘉兵衛とかえる。小字ごとにある若衆組に入ることになる。恩智では、氏子青年団に入るようなものでしょう。ここで、上下関係の礼儀や、社会のさまざまを学びます。

このあたりまでしか読んでいませんが、江戸幕府が五百石以上の船を取り壊し、製造を禁止して、100年の年月が経った頃から、菱垣船とか、樽廻船などの長距離開運が盛んになって、やがて、航路が全国的に安定する頃に河内木綿がさかんになってくるのですね。おもしろくなってきます。本の内容はまた紹介したいと思います。

60年前の自動運転は目的地で止まった?

最近、衝突を避けるための自動運転装置が装備された車が増えています。しかし、60年前には、目的地まで、後ろの座席で居眠りしていても、到着すれば、止まってくれる車があったのをご存じでしょうか。

これも板倉さんに教えてもらいました。60年くらい前まででしょうか、農家の人が布施や大阪の住宅地に牛の後ろに馬力とよばれる車をつけて2時間ほどかけて肥やしにする人糞の汲み取りに出かけていました。

そのときは、後ろの座席で居眠りをしていたそうです。牛はいつもの場所を覚えていて、そこに着くと止まったそうです。事故も起こさずに目的地まで自動運転できるなんて、昔は進んでいた?のですね。

 

 

八尾市恩智の天王の森は苺の集荷場だった。

昭和35年くらいまでの話です。恩智の村の旧大和川跡地の畑は一面苺畑でした。いちご園という地名までありました。天皇陛下に献上する苺電車があったことを以前のブログで紹介しましたが、こんどはその集荷場の話です。

天王の森がいちごの集荷場になっていて、朝7時ごろから40~50代の車が苺を引取にきていたそうです。いま苺畑はありませんが、一時は、それほど大きな苺の産地だったのですね。

その頃の天王の森には石垣で囲われていなくて、縄文時代のヤジりがいくらでも取れたそうです。

生駒山脈中腹の池

八尾市恩智や、東大阪に至る生駒山脈の西斜面には小さな池がたくさんありました。そこで魚を飼っている業者があって、私も小さいころ、そこの魚をとって叱られたことを覚えています。そこから流れる小さな谷にもドジョウや、めだか、金魚なども豊富でした。

この池は最近まで魚を飼うためのものだとおもっていましたが、板倉さんから話を聞いて、そうではないことを知りました。

もちろん、いま魚釣りをさせている池は魚を飼うための池です。しかし、たくさんあった池は本来、農家が、自分の畑に水を引くためのものだったようです。魚を育てる業者はその池を借りて魚を養殖していたようです。魚を飼うことで、池の水が腐らないので、お互いに利があり、このスタイルが定着したようです。

その後、鯉やフナ、金魚などがあまり売れなくなったし、農家の畑も住宅地に代わるなどで、最近池がなくなり、池も住宅に変わりました。

 

八尾市恩智の地蔵盆

地蔵盆1地蔵盆2

西町子護地蔵 ↑                  西町子護地蔵 ↑

8月の23日、24日は毎年、地蔵盆でにぎわいます。お菓子がもらえるので、子供たちは大喜びです。

「手を合わせて、ありがとうございますといってからお菓子をもらうのよ。」

と教えられて、お母さんからもらったお金を賽銭箱に入れて、券と引き換えにお菓子を受け取って、顔は満面の笑顔です。役員さんたちは対応に大わらわですが、子供たちから元気をもらっています。

首なし地蔵 ↓                       首なし地蔵 ↓

地蔵盆3?地蔵盆4

北向き地蔵↓                    ?

地蔵盆5DSC_0151

DSC_0153地蔵盆9

シュミイ地蔵↑                        永禄地蔵↑

まだまだたくさんあります。写真は一部だけです。

地蔵盆は子供たちが主役のお祀りです。小さな村のいたるところで子供たちの喜びそうな供え物をして、お祀りします。おばあちゃんが孫たちの所在をケータイで確認しながら、どの地蔵さんにいっているのか教えてもらって、孫たちのところに向かっていました。時代ですね。

巽地蔵↓

DSC_0156

 

地蔵尊(菩薩)は、ウィキペディアによると、

「サンスクリット語ではクシティ・ガルバという。クシティは『大地』、ガルバは『胎内』、『子宮』の意味で、意訳して『地蔵』としている。

大地がすべての命をはぐくむ力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救うところから名付けられたとされる。」

 

 

盆踊りは元は念佛踊り?

盆踊り盆踊り夜店

お盆の行事だから仏教と関係があるのだろうと思って、ネットで調べてみましたら驚きです。元は良忍上人の「なむあみだぶ」を唱え続けながら踊る念佛踊りだったのですね。

良忍上人は、平安時代の1117年、阿弥陀仏より霊示を受けて、、「1人の念仏が万人の念仏に通じる」という自他の念仏が相即融合しあうという立場から融通念佛を創始しました。不断念佛といって念佛を唱え続けるということも教えた。また、声明(仏教の合唱音楽)を復興させた。これらが、民衆の間に広まっていった。

これに鎌倉時代の1279年に時宗の開祖一遍上人が始めた踊念仏と合わさって、盆踊りの原型となった。一遍上人は、鹿児島神宮で、神詠「とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶに生まれこそすれ(常に南無阿弥陀仏と念仏すれば、弥陀と一体になり浄土に生まれることができる)」を拝し、これを民衆の間にひろめた人です。

このようにして、仏教は民衆のあいだに唄い、踊る宗教として広まっていきました。武家による封建社会になって戦争が絶え間なく起こり、鎮魂の意味をも担っていました。念佛講が組織され、「祖霊」を迎え入れて祀る宗教行事・盂蘭盆会や、施餓鬼などの供養と共にお盆の行事として定着していきました。

南北朝の動乱が終わり(1392年)、1467年の応仁の乱がおこるまでの約80年の間に盆踊りが誕生したと書かれています。戦国時代の16世紀は日本中が踊った時代であるそうです。

この盆踊りで、先日ブログで紹介した「俊徳丸」の話が唄い?語られたのは仏教の教えとして自然な流れだったことがわかりました。いまは、本来の姿から離れて、盆踊りが楽しまれています。

仏教寺院を引き継ぐ若い上人たちが、いまの時代にこそ、今の盆踊りとは別に、本来の盆踊り、念佛を唱えながら踊り続ける「念佛踊り」を復活させるというのはどうでしょうか。融通念佛宗や、時宗の中で、あるいは仏教宗派を超えて。若い人たちに仏教に関心をもたせるためのパフォーマンスとしておもしろいのではないでしょうか。

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大阪府八尾市教興寺・真言律宗教興寺

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教興寺は、奈良市西大寺の末寺になります。聖徳太子が物部守屋の討伐を祈願するため、四天王のひとりである秦河勝に命じて、588年に建立されました。その後荒れ果てて、鎌倉時代に奈良・西大寺の叡尊が復興します。戦国時代1562年、河内国守護畠山高政と、三好義興・松永久秀の軍勢との合戦(畿内最大規模の戦争といわれる)となり、教興寺は戦火に巻き込まれ伽藍と多くの施設を焼失しました。

江戸時代1679年浄厳和尚が入り、この寺を再建しました。この時代、浄厳と親交のあった近松門左衛門がこの寺に寄宿していてその墓もあったといわれています。近松門左衛門の代表作浄瑠璃「曽根崎心中」の元になった話を杉本さんが「河内風情・教興寺と近松門左衛門」で書かれていますので紹介します。

「伝えられるところ、教興寺村に宗二という者がいて、その娘のお初は大阪の曽根崎につとめていたが、そこで木綿問屋の養子徳兵衛と恋仲になった。お初の父宗二が病に伏したのを機に、教興寺に帰ってきた二人は、寺の住職であった浄厳和尚に仔細を打ち明け相談に乗ってもらった。そして浄厳和尚の裁量で、徳兵衛は教興寺の寺男として務め、お初は年季の明けるまで曽根崎で務めた。年季が明けて二人はめでたく夫婦になることができたのだが、その後まもなく徳兵衛が病死し、後を追うようにしてお初もなくなったという。

浄厳和尚はこれを憐み、碑をたて(現大通寺境内)手厚く回向したという。教興寺に滞在していた近松門左衛門は、和尚からこの話を聞き有名な浄瑠璃『曽根崎心中』を書いたと伝えられている。

『この世もなごり、夜もなごり、死にゆく身にたとふれば、仇しが原の道の露。』

この物語の中で二人が心中したとされた曽根崎露天神社は『?お初天神』と呼ばれ、今も参拝客が絶えない。」

四天王寺が蘇我氏・聖徳太子側の勝利のあと、喜びと感謝のこころで建立されて、栄えたのに対し、教興寺は、物部氏を滅ぼすために建てられて、その後何度も、消滅の危機を迎えていて、いま、消滅寸前の様相です。教興寺合戦という畿内最大の合戦を引き寄せたのも物部氏を滅ぼそうとする大きな念の名残でしょうか。「人を助けば、わが身助かる」と教える天理教の大教会が隣にできているのは、念の浄化のための天の計らいでしょうか。宗二とお初は地に蓄えられたその念を受けてしまったのでしょうね。

大阪府八尾市山畑・俊徳丸鏡塚

南高安老人会の副会長をされている杉本さんに資料をいただきました。数年前、町会と老人会の親睦を深めようと、毎月の町会の例会に杉本さんをお招きして、地元の歴史をお聞かせいただきました。私自身、地元の歴史にうとく、新鮮な気持ちでお話しを聞かせていただきました。そのときには、ブログで河内の歴史の紹介をするなど、予想もしていませんでしたが、先日お会いしたときに、

「ブログにこのあたりに言い伝えられてきたようなものをブログに書こうと思っています。なにか、資料をください。」

とお願いしました。

いただいた資料の中に、「俊徳丸鏡塚」というのがありました。「河内風情」と書かれた5つほどの用紙の一つで、杉本さんが何かに連載された原稿をコピーしていただいたようです。

「俊徳丸の物語は古く、室町時代には能の『弱法師(よろほうし)』として、また戦国時代からは説教説『信徳丸』として、そして江戸時代には、浄瑠璃の『摂州合邦辻』として、今日にいたるまで、講談や音頭、演劇などにとりいれられて全国的に知られている。」

と、紹介されていますが、私には縁がなく、話の内容は聞いたことがあるというだけのものでした。

「河内の国高安郡に山畑の信吉長者と呼ばれる人が住んでいたという。この長者夫婦に一人息子の俊徳丸がいたが、美男で聡明で、四天王寺の稚児舞にも出演していたという出来すぎた御曹司であった。

その凛々しい姿には、近くの蔭山長者の娘も肩入れしていたし、俊徳丸もまた娘を見染めていて相思相愛だったとか。しかし、長者の家の幸せは長くは続かず、美しくてやさしい俊徳丸の母親が若くして病死してしまった。

父親は京都から後添えを迎え、まもなくその継母に男の子が生まれたそうな。

さあ、そうなると世の常、人の常、俊徳丸が疎ましくなった。

なんとか俊徳丸を失脚させて、わが子を跡継ぎにしたいもの、継母の呪いが始まった。

「子の刻参り」というのか、俊徳丸の人形に137本の釘をうちつけ呪い続けたという。俊徳丸はらい病を患い、盲(めしい)となって捨てられた。

行くあてもなく、通いなれた四天王寺に着き、参詣者で混み合う人ごみにかくれ、いつしか物乞いに落ちぶれていった。

その話を聞いた蔭山長者の娘は、来る日も来る日も、狂ったように彼を探し歩いた。

四天王寺の片隅で眼の見えない彼を見つけてうれし泣き、彼を抱きしめ仏にすがった。

『どうぞ俊徳丸の病が治りますように、もとの体に戻りますように』

と、懸命にお参りを重ねた。

そのうち観世音菩薩の霊験を得て病は全快したという。俊徳丸は蔭山長者に迎え入れられ養子となり、娘を嫁に蔭山家を継いだ。

蔭山長者はますます繁盛したが、一方の信吉長者の方は、没落の一途をたどり、父親も亡くなり、継母親子は乞食になったとか、俊徳丸の世話になったとか伝えられている。」

四天王寺は、先のブログで紹介した「阿都の村人」での蘇我氏側の聖徳太子が物部氏との戦いで、その戦いに勝利したら必ず四天王の寺を建てると誓願して、勝利の後に建てた寺(593年に造立開始)です。

河内国の北部の方で、呪術集落があって、発掘調査の結果、川のほとりから呪術につかわれた道具が大量に発見されました。「人を呪えば穴二つ」という言葉がありますが、念のエネルギーは自分の体の内側から現れて、相手に届きます。自分自身も傷つけるということを俊徳丸の話は教えているのでしょう。この話を聞く機会にめぐまれたこのあたりに住む人は救われたと思われます。

「いまも俊徳丸が四天王寺に通った道に『俊徳道』なる名を残しています。

夏の夜の、盆の踊りに語り継がれて、河内野の昔話として風情を残す。」

と書いておられます。近鉄線大阪線にある「俊徳道」という駅の名前は、ここからきていたのですね。

河内・高安の里に追いやられた小野小町

高安の里とは、神立から恩智にいたる生駒山の西側の村です。ここに小野小町が住んでいたことがあるとは知りませんでした。古今集にでてくる、9世紀のころの歌人です。絶世の美女で歌がうまいので男性の憧れの的だったようです。

「河内のものがたり」(編著堀井健一)で堀井さんはつぎのように書いています。

「やんごとない殿方が、次から次へ恋の和歌を送って口説いたのでっけど、歌が気に入らんかったのか、なかなかええ返事をもらえんかったのでっしゃろなあ。振られた男の中に、小町はんの評判や人気を快く思わんかった奴がいよったんですわ。

帝にいろいろ悪口をいいにいきよったんですわ。帝も初めは耳をかされることもなかったのですけど、大伴某ていう歌上手の男が歌のねたみもあって「帝の作られた歌の悪口を、小町がいっております。」とええかげんなうそを奏上したのを信じてしまわれるようになってしもうたようですねん。

「いくら評判がいいからといって、私の歌にまで口を出すのは、ちと思い上がりかもしれん。月見の宴で小町の非を明らかにする証を示せば、そなたのいうことを信じよう。」

と、帝がおっしゃったのです。

中略。

あの大伴某がそっと帝に近づき、万葉集の草子を出してみせたのです。(小野小町と同じ歌がのっていたのですね。それなら盗作ということになります。)それを一目見て、帝は不愉快な顔になり、

「思い上がりもはなはだしい。他人の歌を自分のものにするとはもってのほか。昇殿を許さぬ。河内の国、高安の里に送り、非を反省させよ。」

と命じて席を立ってしまわれましたんや。

中略。

そして、訪ねる人ともない淋しい片田舎の庵で、けものの鳴き声におののきながら、華やかな都の生活をしのび、わが身の不運をなげき、涙にくれる毎日を送ってはったんです。

見るに見かねて、いろいろ世話をしてくれた村人たちに励まされて、やっと気をとりなおした小町はんは、自分の無実をなんとしても帝にわかってもらおうと、つてを頼ってはせっせと歌や文を帝に送りました。

また、日ごろ信心している石清水八幡宮だけでなく、近辺の神社にもお参りして、こごえる手を合わせて、

「私にはけっして身に覚えがないことで、不興をかっております。どうか私の無実を都にお伝えください。」

と、何度も何度もお願いをしはったのです。

そのかいがあったのか、冬枯れの高安の里に淡いピンクの花の香が戻ってきたころ、都の帝から使者がやってきましたのや。

「小町の願いを聞くことにする。都に戻り、私の前で疑いをはらしたならば罪を許そう」

と伝えましたのや。

これを聞いて小町さんは、いそいで帝の前に参上しはったのです。帝は大伴某のもってきた草子を出して、

「この歌は月見の宴で、そなたが詠ったものと同じだ。その歌が何故、この草子に記されているのだ。」

と問いただされました。小町はんはじっとその草子をみつめて、信じられないことと思わはりました。

「この歌は確かに私が詠ったものと同じでございます。それがどうして、この万葉草子にあるのでございましょう。八千代のよろず神にかけて、偽りは申し上げておりません。」

と、驚きと悲しみの涙を流さはったのです。

その涙が草子の上にはらはらと落ちると、なんと、墨がじわっとにじんでいき、文字が消えていったのですわ。

大伴某がこっそり書き込んでいたのでんなあ、ほんまに悪い奴がおったもんや。」

これが「草子洗小町」という謡曲になって今も伝わっているようですが、謡曲に縁のない私にはわかりません。しかし、涙で墨が消えるというのは出来すぎていますね。

最後に有名な小町のこの歌でしめくくらせていただきます。

 

花の色は うつりにけりな いたづらに

わがみよにふる ながめしまに

 

 

南北朝時代と足利尊氏・楠木一族・恩智

楠木正成の敵となったり、味方となった足利尊氏とはどういう人物だったのでしょう。崇拝する後醍醐天皇と戦わなければならない立場になって、戦いを弟の足利直義にまかせて、寺にこもってしまった足利尊氏は、神仏からどんな啓示を受け取ったのでしょうか。ふっきれたように寺を出て苦戦する弟の戦場に向かいます。ここでは勝利を収めますが、その後、この弟と敵対することになります。

鎌倉時代後半から室町時代は、戦の連続です。楠木一族も正成亡き後も子供たちが戦いを続けます。正行、正時兄弟も足利尊氏の高師直に敗北し正成に見習って自害します。

勝者足利尊氏は安泰かというとそうではありません。権力争いは兄弟も敵どおしになります。尊氏は躁鬱症でしたが、躁状態のときは、勇猛果敢に敵をやっつける力にあふれ、弟直義は、着実で知性あふれる能力を持ち、二人あわせれば、どんなこともできそうなよいコンビでしたが、欲にまみれた周辺の者が二人を敵対させます。それと、つづく戦いの中での怨念がからみあい、関係はこじれ、修復できなくなります。

当時、恩智左近が支配していた、本来豊かなこの恩智の村も、けっして平穏な暮らしができたとは思えません。混乱の時代は、3代足利義満のとき、1392年南北朝が統一されたときまで続きましたが、統一後は、しばらく平穏な時代がありました。、その後、下剋上と呼ばれる戦国時代を迎え、経塚で紹介した織田信長の信貴山の寺社の焼き討ちは、恩智神社や、恩智の寺々にまでおよび、江戸時代になるまでは、戦禍や不穏な動きに悩まされた事でしょう。